「頭打ったぁ…いたいぃ…」

切っ先は目標の紙一重で止まる。後頭部を押さえて蹲るその様相は、理性を失った業魔とは思えない人間味に溢れていた。

「なにも本当に落とすことないじゃない……って、わぁあああ!?」

“業魔”がベルベットを振り返る。間髪まで迫っていた切っ先に驚き、尻もちをついて後ずさった。

「ご、ごめんなさい!食べないで食べないで食べないで」
「…あんた、人間?」
「私なんて食べても全然美味しくないですから!不味いですよ!……って……え?」

ベルベットの問い掛けに業魔は動きを止め、ゆっくりとベルベットを見上げた。続けて、ぱちぱちと瞬きを二度。

「え、女の人……?」
「訊いてるのはこっちよ」
「あ、えっと……アズといいます。あなたは……あなたが、喰魔ですか?」

喰魔。ベルベットがその単語を聞いたのは二度目だった。 
一度目は、弟を失ったあの夜。アルトリウスが業魔となったベルベットをそう称したのだ。
業魔――改め、アズは続ける。

「私を此処まで連行しながら、看守達が話してくれたんです。お前がこれから向かう所は喰魔の牢獄だ。喰魔は業魔を喰らう業魔。お前はその喰魔の餌になる…って。」
「餌…」
「だからてっきり大熊みたいな、ものすごく大きい獣の業魔を想像してたんですけど、お姉さんが喰魔…なんですよね?全然獣っぽくなくってびっくりしちゃって…って、あのう、聞いてます?」

手のひらを振るアズをよそに、ベルベットは思考する。
――アルトリウス。あの男は、あたしをここに閉じ込めて業魔を与え続けた。あたしにとって生きる為の唯一の糧。それを餌だと云う。
それは獣を檻にいれるのとまるで同じ。あたしは獣で、放り込まれる業魔は餌。飼われ、餌を与えられ、飼い主に生かされるペット。
なんて――。

「ひゃ!?」

滾る怒りを左の拳で打ち付ければ、その先の壁は受け入れきれず陥没する。 アズが肩を跳ねさせたが、ベルベットは眼中にない。
ベルベットの心中にあった憎悪の炎が一層燃え上がる。彼女の中に未だ僅かにあった優しい家族としての記憶。それらの未練は、アルトリウスがまごう事なく冷酷非情な男であったという確信を得た事で怒りを燃え上がらせる真の憎悪へと転じた。
やはり騙されていたのだ。姉も、弟も、自分も。あの男は最初からあの謎の儀式を行うために姉に近付き、弟を利用した。そして一度は家族と豪語した自分をここに閉じ込め、バケモノを餌として喰わせている。
何のために生かされているのかは分からない。だがあの男に利用されるくらいなら此処を出る。そして必ず殺す。騙されていた姉の無念を晴らし弟の仇を討つのだ。
その為なら利用出来るものは全て利用する。目の前で怯えるアズさえも。

「アズ」
「は、はい」
「さっき看守って言ってたわね。ここは何処なの」
「……お姉さん、知らなかったんですか?」
「あたしの気が変わらないうちにさっさと答えなさい」
「わああっ!教えます、教えますから殺さないでえぇ…!
こ、ここは収容所ですよ。極悪人ばかりが集められるという曰く付きで」
「で?」
「ただの監獄じゃありません。ここは……」

ベルベットの怒気を受けて、表情を真剣なものに変えたアズは勿体ぶった前置きをする。そして続けた。

「四方を荒れ海に囲まれた島、その中央に建てられている監獄……タイタニアです。」