泡沫の夢 | ナノ
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▽ 今日は帰りたくない


自分の家だというのにこんなにも落ち着かないのは初めてだ。


定時で仕事を終えた私は、帰り道にあるスーパーで買い物を済ませると晩御飯の用意や部屋の掃除に追われていた。


この前の休みにちゃんと掃除しておいたおかげで部屋はそこまで散らかっていないし、晩ごはんの用意も後は生姜焼きのお肉を焼くだけ。


気が付くとテレビの横に置いてある時計は22時を過ぎていた。


私だって人のことは言えないけれど、こんな時間まで仕事って大変だよな。諸伏さんが何をしている人なのか、聞いたことはなかったから私は知らない。直接何かを言われたわけじゃないけど、彼が語りたがらない以上そこには触れてほしくないんだろうなって思ったからずっと聞かずにいた。


彼について知ってることってなんだろう。ソファに座りながらそんなことを考える。


名前。年齢・・・・・は、たしか私の2個上だって言ってた。あの2回目に会ったスーパーの近くに住んでいて、ハロちゃんの飼い主さんとは昔からの友達らしい。あとは何だっけ。あ、ご飯は魚よりお肉が好きって言ってた。あとお酒も人並み程度には飲むんだっけ。


メッセージのやり取りの中で知った彼のことを頭の中で羅列していく。


私が知っているのは彼のほんの一部。こうして改めて考えてみると、私って全然諸伏さんのこと知らない気がする。


それなのにこんな時間に家に呼ぶのはどうなんだろう。軽い女って思われた?・・・・・・ううん、きっとあの人はそんなことを思う人じゃない。


そんなことを考えていると、机の上に置いていた携帯が鳴る。



「もしもし!」
『もしもし、みょうじさん?遅くなってごめんね。今仕事終わったから、そっち戻るのに30分くらいかかると思う』
「遅くまでお疲れ様です。分かりました!待ってますね」
『ありがと。何か買ってくものある?』


彼の声に混じって聞こえてきたのは、風の音と水が何かに打ち付けるような波の音。車に乗ったのか、バンっとドアが閉まる音がしたかと思うと辺りは静かになり彼の声が鮮明に聞こえる。


『ヒロ、車出していいのか?』
『うん。××駅の方に頼むよ』


電話の向こうで聞こえたそんな会話。諸伏さんのことをヒロ≠ニ呼ぶ男の人の声。



『みょうじさん?』
「っ、買ってくるものでしたよね!ご飯は用意したんで特に大丈夫かな。諸伏さんが何かいるものあれば・・・!」
『分かった。じゃあまた近くなったら連絡するね』


ぷつんと切れた電話。携帯をソファに置くと、そのまま近くにあったクッションをぎゅっと抱きしめる。


やっぱり私は彼のことを知らなすぎる。


それなのに怖いって気持ちは少しもなくて。根拠なんてないのに、信頼にも似た気持ちが彼に対してあって。この気持ちの名前はなんだろうって何度考えてみても、行き着く答えはひとつだった。






港近くの廃倉庫。任務を終えて車に戻ると、ヒロはどこかに電話をかけ始めた。


漏れ聞こえてきたのは女の声。一瞬、あの女かなと思ったけどヒロが発したのは聞いたことがない名前。運転席で携帯を触りながら聞こえてくる会話。どうやらこれからその電話の相手と会うらしい。



「分かった。じゃあまた近くなったら連絡するね」


そう言うとヒロは電話を切る。携帯画面を見るその横顔に視線をやると、柔らかく下がった目尻と緩んだ頬。分かりやすいな、ホント。


「みょうじってこの前話してた子?」
「うん。今日一緒にご飯食べる約束しててさ」


いくら俺達が忙しいといっても朝から晩まで全ての時間を仕事にあてているわけじゃない。それでも数時間、何もない時間ってのは貴重だから。


その時間を一緒に過ごしたい相手ってことか。


「俺の知ってる人?その人って」


ここのところ何かに取り憑かれたみたいに疲れた顔をしていたヒロを笑顔にしたその人が誰なのか。気になって尋ねると、少し考えた素振りをしたあとヒロは口を開く。



「ハロの動物病院の看護師さんだよ。髪の毛長くていつもひとつに括ってて、笑ったとこが可愛い人」


最後のはお前の主観だろ、って思ったけれど口にすることはしなかった。何となくそんな名前の名札をつけた人がいたような、いなかったような。


さすがに1度しか行ったことのない病院の看護師の名前は覚えていない。その人と親しくなった経緯を話すヒロは、やっぱり穏やかな表情をしていて。


親友として少しでも肩の力を抜ける場所が見つかったのなら嬉しいと思う。けど同じくらい心配になった。


ヒロは捜査のためとはいえ、あの女と付き合っている。そこに気持ちがないのは知っているし、別にヒロが誰を好きになっても責めるつもりはない。むしろ正しい側≠ノいる子と結ばれるなら、俺としては喜ばしいとすら思う。


