▽ 11-2
side R
しんと静まり返った車内。
なかなか話を切り出そうとしないなまえ。
それほどまでに言い難いこととはなんだろうか。
「沖矢昴のことか?」
いきあたった一つの可能性を口にするも、なまえは何も答えない。
「あいつとあの後も会ってるんだろ?何かあったのか?」
二人があの後も何度か会っていることは知っていた。偶然とはいえないそれは、きっと沖矢昴が仕組んだものだろう。
口を出せる関係じゃない。だからこそ何も言わなかった。風見からの報告では、あいつがなまえを傷付けたり何かをするような報告はなかったから。なんとも言いようがない歯痒さを抱えながらも黙っていたのだ。
「・・・・・・何かされたのか?傷付けられるような事があったんなら・・・っ」
なまえの表情が少しだけ曇ったことで頭にカッと血がのぼる。思わず少し声を荒らげた俺を彼女は慌てて制し、腕を掴んだ。
「っ、違うよ!何もされてない。ただ相談に乗ってもらっただけ」
相談。
その言葉に苛立つ自分がいた。
「相談?」
「うん。・・・・・・零は私に、ヒロくんでも零でもない誰かが私のことを幸せにしてくれるって言ったよね?全部忘れて幸せになれって」
俺の腕を掴んでいたなまえの手が小さく震えていた。
言葉をかけてやりたい。今すぐその手を引いて抱きしめてやりたい。
叶わないと分かっていても、そんなことを考えてしまう自分がいた。
「・・・・・忘れられないよ、全部」
涙声でそう言った彼女から視線が逸らせなかった。
景がいなくなった世界。
真っ暗になったその世界で唯一の宝物のようななまえ。
なまえが景を想って泣く度に胸が締め付けられた。
俺にはどうにもしてやれなかったから。
だったらいっそ忘れてほしいと願った。
けれど目の前の彼女は、やはり景を忘れられないと涙を流している。
「今の私がいるのは、今までのヒロくんとの思い出があるからなの。忘れられるわけがない。忘れたくない・・・っ・・・」
声を詰まらせながら話す彼女の姿を見て、まるで刃物で切りつけられたかのような痛みを胸に覚えた。
結局どこまでいってもなまえの中にいる景には勝てないのだ。
分かりきっていたその事実、なのに性懲りもなく傷付いている自分がおかしくすら思えた。
「それに・・・、」
ぽたぽたと流れる涙を拭うこともせず、なまえはこちらを見上げた。その瞳はまっすぐにこちらに向けられていて、まるで何かを決意したかのようだった。
「零のことも忘れたくない。ヒロくんとの思い出が大切なのと同じくらい、零との思い出も私にとっては大切なものなの」
「・・・っ、」
「好きになってごめんなんて、言わせてごめん・・・っ・・・」
彼女の瞳から溢れた大粒の涙が一粒、俺の膝に落ちた。
あの日のことを謝られるなんて思っていなかったから。
言葉が出てこなかった。
「・・・ずっと怖かったの・・・っ・・・。ヒロくんのいない世界を認めることが。自分だけ前に進むのも・・・。そんな私を見たらヒロくんはどう思うんだろうって・・・っ・・・!」
黙ったままの俺と、嗚咽混じりに言葉を紡ぐなまえ。車の中という閉鎖された空間で、二人きりの世界がそこにあった。
「私ね、ずっと幸せだったよ」
その言葉はなまえと俺、そして景が過ごしてきた時間を認めるもの。
ずっと。昔からずっと・・・・・・、願い続けていたなまえの幸せ。
「忘れたくない。過去に囚われてるって言われたとしても、忘れたくなんかないの」
都合のいい夢でも見ているんだろうか。
本当は手離したくなんてなかった。
隣にいて欲しい。駄目だと分かっていた。けれど何度そう願ったんだろうか。
「零の傍にいたい。私の幸せは、零が隣にいてくれることなの」
ぽたり、と膝に落ちた雫はなまえの瞳からではなく自分の瞳からこぼれたもの。
こんな風に制御できない感情が溢れ出したのは、景がいなくなったあの日以来初めてだった。
望んではいけないと思っていたもの。
なまえのこれからの幸せに、俺の存在は邪魔でしかないと思っていたから。
けれど目の前の彼女は、他の誰でもなく俺の存在を望んでくれている。
その事実に胸が大きく脈打った。
「好きだよ、零。多分もうずっと前から、零の事が好き・・・・・・っ・・・!?」
気が付くとなまえの腕を引き、強く抱きしめていた。
少し力を入れたら消えてしまいそうな小さな体。けれどたしかに俺の腕の中にあるその存在。背中に回した手が震えているのが自分でも分かった。
肩口に顔を埋めると、いつもと変わらない優しい香りが鼻腔をくすぐった。
「・・・っ、馬鹿じゃないのか。人がせっかく逃がしてやろうと思ったのに・・・っ」
「逃げたくないんだもん、仕方ないじゃん」
小さく笑ったなまえ。ぽんぽんと俺の背中を撫でるその手が愛おしかった。
格好悪い姿なんて見せたくない。頭ではそう思っていても、取り繕えなかった。
「・・・・・・不安だったんだ、ずっと」
「不安?」
「景のいない世界でなまえがどうすれば幸せになれるのか、いつも考えてた。けど答えなんかでなかった。止まった時計を動かす方法なんかなくて、傷付いてるお前を見たくなくて・・・・・・っ」
ずっと抱えていた不安。
言葉にして伝えるのは初めてだった。
「ねぇ、零。零の幸せって何?」
『零はそれで幸せなの?』あの日と同じ。頭の中で景の声が聞こえた。
「・・・・・・俺の幸せは、なまえが隣で笑ってくれてることだよ」
自信がなかったんだ。
なまえを笑顔にする力が俺にはないと思っていたから。
誰よりも幸せになってほしいのに、その幸せを俺はお前にあげることができない。
ずっとそう思っていたから。
俺の幸せはなまえが隣にいないと成立しない。けどなまえは違う、そう思っていたから・・・・・・。
「私の幸せにも零が必要なの。
私が零を幸せにしてあげてもいいよ」
涙で潤ませた瞳で悪戯っぽく笑ったなまえが心から愛おしいと思った。
「・・・・・・ははっ、生意気な奴だよなホントに。望むところだ」
昔と変わらないその笑い方につられて俺も笑う。
柔らかい空気が俺達の周りを包んでいる気がした。
「俺自身の幸せなんて望んだことがなかった。望むつもりもなかったんだ」
強がりなんかじゃなくて、景がまだなまえの隣にいたなら俺はずっと二人を見守り続けただろう。笑っている二人を見ていると、たしかに幸せだったから。
「零がいなきゃ、私も幸せになんかなれないの」
「同じ、だな」
「ヒロくんが言ってた。私と零は似たもの同士だって」
「あいつには全部お見通しだったんだろうな」
気付くのが遅いんだよ、ゼロ。なんて笑うあいつの姿が目に浮かんで、目の奥がツンとする。
けれど不思議とそれすらも幸せに思えた。
たしかに思い出すと胸が痛む。後悔だってある。
それでも今の俺達がいるのは、間違いなく景の存在があったから。
俺達三人が紡いできた時間は特別なものだから。最初から消せるわけがなかったんだ。
静かだった車の中に俺達の笑う声が響いていた。
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