▽ 嫌いになれたら
松田さんが教えてくれた住所は、私の家から車で30分ちょっとの場所だった。
15分ほど経った頃、松田さんから『着いた』と連絡がきて急いで部屋を出る。
冷たい風が夜の闇を吹き抜ける。薄暗い路地に止まる1台のタクシー。後部座席に回ると、ドアが開く。
「よう、久しぶりだな」
「こんな時間にごめんなさい・・・っ、」
「暇してたし気にすんな。にしても零の奴何考えてんだろうな」
ドアが閉まると走り出すタクシー。
零くんの無事が分かってほっとした気持ちと、何で?っていう疑問。
頭の中でぐるぐると浮かんでは消えていくそれらを上手く消化することができすにいた。
「ンな不安そうな顔すんなって。眉間に皺寄せてっと不細工になるぞ」
こん、っと私の眉間を小突く松田さん。初めて会った時と同じ悪戯っぽい笑顔を浮かべた彼の存在に、少しだけ頭が冷静さを取り戻す。
きっと1人だったら心が折れていたかもしれない。
そう思うと、彼には感謝してもしきれなかった。
*
タクシーが止まったのは、駅から少し離れた場所にあるどこにでもあるアパートの前だった。
タクシーを降りた私は、小さく深呼吸をする。
「んじゃあ俺ここで待ってるから行ってこい」
「っ、一緒に行かないの?」
「バーカ、カップルの痴話喧嘩に混ざる趣味はねェよ。とりあえず零と話してこい」
ぽん、と私の背中を押す松田さん。
その勢いで1歩前に進む。そして彼に見送られながら、アパートのエントランスを進んだ。
オートロックなんてついていないそのアパートの3階。震える手で、角部屋のチャイムを押した。
ガチャ、と音を立てて開いたドア。
顔を上げると、そこには笑顔のない零くんがいた。
*
「っ、零くん・・・、急に来てごめん・・・。引っ越してたなんてか知らなくて・・・」
「話してなかったからな。余計な心配かけて悪かった」
「連絡なかったから、何か事件に巻き込まれたのかなって思って心配で・・・」
たしかに謝られているはずなのに、ドアにもたれて話す零くんの言葉に温度はない。
・・・・・・こんな彼の顔を私は知らない。
あんなに話したいことも聞きたいこともたくさんあったはずなのに、言葉が喉に引っかかったような感覚だった。
零くんの冷たい視線から目を逸らしたくて、思わず俯いてしまう。そして気付いてしまった。
玄関にある1足の女性物のヒール。そして部屋の奥から聞こえるシャワーの音に。
手先が急速に温度を失っていく。
人間って驚きすぎると、涙もでないんだ。なんて冷静なもう1人の自分か頭の中でくすりと笑う。
私の視線に気付いた零くんは、小さくため息をつく。
「そういう事だから」
淡々と告げられたその言葉は、私の心を容赦なく抉る。
最低だとか、浮気なんてありえないとか、罵るような言葉をぶつけてもきっとバチは当たらないだろう。
でも不思議と彼にそんな言葉をぶつける気にはなれなくて。
「・・・・・・私の何がダメだった、のかな・・・」
「なんか疲れたんだよ、なまえと一緒にいるのに」
「っ、」
「仕事で忙しいのに連絡するのも面倒臭いなってずっと思ってたし、飯作って待ってられるのも重い」
ピキピキと心が音を立てて崩れていく。
なんだ、そうだったんだ。
・・・・・・楽しかったのも、幸せだったのも、私だけだったんだね。
目の奥がツンとなり、涙が溢れそうになる。ぎゅっと拳を握ると手のひらに爪が刺さり、その痛みでどうにか涙を堪えた。
「だからもう別れよう。こうやって俺のこと探すのも、もうやめてくれ」
それは、彼からの残酷なさよなら≠セった。
零くんと出会ってもうすぐ2年かな。
こんな日がくるなんて思ってなかったよ。
「ねぇ、零くん」
「・・・・・・何だ?」
「今までありがとう。零くんにはしんどい思いさせちゃったかもしれないけど、私は幸せだったから」
酷い言葉をぶつけられても、嫌いになんてなれない自分が馬鹿だなって思うんだよ?
でも仕方ないよね。
好きな気持ちは、すぐになくなってなんかくれないもの。
「零くんが無事でよかった。こんな時間にホントごめんね」
限界だった。
あと1秒でもこの場にいたら、きっと私は泣いてしまう。
それだけ言い残すと、私は零くんに背を向けて階段を走って降りた。
「・・・・・・何でンな顔してんだよ」
「っ、へへ・・・フラれちゃった」
きっと今の私、すごく不細工な顔してるんだろうな。
電柱にもたれてタバコを吸っていた松田さんは、私の顔を見るなり顔を顰めて携帯灰皿に煙草を押し付けた。
「零がお前のこと振った?ンなわけ・・・っ、」
「完全にフラれちゃった!重かったんだって、私。新しい女の子も部屋にいたみたいだし、タイミング最悪だったかも」
「なっ、」
胸の痛みを誤魔化すように笑う。笑っていないと今にも崩れてしまいそうだったから。
ヘラヘラと笑う私とは裏腹に、松田さんの顔はみるみる歪んでいく。
彼はそのまま私がさっき降りてきたアパートの階段を上ろうとする。慌ててその腕を掴み引き止めた。
「っ、待って、何するつもり・・・っ、」
「うるせェ!とにかくその手離せ!どんな理由があるにしてもそんなやり方はねェだろ!零の奴、1発ぶん殴ってやる」
「止めて!!!そんなこと・・・」
「お前だってこんなの納得できねェだろ!!!」
薄暗い路地に、松田さんの怒鳴り声が響く。
納得・・・・・・?そんなの・・・、
「納得なんて・・・、できるわけないよ・・・っ、」
「だったら!」
「っ、これ以上傷付きたくないの・・・っ・・・!」
ボロボロと溢れ出す涙は、1度流れ出すと止まってはくれない。
認めたくないから。これ以上惨めな思いもしたくないし、傷付きたくもない。私は弱いから・・・。
私の腕を振り払おうとしていた松田さんの手から力が抜ける。
そしてそのまま荒っぽく頭を肩口に引き寄せられる。
「泣きたい時は泣けばいいんだよ、馬鹿」
「・・・・・・っ・・・、」
零くんとは違う香り。手の温もりも、大きさも違う。
それが私の心をまた抉った。
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