08
確か笑われたのだ。ラビがアレンに、自分が女に蓮の花を贈った事を喋って。それでアイツは最初深刻な顔をしてこう言ったのだ。王子、蓮の花言葉は離れゆく愛ですよ、と。一瞬笑えない空気が流れて、アレンが笑った。本当に色恋に関心のない方だ、と。
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「ナマエ!約束したでしょー!もう煙突掃除はしないってー!」
そう下から…、屋根の下からリナリーは声を上げてナマエは顔を上げた。太陽の下、輝くダークエメラルドの髪に灰が乗っている。顔と腕は煤だらけで真っ黒だ。
「大丈夫ー。今終わったよー。」
何が大丈夫なのか、話がまったく絡み合ってないとリナリーは腰に手を当てている。ナマエはそんなリナリーに苦笑し、汚れた上着を脱いで屋根から見える街の景色を眺めた。たくさんの屋根と屋根が連なる奥、まるでそれがあってその街が存在しているようなものがある。美しい、この国の城だ。ナマエはその城に誰かを見るよう、目を細めた。なんて近くて遠い。
「今日もお城は綺麗だね。」
「ナマエ…」
あの日からナマエは何処か遠い目をするようになった。いとおしそうに、切なげにその目をするナマエはとても儚く見える。リナリーは屋根の煙突に凭れるようしているナマエを見上げ、舞踏会の夜を思い出した。
あの夜、ナマエはパフスリーブの長袖ワンピースの姿で帰ってきた。魔法が解けたナマエの表情はとても綺麗で儚くて、涙を流していた。声を掛ければ一人にしてと言われ、その日の夜は啜り泣く声が苦しくて寝付けなかった。次の朝にはナマエは笑っていて、何事もなかったかのようにするから何も聞けなくて、結局何があったかわからないまま。蓮の花の人とはどうなったのだろう。
「ナマエ・リー様ですか?」
「え…?」
ナマエにかける言葉が見付からないと視線を落としたリナリーに声がかかる。その優しげな声音に一瞬女性か男性か迷うが振り向いたそこにいたのは白銀の髪の少年だった。声音の通り優しそうな微笑みを浮かべ優雅にこちらへと歩いてくる動きは紳士以外の何者でもない。一体どなたなのだろう、とリナリーが小さく首を傾げると白銀の少年の横から赤毛の青年が現れる。
「アレン、その子蓮の子じゃないさ。似てるけど違う。」
「え?違うんですか?あ、じゃぁ貴女はリナリー様ですか。失礼しました。」
「え……えぇ。」
一体何なのだろうか。急に片割れのフルネームで呼ばれ、生前の父でさえたまに見分けが付かなかった双子の顔を違うと言われ、そして自分の名前を知っているなんて。こんな、森の奥のあばら屋に住む私達の名前を。
「この蓮の花の持ち主を探してる。」
「あ…」
次に現れたのは漆黒の髪をした美しい青年だった。先の二人は黒髪の青年を見ると静かに下がり恭しく頭を下げる。切れ長の目をした青年が一輪の花を出した。いや、一輪の造花。蓮の花飾りだ。
「鏡みたいだな。知らないって事は無さそうだ。」
リナリーの顔を見て目を細めた青年にリナリーがまさかと声を飲んだ。
「ナマエの……蓮の人…?」
「良かったですね王子。ハムの人だって。」
「ハムなんて持ってきてないさー」
「お前ら減給されたくなければ黙れ。」
「………。」
「………。」
急に砕けた雰囲気を出す三人の身なりはなかなかのもので、上流中の上流、と言える。純黒の礼服に赤い線が縁取られ装飾は全て金だ。それに胸元に付いてあるクロスは見たことがある。あれは、この国の、
「この蓮の花の持ち主はどこにいる。」
「ッ!!」
ガタンッと大きな音を立てて落ちたのはバケツだった。がらがらと転がるバケツは真っ黒に汚れ、中からぐるぐるに巻かれたワイヤーブラシが出てきた。煙突掃除に使うものだ。このあばら屋の上から落ちてきたのだろうか、そう皆が視線を上げた先には小さな少女が古ぼけた煙突にしがみついていた。真っ黒に汚れた頬や目尻、煙突にしがみついている小さな手も黒く汚れ、団子を乗せた頭には灰が乗っている。