捜査のための偽りの恋愛。仕事の一環だから、俺はそう割り切れるけれど、ヒロ・・・お前は違うから。





お前は優しすぎる。



どんなに俺が言ってもあの女に情をかけてしまうお前が、そんな器用なことできるわけがない。短くない付き合いの中で、そんなこと誰よりも分かってるから。


こんな時間に男を家にあげるとなれば、相手の女の人もヒロに対してそれなりの気持ちがあるんだろう。


途中のコンビニで買い物を済ませたヒロを××駅の近くのマンションまで送る。助手席から降り「ありがと」とドアに手をかけるヒロを思わず呼び止める。



「・・・・・お前はお前だからな。昔から何も変わってない」
「ははっ、それは零もだよ。ありがとな」


結局何を言えば正解なのかなんて分からないから、口からこぼれたのはよく分からないそんな言葉だった。それでもヒロは何かを察したのか、小さく笑うと静かにドアを閉めた。






エントランスで教えてもらった部屋番を押すと、オートロックの扉が開く。エレベーターで6階に上がると少し向こうで薄く開いたドアからこちらを見るみょうじさんと目があった。



「お邪魔します」
「遅くまでお疲れ様でした!あ、そのスリッパ使ってください!」


部屋に上がると、玄関に置かれたルームフレグランスからふわりと香る甘い匂い。Tシャツにグレーのスウェットを履いたみょうじさんは、仕事中のしっかりした様子とも仕事終わりのパーカー姿ともまた雰囲気が少し違う。


リビングに上がると、キッチンから漂う食欲をそそる香り。俺の視線がそちらに向いたことに気付いたのか、みょうじさんは「もう少しでできるんで楽しみにしててくださいね」って優しく笑う。


「何か手伝うことある?あ、冷蔵庫借りてもいい?」
「お肉焼いたら終わりだから大丈夫!ご自由に開けちゃってください」

手に持っていたコンビニの袋を軽く持ち上げれば、コンロの前に立つ彼女の後ろにある冷蔵庫を開けた。


買ってきたお酒と彼女が好きだと言っていたチョコレート菓子の新商品を冷蔵庫に入れる。一人暮らし用のキッチンはそこまで広くなくて、お皿を取ろうと振り返ったみょうじさんと腕がぶつかる。


「っ、ごめんなさい。あ!お酒!それにチョコもある!!」
「途中のコンビニで新商品って書いてたの見つけたからさ。お酒は適当に買ってきたけどよかった?」
「はい♪ 明日休みだし飲みたい気分だったんですよね。あとこのチョコも食べたかったし」
「なら良かった。あ、この前公園で飲んでたみたいなキツいお酒はないからね」


冗談めいた口調でそう言えば、「・・・・・あんなの好きじゃないって知ってるくせに意地悪だ」ってジト目で睨まれる。


そんな表情すら可愛く思えてくるから、思っているより重症なのかもしれない。



言われたとおり、ソファに座り運ばれてくる料理を待つ時間。最近は自分の家に帰ることはほとんど無くて、結花の家かセーフハウスの往復ばかりでこんな風に何もない時間を過ごすのは久しぶりのことだった。



結花の前ではもちろん、セーフハウスでも気なんて抜けるわけがない。結局オレがオレでいられるのは、零と2人でいる僅かな時間だけだったから。それでも背負うものの多い零に弱さなんて見せられるはずがなかった。


みょうじさんの部屋は、女の子らしいふわふわとした部屋というよりも必要最低限のものが置かれたシンプルなものだった。


白とグレーを基調とした家具。テレビの横にある本棚には、雑誌や漫画。それに彼女の仕事に関わるいくつもの本が並んでいて。少しだけくたびれた背表紙が彼女の努力を物語っていた。



「「いただきます」」


1Kの部屋にダイニングテーブルなんてものはなくて、ラグの上に並び座り手を合わせる。思ったよりも近いその距離に、体の左側が少しだけ熱を持ったような気がした。


ぴりぴりとした緊張感。でもそれは不快なんかじゃなくて、むしろこの時間がずっと続いて欲しいと思うくらいには居心地が良くて。



「あ!この人達最近よくテレビ出てますよね!面白いから好きだなぁ」

テレビに映ったのは、最近流行りのお笑い芸人。彼らのネタにケラケラと楽しそうに笑うみょうじさんの横顔から視線が逸らせなかった。


何を食べても味がしなかったのに。穏やかなこの時間は、まるでオレの日常≠ゥら切り離されたみたいにゆったりと流れていく。


「ご馳走さまでした。すごく美味しかった、ありがとう」
「いーえ、お粗末さまでした♪ ぱぱっと洗い物しちゃいますね」

それは偽りじゃなくて本音。久しぶりに何かを食べて美味しいなって思ったから。食器をシンクに運ぶ背中。テーブルの上の食器を重ねながらその後ろ姿を視線で追う。


「あ、やりますよ!諸伏さんは座ってて・・・っ、」

オレの手から食器を受け取ろうとした彼女の手が、オレの左手に触れる。


その瞬間、言葉に一瞬詰まり赤くなった彼女の頬に気付かないほど鈍感にはなれなくて。きっとオレも同じような顔をしてる気がしたから。



「・・・っ、洗ってきちゃいますね!」


ぱっと食器をオレの手から取り、キッチンへと引っ込むみょうじさん。カチャカチャという食器の音と水の流れる音。テレビから聞こえる笑い声。


ヤケにその音が大きく聞こえるような気がしてならなかった。



きっとこれがお互いにもう少し幼ければ、こんな空気になるなんてないんだろう。踏み込む勇気なんてあの頃はなかったから。いや、今もそれは同じか。

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