▽ 9-2
私の感情なんて関係なく過ぎていく時間。
気が付けば、あんなに強かった日差しは和らぎ太陽が沈むとその暑さも少し落ち着く季節がやってきた。
零が家を出て三ヶ月が過ぎた。
あれから零はもちろん、風見さんが私の前に姿を見せることはなかった。
あの日から時計が止まったままの私。前になんて進めるわけがなくて、ただ時間だけが淡々と流れていた。
*
いつもと変わらない仕事帰りの道のり。橙色の夕焼けを背に一人歩く。交差点で信号に引っかかった私は、足を止め何もない虚空をぼーっと見つめていた。
「お前こんなのも分かんねぇーのかよ」
「うるさいなぁ、別に教えてって頼んでないじゃん!」
「まぁまぁ、後で三人で勉強すればいいだろ」
斜め後ろから聞こえてきた会話。ふと振り返るとそこには、帝丹高校の制服を着た男子生徒二人とその隣に同じく制服姿の女子生徒がいた。
じゃれ合いのような会話をするその三人の姿に、昔の自分の姿が重なって見えた。
いつの間にか信号が青に変わり、彼らはわいわいと騒ぎながら横断歩道を渡っていく。
その後ろ姿を見つめていると、何故か足がその場に縫い付けられたかのように動かなくなる。
今の私の隣には誰も居ない。
その事実がまた胸を締め付けた。
どうにか頭から先程の彼らの姿を追い出し、足を前に進めようとしたその瞬間、左腕を何かに強く引かれた。
不意のことでバランスを崩した私。それを支えるかのように私の背中に触れた誰かの手。
「信号、赤ですよ」
その言葉に視線を前に向けると、青だったはずの信号はいつの間にか赤に変わっていて目の前を車が行き交っていた。
「っ、すいません。少しぼーっとしていて・・・」
腕を引いてくれた男性に小さく頭を下げる。彼がいなければ、私は今頃ふらふらと横断歩道に足を進めていただろう。
「事故に巻き込まれなくて良かったです」
「・・・ありがとうございます」
淡いミルクティー色の髪の彼は、人の良さそうな柔らかい笑みを浮かべながらそっと私の腕を掴んでいた手を離す。
この信号は一度赤になると次に変わるまでが長い。わざわざ彼から離れるのも失礼だろうが、かといって話を広げるのもおかしいだろう。
少し気まずい沈黙が私と彼の周りを包む。
「お疲れのようですね、大丈夫ですか?」
「・・・え?」
「目の下のクマ、せっかくの可愛らしい顔に似合いませんよ」
そんな沈黙を破るように、彼は私の顔をそっと覗き込みながら自身の眼鏡の下を指さした。
見ず知らずの人にも分かるくらいに酷い顔をしていたんだろうか。恥ずかしさともなんとも形容しがたい感情に、思わず彼から目を逸らしてしまう。
「女性に対して失礼でしたね、すいません」
「っ、いえ。最近ちょっと寝不足で・・・」
「寝不足は集中力や判断力の低下に繋がるので、先程みたいな事故の原因にもなり得ます。余計なお世話かもしれませんが、ゆっくり休むことも大切だと思いますよ。じゃないと貴女が倒れてしまいます」
ゆっくり休む。
今の私には縁遠い言葉だった。
この三ヶ月、極力仕事に全力を注いできた。上司に注意されるまで残業をしたり、同僚の分の仕事まで請け負ったり。
働いている間だけは、零のこともヒロくんのことも考えずにいられたから。
けれど家に帰って一人になると、寂しくて悲しくて胸が張り裂けそうになる。
零に会いたい。
ヒロくんに会いたい。
幸せになれ、忘れてくれ、眠ろうと思って目を閉じるとそんな言葉がぐるぐると頭の中で木霊するのだ。
「・・・・・・・・・いっそ倒れてしまえたらいいのに」
気が付くとそんな言葉が口からこぼれていた。
私の言葉を聞いた彼は、細められていた瞳を片方だけ開きじっとこちらを見つめた。
探るようにこちらを見るその緑色の瞳。
心の声が漏れたとはいえ、初対面でそんなことを言われては彼も引いてしまうだろう。
せっかく助けてくれた相手に申し訳ないことをしてしまった。
「っ、なんて冗談ですよ!助けてくれてありがとうございました!」
私は慌てて笑顔を作り、彼に小さく頭を下げる。
タイミングよく信号が青に変わる。
「あ!青だ。じゃあ失礼しますね・・・・・・っ!?」
横断歩道に一歩踏み出した私の腕を、彼が再び掴み引き止める。
今度は正真正銘の青信号。
彼の行動の意味が分からず、首を傾げた私。
「少しだけ付き合ってもらえませんか?」
「え・・・?」
「助けたお礼ということで。さぁ、行きますよ」
彼はそう言うと、半ば強引に横断歩道と反対方向に腕を引いていく。
何これ、どういう状況?
頭の中にはハテナが浮かぶ。
上手く状況を飲み込めない私は、されるがままに彼について行くしかなかった。
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