▽ 8-2
三月の終わり、まだまだ朝晩は冷えるこの時期。
いつものように仕事を終え帰宅した私は、片付けをして晩御飯の用意を済ませリビングで一人まったりと寛いでいた。
「ただいま」
ガチャリと鍵の開く音と共に、聞こえてきた声。
ソファから立ち上がった私は、リビングの扉を開け零くんを迎える。
「おかえりなさい。今日もお疲れ様」
「あぁ、ありがとう」
いつもより少しだけ疲れた顔の彼。
体調が悪いのかなとも思ったけれど、どうやらそうではないらしい。
「何かあったの?」
ソファへと座った彼を横目に尋ねながら、作っていたシチューを火をかける。
「ん、ちょっとな」
「そっか。すぐご飯できるから待っててね」
彼が言葉を濁す時は、それを私に聞かれたくないということ。
仕事絡みのことだと思うし、それを無理に聞こうとは思わないけれどその表情が少しだけ気にかかった。
*
晩御飯を食べ終え、他愛もない話をしながらソファで並び座りながら時間を過ごしていた私達。
「そういえば明日の朝、毛利さんの所に行くけど一緒に行くか?」
「ついて行っていいの?」
「明日仕事休みだろ?蘭さんがなまえに会いたがっていて、今度来る時は連れてきて欲しいって言われたんだ」
私に会いたいと思ってくれているという言葉に自然と顔が笑顔になる。
最近はなかなかポアロでもタイミングが合わず、蘭ちゃん達には会えていなかったしいい機会だ。
「お言葉に甘えてついて行こうかな」
「じゃあこのまま泊まってっていいか?朝起きたら一緒に行こう」
「うん!」
先程よりも口角が上がったのが自分でもわかった。
零くんと朝まで一緒にいられる。
余程のことがない限り、彼はこの家に帰ってきてくれる。
けれどそれは夜中だったり明け方だったり。泊まりに来ていても、数時間だけ寝てそのまま仕事に向かうことも多々あった。
彼の体を心配して無理して会いに来なくていいよ、と言ったこともあった。
けれどそれに対して零くんは、「俺が会いたいから来てるだけ」と優しく笑ってくれた。
そんな彼と長い時間ゆっくりと一緒にいれることは貴重で、自然と胸が踊る。
「なに一人でニヤけてるんだ?」
「朝まで一緒にいられるのが嬉しいだけだもん」
「そういえば最近ゆっくりできてなかったな」
私の肩に右手を回してそのままぐっと自分の方へと引き寄せる零くん。
ぽすりと私の肩に彼の頭が乗せられる。
その瞬間、ふわりと香った甘い薔薇の香り。
それは私の香りでも、彼の香りでもない。知らない誰かの香り。
「なまえ?どうかしたか?」
零くんが私の顔を覗き込む。
零くんには零くんの仕事がある。
きっとこの香りもそのせいだ。
胸の奥のどろどろとした黒いものに蓋をする。
「なんでもないよ!」
彼の事を疑ったことは一度もない。
疑う必要もないくらい、零くんは私の事を大切にしてくれているから。
だからこれは私の小さな嫉妬。
香りが移るくらい近くにいた誰かへの。
彼の隣にいるのが自分だけならいいのに。
零くんの体温に包まれながら、そんなことを考えてしまうのだった。
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