海に囲まれた島に建てられている監獄、タイタニア。そこに収監される業魔達。
そのなかでも自分は喰魔と呼ばれ特別厳重に監視されているという──。現状の意味をベルベットが思考している間アズはおろおろとベルベットを窺っていた。
ややあって、ベルベットはたどり着いたひとまずの結論を口にする。

「で、あんたはあたしの餌ってわけ」
「わ、私、業魔ではないんです!濡れ衣なんです!」

薄闇の中で不安げな瞳がわずかな光を映して揺らぐ。
今までベルベットのもとに送られてきた業魔はみな人としての形を保っておらず、口にするのは獣のような呻り声だけだった。ところがアズはどうだろう。必死に潔白を訴える姿も口にする言葉もすべて理性的に見える。
だからこそ疑問が浮かぶ。どこまでも人間味のある彼女がなぜ、業魔や重大罪人ばかり集められる監獄島などに投獄されているのか。あまりにアンバランスで不可解だった。
ベルベットは硬化を解いた腕を組み、ひとまずは話を聞くことにする。

「だとしたら、なんでこんなところにいるわけ」
「それは、あの日……」

アズは胸を抑えた。震える声で語り出す。

「私のいた街は…突然、業魔に襲われたらしいです」
「“らしい”?」
「……私、気絶していて……目を覚ましたら既に街は火と血にまみれていて……家族も、街の人も、みんな……みんな、中途半端に食い荒らされていました」
「生き残ったのは?」
「……私だけです。呆然としていたところに退魔師がやってきて…一人だけ生きていた私が犯人ということにされて、有無も言わさず捕らえられて、ここに入れられて…本当は、みんなを殺した犯人は他にいるはずなんです。ここから出なきゃ…」

ぎゅっと握られた拳の震えは、悪人の演技だとは考えられない。少なくともベルベットの目にはそう映った。アズは俯き、絞り出すように続けた。

「それに他に捕らえられている囚人達はみんな凶暴で怖くて……もともと人間だったなんて信じられない」
「よく、生きてたわね」
「目を閉じてひたすら眠って、ただ時が過ぎるのを待っていました。……怖すぎて、正直あまり覚えていないんです。捕まってからどれくらい時間が経ったのかも。
あなたのところに連れて来られるまで生きてたのが不思議なくらい」

アズは顔を上げ、濡れた瞳でベルベットを見上げる。

「…あなたは?あなただってひどい人には見えないです。
なのに、どうしてこんなところに閉じ込められてしまったんですか?」




――――





「……弟とお姉さんが居たんだ」

かいつまんで語って聞かせただけでも、アズは自分のことのように胸を痛めているらしかった。
あるいは同じように突然理不尽な運命に翻弄された自分と重ねているのか――そこまで考え至って、ベルベットは気づく。身の上を重ねているのは、自分の方だ。

「業魔って、なんなんでしょうね。そのお義兄さんだった人なら……何か知っているのかな」
「さあ、どうだか」
「でもあなたと会えてよかったです。ここにずっと一人で居たらどうにかなってしまいそうだったし…。あの、名前を聞いてもいい?」
「……ベルベット」
「ベルベット。話してくれてありがとう」

どうやらアズの年齢は自分とそう変わらないらしい。短い会話でアズもそれを察したのか少しだけくだけた言葉遣いになっていた。
狭く暗い獄の中。被食者と捕食者として出会ったものの、身の上話はお互いが親しさを覚えるには十分だった。
アズが大きく安堵のため息をつく。

「うう、疲れた……私、とうとう食べられちゃうんだって思ってたから」
「今日はもう寝なさい。今後どうするかは……明日考えればいい」
「明日……うん。おやすみなさい、ベルベット。また明日」

この獄中にベッドなどという人道的な家具はない。アズは冷たい石床に横になって身を丸めた。ベルベットもまた壁に背中を預けて瞼を閉じる。
また明日。おやすみなさい。一体何ヶ月ぶりに聞いた言葉だろうか。ベルベットが下ろしたまぶたの裏にあたたかな過去がおぼろげに浮かんで、彼女はきっとタイタニアに来てから初めて肩の力を抜いた。



――




ベルベットがそれに気づけたのは、ほぼ偶然と言ってもいい。
無音の暗闇の中で微かに地を這う呻り声。ただ直感に従って咄嗟に横へ跳ねる。頬に微かな痛み、そして頬を伝う生ぬるい感覚。先程まで背中を預けていた壁は傷ついている。そこからパラパラと落ちる粉は、投げ飛ばされた瓦礫らしかった。

「グ、ガァアア」

闇の中でひときわ暗い影が蹲っている。
業魔だ。ほとんど気配は無かった。だがどんなに深く眠っていたとしても業魔が落とされる音に気付かない筈はない。ベルベットは注意深く辺りを見回した。
――いつの間に?アズは?無事なの?


