▽ 11-3
ピピッっと繰り返される電子音。眠たい目を擦りながら、アラームを止める。枕元に置いてある携帯を見ると、時刻は九時を少しすぎたところ。
カーテンの隙間から差し込む太陽の光に目を細める。それはいつもと変わらない朝。
欠伸をかみ殺しながら、ベッドから出ようとした私の体は自分の意に反してぐらりと後ろに傾いた。
「・・・・・・どこ行くんだよ」
少しだけ乱れた髪にまだ完全に開いていない瞳。いつもより少しだけ低いかすれた声でそう言いながら、零が私の腕を掴んでいた。
ベッドに引き戻された私の体を、そのまま抱きしめる彼。
甘えるように私の肩に顔を寄せると、すぅすぅと小さな寝息が聞こえてくる。前髪の隙間から覗くその寝顔は、いつもの凛とした姿とは違って可愛く思えた。
もう何年もの間、ずっと一緒にいた零。眠る彼を見るのも初めてのことじゃない。それでも気持ちがはっきりとするだけで、こんなにも心臓がどきどきと高鳴るのだ。
「零、起きて。九時には起きるって昨日言ってたじゃん」
「・・・・・・ん、起きてる」
嘘つき。寝息たててたくせに。
そんなことを考えていると自然と口の端が上がる。
「・・・・・・なんかいいな」
「え?」
いつの間にか目を開けていた零の右手が私の頬へと伸びた。
私を見るその瞳がどこまでも優しくて、心臓がまた大きく脈打つ。
「朝起きてなまえが隣にいる。それだけで世界が違って見える」
「・・・っ、」
「幸せだって思えるんだ」
飾り気のない言葉で真っ直ぐに紡がれた零の気持ち。柔らかく笑うその表情が愛おしいと思った。
あの日から再び一緒に暮らし始めた私達。
空っぽだった零の部屋に置かれたダブルベッド。別々だった私達の部屋がひとつになった。
相変わらず忙しい彼がこの家にいる時間は短い。
私が眠った後に帰ってきて、私が起きる前にいなくなることだって少なくはない。それでも零は私の隣に帰ってきてくれるから。
それだけで幸せだった。
小さな毎日の積み重ねが幸せに繋がる。
ヒロくんの言った通りだね。
朝起きて隣に零がいて、おはようって笑いかけてくれること。
眠たいねって話しながら、一緒に朝ごはんを食べることができること。
仕事が終わって帰ってきた零を、おかえりって迎えることができること。
同じベッドでその優しい体温を感じながら眠りにつくことができること。
その全てが今の私の幸せだった。
*
ベッドからでた私達は朝食を済ませると、零の運転である場所へと向かった。
途中で立ち寄った花屋さんで私が選んだのは、シオンだった。
「なんでその花にしたんだ?」
赤信号で止まった車。私が胸に抱いていたシオンの花を見ながら零が口を開いた。
「シオンの花言葉知らない?」
「知らない。どういう意味なんだ?」
「零にも知らないことあったんだ」
冗談めかして小さく笑うと、零は態とらしく片方の眉を上げた。
「うるさい。さっさと教えろよ」
「えへへ。零には内緒!」
私はそのシオンの花をぎゅっと抱き締めた。
*
ずっと近付くことができなかったその場所に近付くにつれて心臓の音が大きくなる。
そんな私の胸の内を見透かすように、こうして話しかけてくれる零。
私達がやってきたのは、とあるお寺だった。
それはヒロくんが眠る場所。
零は定期的に来ていたようだけれど、私はずっと来ることが出来なかったその場所。
ここに来てしまったら全てを認めることになるから。零も無理にこの場所に私を誘うことはなかった。
「大丈夫か?」
墓石の並ぶその場所に近付くにつれて、歩くペースが遅くなる私を心配して零が振り返る。
怖くないわけじゃない。
認めたくない気持ちは今でもある。
けれどそれ以上に、ちゃんとヒロくんに話がしたかった。
その時、零の手が私の手を握った。
「大丈夫だから。お前は一人じゃない」
私より大きくて少しだけ温度の高いその手。不思議と心が落ち着く気がした。
慣れた様子で通路を歩き、一つのお墓の前で立ち止まる零。
その墓石に刻まれている名前を見た瞬間、私の頬を涙がつたった。
「・・・・・・っ・・・、ヒロくん・・・。来るのが遅くなってごめんね・・・っ・・・」
私は墓石に刻まれた彼の名前に手を伸ばした。
冷たい。
もう二度と感じることのできないヒロくんの体温。
その事実は容赦なく私の心を抉る。けれどそれでも目を逸らさずに真っ直ぐにヒロくんに向き合えるのは、私の左手を握ってくれている零の体温のおかげだった。
「やっと三人で会えたな」
「・・・・・零・・・」
その言葉にまた涙腺が緩む。私は持ってきていたシオンの花を花立てにそっと生けた。
ゆらゆらと薄紫の花弁を揺らすシオンの花達。
私と零はそっと目を瞑り、手を合わせた。
ヒロくん。
やっと会えたね。
ずっと会いに来れなくてごめんなさい。
言葉は返ってこないけれど、ヒロくんにはちゃんと伝わっている気がして胸の中で言葉を続けた。
やっと。
やっと少しだけ。
前に進めたよ。
さよならも言えずにこの世からいなくなってしまったヒロくん。最期の瞬間、ヒロくんは何を考えていたのかな?
