18
最後の足掻きとばかりに爆発したアクマの煙に包まれるナマエの体を走って抱き止めた。
「ナマエッ!」
崩れかける前に抱き止めた体は小さくて、軽くて、赤黒い液体に染まっていく。砂塵と化した剣は跡形もなくナマエの体に穴を二ヵ所空けて消えた。そこから逃げ出すように血がどくどくと溢れて、止まらない。やめろ。止まれ。頭が真っ白になる。いや、ナマエの止まらない血に頭が赤黒く染まる。夢が、赤黒く染まって映る。目の前で、夢が。
「なんだ…結局、足手まといに…なっちゃったね…」
どくどくと流れる赤を俺は止めることができない。どうしたら止めることができる。どうしたら、どうしたら(なんて無力)。
まるで他人事のように、自分から流れる血を眺めるナマエの口からも血が流れ、呼吸が音をたてている。それでもナマエの表情は穏やかで、コイツ痛みを感じてないのかと抱き寄せてみたが苦痛に歪んで腕を緩めた。そんな事あるわけがない。いつもコイツは怪我を負った分、痛みも負っていた。こんな状態になっても笑みを浮かべていられるのは、笑みを浮かべられる程に痛みに慣れてしまったからだ。
「神田君…」
まるでこれを、この状態を予期していたかのようにナマエは笑っていた(こんな時まで…っ)。コイツの再生能力は働いていないのか。今こそイノセンスを発動させるべきじゃないのか。発動させて、寿命を代価にしてでもこの傷を癒すべきだ。それとももう、コイツにはイノセンスを発動させる程の寿命が無いとでも言うのか。
血が口端を滑る。それを指で拭えば、ぬるりと血で濡れたナマエの手が俺の頬に触れた。
「さっきの話、僕の、…ナマエじゃなくて、私の名前…」
「喋るな、傷が広がる」
喋ろうが喋らまいが、俺は脳裏でわかっていた。駄目だ。ナマエは、目の前の女はもう、死ぬ。だけどそれを俺は必死に打ち消していた。死なない。ナマエは死なない。いや、それは俺の願望だ。(死ぬ、な。)
「教えたら、呼んでくれる…?」
「呼ぶから、喋るな、もういい」
「言ったね、ちゃんと呼んでよ…。ぜったい、みらい、で」
掠れていくナマエの声は聞き取りにくい。聞き取りにくい程小さく消えてしまいそうな声なのに俺の耳は一つも聞き落とさんとばかりに拾っていた。
「未来…?」
「うん…、だって、今この生は、ナマエのだもん…。私の生は、これから…」
するりと頬を滑り落ちそうになった手を胸元で握った。落としたら今にも逝ってしまいそうなナマエの命を必死に繋ぎ止める。それしか出来なかった。きっとナマエがこんな状態じゃなかったら、ふざけんなそんな胸糞の悪い訳のわからない馬鹿な話は止めろと言えたであろう。だけど、喉が焼け付く程に痛くて言えなかった。
「今度は…、私として、最後まで生きるんだ…、また、ナマエのおねえちゃんとして、生まれて…、」
「やめ、ろ…っ」
そんな、死に逝くような台詞聞きたくもない。お前は、あの男と看護婦と逃げるのだろう?最期を、静かに暮らすんじゃなかったのかよ。三人で、暮らすんじゃなっかたのか。
「幸せに、暮らすの、最後まで…。それでね、ちゃんと、私として、神田君、に会うんだ…」
ナマエとしてじゃなく、『私』として。弱弱しく握られる手を握り返した。ぬるぬるとした血の感触など無い。今あるのは全身に感じるナマエとしての生。この女の弟の生。しかし今、この生はもう一度姉として生きようとしていた。何を今更。ずっと、ずっとそうしていれば良かったのだ。死んだ弟に生を与えるのではなく、お前として生きていればもっと違っていたかもしれないのに。
「だから…、神田君、来世、わたしにあいにきて…」
握る手に脈を感じる。どんどん遅くなっていく。冷たくなっていく。どうする事もできないこの状況に目を伏せ、奥歯を噛み締めた。
「わたしのなまえ、よんで…、わたしを見つけてね…」
「名前…お前の…?」
「そう、わたしの、なまえ」
ぽつり。
もう呼吸すら辛そうにするナマエの名前を、小さな口から零れた名前を俺は口にした。するとナマエは、目の前の女は照れ臭そうに、でも嬉しそうに幸せそうに微笑んだ。その表情に俺はその名を何度も呼んだ。口にした。足りない。呼び足りない。血が、止まらない。どくどくと流れる血にこれ程までに無力を感じた事はない。
「かんだくんは…?神田君の、したの、なまえ、おしえてよ…。わたしも、なまえ、よびたい」
私もキミを見つけるよ、と言った女の言葉に笑いたかったのに、上手くいかなかった(だから来世なんてそんなもの、ない)。「もう、知ってるんじゃないのか」笑えてもいない、変な顔になったと思う。それでも女は嬉しそうに俺を見上げていて「神田君の口から、聞きたい」と呼吸を小さく小さくさせていた。…あぁ、もう、俺は見えていないのだろうか。
「……ユウ、神田ユウだ」
「ゆう…、…すてきな、なまえ…だね」
ゆう、ゆう、と俺の名前を、俺と同じように女は口にした。繋ぎ止めた腕から制御具が静かに落ちる。瞬間、左胸が熱く感じた。
「ゆう…、神田ユウ…、」
「………」
「ユウ君…だ…」
それから今まで見た一番の笑顔を俺に見せて(血だらけのクセに)、女は呼吸を止めた。
(冷たい唇に、唇を)
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