「べるベッと…?」

アズの声は、業魔の方向から聴こえた。
影が起き上がる。そこはアズが寝ていた場所だった。業魔かと思われた影の正体を、理解するより早く直感する。

「アズ……」

華奢な体に似つかわしくない、肥大化した両腕。爪は刃物のように鋭い。

「おなカ、へッタ、ノォオオ」

アズが居た場所に、アズの声で話す、業魔がいる。
現状は何よりも雄弁に端的に、ヒントを通り越してその答えをベルベットに突きつけていた。思い返して初めて気付く、アズとの会話の端々にちりばめられていた違和感たち。
故郷が死体と炎に塗れていた中でアズだけが生き残っていたのも。
凶暴な業魔蠢く監獄で、無手の女ひとりが無傷でいたのも。
獄中での記憶が曖昧なのも。
それらが急速に線で繋がって解消されていく。──アズは無自覚のうちに業魔と化して人を、あるいは業魔ですら手に掛けていたのだ。

「アズ!しっかりしなさい!」
「ウ……あ……アズ?ワたしぃ……?」

呼びかけは獣の衝動から自我を引き戻した。アズが異形と化した自身の手を見、愕然と目を見開く。

「ナあに…これ…」

アズが自身の変化に気が付いたと同時に、顔面のほとんどを侵食していた人ならざる硬皮が波のように引いていく。ただ、凶器のような腕だけは戻らないまま。

「なに…、なにこの手。嘘だよ…ね、ベルベット?」
「違うよね?わたし…私違うよね、ね?」
「ああ、そうだよ、これ。違う。違うって言って、お願い、ねえ…」

身に起こったことを受け入れられずに声は引きつり、笑いながらいびつな両手を突き出して一歩、二歩歩み寄る。
正常とは言い難いその姿。ベルベットが幾度となく目にし、そして食らってきた異形の貌。縋りつく問い掛けに対して、望む答えを返すことは不可能だった。

「…アズ。あんたは、業魔よ」
「業魔……私が……アアアアアァッ!!」

口にしたのが契機か否か。
先ほどまでとは比較にならないスピードで骨格が音を立てて変形し、筋肉が盛り上がり、四肢は獣毛に覆われ丸太のように太く。華奢だった体は急速に膨張していく。雄叫びを上げて人ならざる姿に変わっていくおぞましい光景。苦悶の声を上げながら頭を抱えている様子は、僅かな理性の抵抗か。
ベルベットは油断なく睨みながら腰をかがめて臨戦態勢を取る。

「アズ!」
「ガアァアアアアアッ!!」

頭を振りかぶり、がむしゃらに腕を振り回しての突進。単調な攻撃だが、巨大な体躯と狭い牢獄を考えれば有効な攻撃だ――ベルベットの機動力を考えなければ、だが。
振るわれた腕を足場に業魔の頭上を越え、背後を取る。業魔が振り返りざま横に爪を薙いだが数瞬遅い。棍棒のような腕を屈んで回避し、空いた脇へ飛び込む。硬化した腕で殴り上げる。軽々と宙を舞い、重力に従って成すすべなく落下した巨体は自身の重さにより床に叩きつけられた。ベルベットはすかさず首元を掴んで掴み上げる。
そこで獣のような体はみるみる萎み、元の肢体が今度こそ姿を現した。




―――



天井の檻から差し込む青白い光がまるで月明かりのように二人を照らしていた。アズの頬に透明な涙が伝った。ベルベットは息を呑む。懺悔の涙だった。

「ベルベット、お願いがあるの。私を殺して」
「なにを……」
「このままだと私、きっとまた誰かを殺す。次はもう戻れないかもしれない。
どうせこの監獄から出られないなら、出られても家族をころ…殺したならっ、せっかく知り合えたベルベットを殺すくらいなら、わたし、もういやだよ……」

アズの悲痛な嘆願に、ベルベットの声が震える。

「あんたはそれでいいの」
「いやだよ……死にたくないよ!でも殺すのはもっといやだ……業魔になりたくないよ、ばけものになりたくない……」

頬を流れる涙は途切れることなく、ベルベットは掴み上げた喉元がしゃくり上げるのを手のひらで感じていた。あまりに生々しい生きている体。それを今から手に掛けろというのか。僅かに腕が震えて指先に力がこもったのを、了承と受け取ったアズが微笑んだ。
そこでベルベットはどうしようもなく痛感した。彼女は死を望んでいる。罪からの解放を求めている。真に獣に成り下がる前に。

「ねえ、ベルベット。私の代わりに生きて。生きてね」
「アズ、」

既に選択肢は一つしか残されていない。この先報われることのない存在がたった一条望んだ希望。今度はしっかりと、その柔らかくあたたかな喉元を掴み直す。

「ベルベット、ありがとう、ごめんね」
「…あたしが、あんたを必ず外に連れて行く」

アズは泣きながら、けれど笑って頷いた。
そうしてベルベットは――喰魔は左手に力を込めた。