▽ 8-5
side R
「安室さん、お水の数一つ多いですよ!」
ポアロでのバイト中、新しく来たお客さん用の水を用意していると梓さんがトレーに乗ったコップを指さしながらそう言った。
「あ、本当ですね。すいません」
四つ並んだコップのうちの一つをキッチンに置き、お客さんの元へと向かう。
注文をとり戻ってきた俺の顔をのぞき込みながら梓さんは顎に手を当てて首を傾げた。
「安室さん今日体調悪いんですか?」
「どうしてですか?いたって健康ですよ」
「何だかいつもよりぼーっとしてる気がして。元気ならいいんですけどね!」
そう言い残すと常連客の方へと向かう彼女。その背中を見送ると、俺は小さくため息をついた。
何がポーカーフェイスだ。聞いて呆れる。
自分でも分かっているんだ。
風見の電話を受けてから、頭の中に過ぎるのは倒れたというなまえのこと。
熱中症と栄養失調。
俺が出て行ってからろくに飯もくっていなかったんだろう。その姿が想像できて、胸がキリキリと痛んだ。
そんなことを考えているとあっという間にポアロでのバイトの時間が終わり、自分の車へと戻る。
辺りはオレンジ色の夕陽に染まっていた。
たしか今日は夜まで予定はない。
あいつの様子を見に行くくらいの時間ならある。
けれど・・・・・・。
ハンドルに両腕をついたまま、そこに頭をこつんと預けた。
「・・・・・・どんな顔してあいつに会えばいいんだよ」
嘲笑とともにこぼれた言葉。もちろんそれに返事なんてなくて、外を走る車の音だけが遠くに響く。
風見にはあんな風に言ったが、どうしても彼女のことを頭から追い出せないでいるのだ。
「諦めが悪いな、俺も」
少し乱暴に回したキー。エンジン音が響く。
彼女が起きていたならそのまま帰ろう。ひと目様子を見れたらそれでいい。そんな言い訳を自分に言い聞かせながら、俺は米花総合病院に車を走らせた。
*
受付で聞いたなまえの病室。
風見の配慮のおかげもあるのか、そこは個室だった。
外からちらりと病室を除くと、ベッドに横たわったまま瞳を閉じて規則正しく呼吸をするなまえの姿があった。
寝てるのか。
そっと起こさないように、病室に足を踏み入れた。
離れてまだ一ヶ月程度なのに、随分と久しぶりに彼女の顔を見たような気がした。
「・・・・・・痩せたな、なまえ」
最後に見た時よりも痩せた彼女の姿にまたちくりと胸が痛む。
そっとベッド脇の椅子に座り、彼女の姿を見つめる。
なにか夢でも見ているんだろうか、なまえは苦しげに顔を歪めた。
「・・・・・・っ・・・ヒロ・・・くん・・・」
知っていた。
彼女の中にはあいつしかいないことを。
俺ではあいつの代わりにはなれない。
まじまじと突きつけられた現実。分かってはいたのに、心臓を何かにぐっと掴まれたようだった。
帰ろう。ここにいるべきなのは俺じゃない。
なまえが起きる前にここを去ろうと立ち上がった。
やはり来るべきじゃなかった。
そんな思いを抱えながらも、未練がましく彼女を振り返る。
「・・・・・・・・・零・・・・・・」
ぽつりと呟かれた名前。
それは聞き間違えではなく、俺の名前。
起こしたか?と思ったが、彼女の瞼はまだ閉じられたまま。夢の続きでも見てるんだろうか。
「・・・・・・零・・・・・・っ、会い・・・たいよ・・・」
そう言うとぎゅっと何かに縋るように枕元のシーツを握ったなまえ。
その手を取ってやる強さが俺にあればよかったのだろうか。
結局のところ、俺は弱い人間なんだ。
彼女の中にある景への想い。
自分の中にある景への想い。
その全てを上手く消化できるほど大人になれない。
だから離れる道を選んだんだ。
なまえの方に伸ばしかけた手引っ込めた俺は、そのまま強く拳を握る。
「全部忘れていいんだ。もう苦しまなくていい」
なまえには届くことのない言葉。
俺はそのまま病室をあとにした。
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