「…煙突掃除人……?」
「いや、あの子が蓮の子さ。」
「…降りれなくなったとか。」
「いや、今バケツが落ちてきたから……」
どう見ても年頃の女性らしからぬ姿と行動にアレンとラビの目が遠くなり、それを見たリナリーは頭を抱えた。しかしそれに動じない人物が一人、屋根を見上げた。蓮の花を一輪、ナマエに向けて。
「俺がお前に贈った花だ。」
「…し、知りません…。」
屋根の上の少女は煙突に身を隠すようにしてこちらから視線を外した。その声からは緊張と戸惑いが感じられる。
いや、間違いなく俺がお前にやった花だ、と青年が声を上げる。しかし少女はその声に、小さく、小さく、泣きそうな小さな声で返した。
「人違いです……。王子様が…、こんな灰かぶりに花を贈るなんて……」
ありえない事でございます、そう弱弱しく返した言葉に声を上げそうになったのはリナリーだ。しかし声を上げる前にラビとアレンがそれを制し、三人は青年と少女のやりとりを黙って見つめた。
青年が、神田が声を張った。低くて甘い、少女の、ナマエの好きな声が響く。
「俺はお前の前で王子でいた事なんてない!」
「………っ…」
好きな女がいた。
いつも城の中庭、水瓶を抱えた女神像の噴水に腰掛け、水に浮かぶ蓮の花を愛でる女。城に入れるぐらいだから何処かの貴族の娘なのはわかっていたがとにかく気取らない女で、俺がこの城の王子なのを知らないのか声をかければ普通に返すし、恭しくしないし、無邪気に笑いかけてくるし、とにかく今まで女に感じていた「面倒」な感情をぶっ飛ばすような女だった。
「お前はどうなんだ!お前は俺の前で、貴族のお嬢様だったかよ!」
城の出入りを許されていた頃、水瓶を抱えた女神像の噴水に腰掛け、蓮の花を愛でていた黒髪黒目の男の人がいた。城にいる人とは思えない程無愛想な人だったが話し掛ければ一言ながらも返してくれるし、上辺だけ付き合う貴族の男達とは違う一匹狼みたいな雰囲気は社交界で疲れた自分には付き合いやすかった。今日はいい天気だとか、蓮が綺麗だとか、そんな話を楽しくしていた。腰に剣を下げていたからきっと騎士なのだろう、無愛想だが、一緒にいて心地よいと思う、大事な人だった。
互いに互いの名前は知らなかった。だけど会えるだけで良かった。言葉を交わすだけで良かった。つまらない社交界、上辺だけの会話を聞くより、あの人と今日の天気とか蓮の花の話をする方が万倍も楽しかった。ずっとこうしていたかった。
何処の誰だか知らない、あなたと。ずっと。
「お嬢様、じゃない…!あなたの前でお嬢様でいた事なんてないよ…!!」
散った涙が宝石のようだった。
顔は煤だらけで頭や服は灰だらけなのに、みすぼらしい姿なのに、少女の涙はとても綺麗だった。朝露に濡れる、蓮の花のようだった。
その蓮の花に、神田が腕を伸ばしたその時。
「!?」
「あっ…や…!」
家の裏から大きな爆発音が聞こえて、暖炉を使っているわけでもないのに煙が、爆風がナマエを吹き飛ばした。煙突から手を離したナマエの細い体は屋根から転がり神田は腕を広げた。水面で咲き誇る蓮の花を支える葉のように。
「ナマエ…!!」
「王子!」
「王子!」
三人の声が重なり爆風が舞う。ラビとアレンがそれからリナリーを守り、視界を遮る砂埃が治まるとそこには、小さな少女を強く強く抱き締める青年の姿があった。少女の細い腕は、青年の首後ろにしっかりと掴まってある。
「この、灰かぶり…っ」
苦笑混じりの彼の声が聞こえた。転げ落ちた事に、彼の腕の中に必死でしがみ付いた事に、煤と灰だらけの自分に恥ずかしくなって顔が熱くなる。違う、彼と自分のゼロ距離が、熱い。リナリーも彼の御付きもこちらを見ているというのに、離して欲しくなかった。
そして二人は神田の手により蓮の花がまたナマエの髪に咲き誇るまで、互いを求めた二年間分、抱き締めあった。
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