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晴れ渡る空の下で、たくさんの人に迎えられ、規模の大きさや金ではなく、この国らしい、心でもてなされた昨日の事は絶対に、一生忘れないだろうと神田は思った。

なぜなら、グラスを持って歓迎すると言ってくれた姫の瞳は、忘れることができないほど、美しい色で輝いていたから。








思いの外熟睡してしまった体を叱咤して神田はベッドから起き上がった。薄い白いカーテンから漏れる日の光は、(昼前だろうか、)だいぶ明るい。ベッド近くにある机には今日の着替えが用意されていて神田はそれを重い瞼を持ち上げながらしばらく見つめ、ハッと息を呑んで寝惚けていた頭を無理矢理覚醒させた。


「っ!」


神田はひやっとした汗を背中にかいて、ベッドに立て掛けた愛刀をがっと掴み、胸に持って呼吸を荒立たせた。冷や汗が寝起きを悪くする。


(最悪だ…。)


カーテンの向こうから見える何処までも続く広野に、民達の笑い声、家畜の鳴き声、長閑なこの風景に神田は溜め息を吐いた。


(…まずい。)


と感じた。
軍人のくせに気を完全に抜いて昼近くまで熟睡してしまった。しかも着替えがそこに置いてあるということは、この部屋に誰かが入ったということだ。自分はそれに気付かず、寝ていた、…と。第八とはいえ、一つの師団を任されている者として情けないを通り越して愕然としてしまう。この国に来て完全に何かが緩みきっている。神田は用意された着替えには腕を通さず、念のために持ってきていた軍服の軽装に着替えて腰に愛刀を帯刀した。気を引き締めるように髪をいつもよりきつく結い上げ、部屋を出るとすぐにメイド長のパトリシアに会った。


「おや神田様。今起こしにいこうと思っていたところですよ。今朝はゆっくりできましたか。」


悪気のないパトリシアの言葉がざくざくと突き刺さる。神田は眉を寄せてパトリシアの笑顔から目をそらした。しかし自分の半分も生きていないような子供にそのようなことをされてもパトリシアは何とも思わず、神田の軽装に「あ…」と小さく声を洩らしたがすぐにいつもの笑顔で打ち消した。


「神田様、今日のご予定は?」

「特にない。素振りがしたいんだが、訓練場か鍛練場はあるか。」

「残念ながらエスメラルダにそんな場所はありませんよ。土地だけはあるから、空いてるとこがあったら適当に使ってくださいな。」


戦争や武器などとは程遠い国、エスメラルダ。代わりに緑と人の優しさで満ち溢れている。現に目の前のメイド長は今まで見てきた若いメイドよりとても活き活きとした目をしている。きっと自分はそんな気に当てられてしまったのだ。素振りでもして少しでも感覚を戻さないとマナに戻った時どうなるか…。想像しただけでも(銀髪が脳裏をちらついて)頭が痛い。


「神田様、朝食は如何なさいますか?」

「あぁ…。」


朝食、と言ってもあと小一時間すればきっと昼食の時間だ。寝すぎた自分と、朝食の時間に間に合わなかった自分に溜め息が出る。もしかすると朝食に姫は自分を待っていたかもしれない。


「…姫は?」

「あぁ、安心してください。今日ナマエ様はバイトなので朝早くに出ていかれましたよ。」

「…………………。」


…バイト。何度聞いても信じられない。一国の姫が、アルバイト…。ということは今日の朝食は寝過ごして平気だったということか(いや、全然平気じゃないが)。安心してください、と笑ったパトリシアの笑顔が「あ、」と手のひらを打ち合わせた。


「神田様、お使いを頼まれてくれませんか?」

「…あ?」

「お釣りで何か買って食べていいですから。」

「ま、待て、何を…、」

「…まさかお金の使い方わからないとか言いませんよね?」

「な…!そんなわけないだろう!」

「そりゃ良かった。たまに居るんですよ。お金を渡しても首を傾げるお客さん。はい、お金。」

「あ、…あぁ。」

「これお使いのメモです。はい、カゴ。」

「ま、待て。店がどこにあるか…」

「聞けばわかりますから。」

「誰に…!」

「誰にでも。」


そうパトリシアは笑って神田の背中をぐいぐいと押した。軽装と言っても軍服には似合わない網目の入った買い物カゴを持たされて、いつの間にか玄関まで来ていた。玄関にいた他のメイドが神田とパトリシアを見ると玄関の扉を開けてにっこりと笑っていた。まさかパトリシアの、ましてや婦人の腕を振り払うわけにもいかず神田はパトリシアに押され玄関の外に追い出されたように出た。