優しい貴方のことだから。
私と零のこと、きっと心配してくれてたよね。
瞳の裏に浮かぶのは、優しく笑うヒロくんの姿だった。
一人だったらきっと心が折れていた。
そんな私が今こうしてここに立っていられるのは、ずっと支えてくれた零のおかげ。
そして・・・・・・、
ヒロくんから貰った惜しみない愛情のおかげなんだよ。
悲しみのどん底で忘れかけていたその事実。
間違いなく私を愛してくれていた貴方だから。
注いでくれた愛情は、色褪せることなく私の胸の中にあるから・・・・・。
そんな風に愛してくれたヒロくんが、私の幸せを願ってくれていないわけがない。今ならそう思える。
きっと逆の立場なら、私もヒロくんの幸せを心から願ったはずだから。
ずっと、ずっと、これからもヒロくんは私の特別な人。
いつか私達がそっちに行ったらまた三人で笑えるよね。
ふわりと風が私の頬を撫でた。
私がそっと目を開けると、隣に立っていた零がこちらを見ていた。
「ちゃんとヒロくんに話せたよ。連れてきてくれてありがとう」
「景もなまえに会えて喜んでるだろうな」
優しく細められた零の瞳。けれどその瞳の奥に見え隠れする小さな不安。
私は零の手を握った。
「ヒロくんのこと、今でも特別な人だって思ってる」
「知ってるよ」
「でも零のことが好きって気持ちは嘘じゃないよ。同情でも逃げでもない。零がずっと私の事を大切にしてくれてたから。その気持ちが嬉しくて、私も零のこと大切にしたいの」
今だからきちんと言葉で伝えないといけないと思った。
「零と一緒にいられることが今の私の幸せだよ」
繋いでいた手にぎゅっと力を込めると、同じく握り返される。
不器用な私達だから。
言葉にしないと伝わらない気持ちがあるから。
零に向けているこの気持ちは、決してヒロくんを失った悲しみを誤魔化すためじゃない。
それを零に分かっていてほしかった。
「・・・・・・景、お前に誓うよ」
零は私から視線を外し、ヒロくんのお墓を真っ直ぐに見た。
「お前が何よりも大事にしてきたなまえのこと、今度は俺が誰よりも幸せにするから」
「っ、」
「だから見守っててくれ」
零はそのままお墓に頭を下げた。
その姿に止まっていたはずの涙が瞳から溢れた。
「まだまだ泣き虫からは卒業できないな、なまえは」
「っ、零がそんなこと言うから・・・っ・・・」
「景に誓うんだ。お前のことになると過保護な奴だったから、破るわけにいかないだろ」
小さく笑った零につられて私も泣きながら笑った。
零はその涙を拭うとそのまま私の髪を撫でた。
「俺との未来を望んでくれてありがとう」
「私の台詞だよ・・・っ・・・」
私達の間を強い風が吹き抜ける。
供えていたシオンの花弁が数枚、ひらひらと辺りを舞った。
澄み渡った青い空と、宙を舞う薄紫の花弁。
綺麗だと思った。
あぁ、この世界はこんなにも美しかったのだ。
まるでそれはヒロくんからの祝福の言葉に思えた。
prev /
next