▽ キミを壊したのは誰?
ナマエ。それが彼女の名前らしい。名字を聞くと忘れたと言うナマエは、やっぱり普通ではないんだろう。
そんなナマエとの同居生活は、思っていた以上に平和なものだった。昼間はポアロでのバイトや、公安の仕事で何かと忙しい俺がこの部屋に戻ってくるのは夜の数時間だけだ。
特に何をする訳でもなく、ただ穏やかに流れていく時間。最初こそジンの話を聞き出そうとしたが、ナマエの口から奴のことが語られることは無かった。
*
「ナマエさん、もう夕食は食べましたか?」
ポアロでのバイトを終え、セーフハウスに戻ると朝と同じソファに座りながら本を読んでいたナマエに問いかける。
「おかえりなさい。食べたわよ」
そう言いながら彼女が指差したのは、飲みかけの紅茶が入ったティーカップとチョコレートの包み紙が置かれたテーブルだ。
「・・・・・・それは夕食とは言えませんよ」
徹夜続きの部下を彷彿とさせる姿に、思わずため息がこぼれる。
キッチンに向かい、有り合わせの材料で夕食を用意しているとナマエがひょっこりと隣から顔を覗かせる。
「どうしたんですか?」
「バーボンって料理できるんだね」
「まぁ人並みにはできますよ」
ぐつぐつと沸騰した鍋に、パスタをふたり分入れ茹でる。そんな俺の手元をナマエはじっと見つめている。
「やってみますか?」
料理に興味があったのか、トングを手渡すと素直に受け取り鍋の前に立つナマエ。
「これいつまで茹でればいいの?」
「あと2.3分で大丈夫ですよ」
普段料理をしないであろう彼女は、パスタを茹でるという単純作業すらも新鮮らしい。
必要以上にトングでくるくると鍋の中のパスタをかき混ぜるナマエの表情は、いつもの貼り付けたような笑みはなく年相応・・・・・いや、年齢よりも幼く見え思わず笑みがこぼれる。
「3分たったわ、このままお湯を捨てたらいいの?」
「ええ。でも火傷するといけないので僕がやりますよ」
しっかり時計を見ていたらしいナマエが、3分ぴったりで俺の袖を引きながら鍋をのぞく。
パスタのお湯を捨て、フライパンに用意していたソースに絡める。有り合わせで作ったにしては、いい香りを漂わせるパスタ。ナマエが用意したお皿に盛ると、リビングのテーブルにそれらを運ぶ。
「美味しそうね」
「少なくとも紅茶とチョコレートだけの夕食よりは、美味しいはずです」
「ふふっ、意地悪ね」
ナマエはそう言いながらパスタを口に運ぶ。
「・・・っ、美味しい!」
作ってくれてありがとう。そう言って笑った彼女の笑顔は、今まで見た中で唯一本物だった気がした。
*
「バーボンって変わってるわね」
食事を終え、それぞれ自分の時間を過ごしているとぽつりとナマエがつぶやく。
「どういう意味ですか?」
「私に料理を作ってくれる人なんて、今までいなかったもの」
「お口にあってよかったです」
「また何か作ってくれる?」
「ええ、ナマエさんがお望みとあらば」
*
数日間一緒に過ごして分かったことがある。ナマエは組織にいるが、黒く染まったあちら側の人間とは違って見えた。
あの腕の傷や、作り物の貼り付けたような笑顔の理由は分からないが、不思議とそう確信している自分がいた。
ナマエが寝たのを確認したあと、俺はリビングでひとりパソコンを開き作業をしていた。どれくらいの時間が経っただろう・・・・・・、ひと通りの作業を終え、少し仮眠をとろうとソファに腰掛ける。
「いやっ!!!やめて・・・!」
ナマエの眠る部屋から、突然聞こえた大きな声に一気に目が覚める。
部屋をノックするも返事はなく、悪いと思いつつもそっと扉を開けるとそこにはベッドの上で上半身を起こし頭を抱えているナマエの姿があった。
「ナマエさん?大丈夫ですか?」
そっと彼女のそばに座り、手を掴むと勢いよく振り払われる。
「いや!こないで・・・ごめんなさい・・・やめて・・・」
うわ言のようにそう呟きながら、俺から距離をとろうとするナマエ。
「ナマエさん、落ち着いてください。僕です」
「いやっ・・・やめて・・・」
「ナマエ!」
「・・・・・・・・・っ!・・・バーボン・・・?」
やっと彼女の瞳が俺を捉える。
「僕のことが分かりますか?」
「ここは・・・っ・・・、そっか・・・バーボンだけだったわね・・・っ」
そう言うと彼女はすとんと意識を手放し、倒れそうになった身体を急いで支える。
腕の中ですーすーと寝息をたてるナマエからは、先程までの取り乱していたときの面影は感じられない。
なんなんだ、いったい・・・・・。普通とは言い難いナマエの姿が頭から離れないまま、夜は更けていった。
(夢の中の君が少しでも安らかでありますように)
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