「では、いってらっしゃいませ。」


なんて閉じていく扉の間からパトリシアがメイド長らしい恭しい美しいお見送りをしてくれ、神田は屋敷の扉に向かって買い物カゴを投げ付けたくなるのだった。


「…あんの野郎…!」


初めて会った時から感じていた神田の中のパトリシアの苦手感情は、この時既に苦手以外の何かに変わりかけていた。神田は手にした買い物カゴに小さく項垂れてから足先を城下に向けた。お使いという名の任務だと思えばいい。そうだ、そう思えばいい。と神田は気を引き締め買い物カゴをしっかりと持った。ミッション(お使い)開始だ。



††††††



「はい、お釣り。」


買い物カゴに買ったものを詰めて神田は店主から釣りを受け取った。メモに書かれたものは大抵この店で揃えることができて、この店も屋敷を出ればすぐ見付けることができた。あとは何を買えばいいのだ、とメモを見れば食パンとフランスパンとクロワッサンと…、とにかくパン屋に行けばいいみたいだ。


「おい、ここの近くにあるパン屋はどこだ。」

「パン屋かい?」


店主は昨日の歓迎会に参加してくれた人で、気前の良さそうな顔でにかっと笑った。この笑顔で先程は引き止められたのだ。「神田様!今日は買い物かい?ならここで大抵は揃うよ!」と。店主は少し伸びた顎髭をなぞった。


「ははーん。神田様、もしかしてトリシャさんからお使いを頼まれたのかい?」


もしかしてもなくてもそうだ。(一応)旅客に買い物をさせる奴なんてなかなか居ない。しかし急に押し掛けたにしては姫に謁見申請もせず会わせてくれ、部屋まで用意してくれ、三食も用意してくれたので文句は言えない。


「ならここの道ずっと真っ直ぐ行った三丁目のパン屋がいいよ。観光スポットさ!」


パン屋が…観光スポット?神田は小さく首を傾げたが店主は「行けばわかるって!」と背中をバシバシ叩くだけで、神田は何処かで聞いたことがある三丁目のパン屋へと買い物カゴを持って店を出た。そして知らず知らずに「わからない店を人に聞く」という隠れミッションをクリアしていたのだ。






店主に言われた通りこの道を真っ直ぐ行ったところで芳ばしい香りが神田の鼻を擽った。焼き立ての温かくて優しい香りに何も食べていない胃が音を鳴らした。少し多目に渡された金を確認して、自分の食べ物もここで買おう、と見えたパン屋に向かった時だった。


「姫様ばいばーい!」

「ばいばーい。転けないように気を付けて帰りなさいよー。」

「はーい!」

「おやナマエ様、今日はバイトの日かい。」

「えぇ。でもあとちょっとしたら上がるわ。」

「ならパンでも一つ買って帰ろうかね。」

「ありがとう!さ、入って!」


ここに来て耳慣れた声が、片耳だけに光らしたエメラルドのピアスが、神田の目に入った。髪の毛を、清潔感を感じる程きちんと纏め、白い三角巾を頭に結んでエプロンを着たこの少女がこの国の姫だと言って一体誰が信じるだろうか。先程の店主が「観光スポット」だと言ったのがなんとなくわかる。姫が売り子をしているパン屋などそうそうない。この世界できっとこの国だけだ。買出しのメモに書かれたパンの文字にパトリシアの笑い顔が見える。神田はメモをポケットに入れて、パン屋の扉を開けた。


姫と客である老婆が入った後を追うように扉を開けると軽快なドアベルが鳴り、焼きたてのパンの香りがいっぱいに広がった。すると先程まで外に出て小さな客を見送っていた売り子の少女が振り向き、


「いらっしゃ…、」


と元気よく挨拶をして、そこにいた神田に目を大きく見開いた。愛らしいエプロンと清潔感を感じる髪型は、また新鮮だった。


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