おやすみ
頭の中で反響する。
瞼の裏で影が映る。
違う、影じゃない。
人だ。
それも、とても大きい。
あれは、あれは、
『この、役立たず。』
おやすみ
「………」
微かに衣擦れの音をさせてナマエは目を覚ました。目尻は知らない間に濡れていた。
夢だ。
小さい頃から見る、目覚めの悪い夢。
この夢に魘されてバクやウォン、フォーに何度も起こされた。何度も迷惑をかけた。本部に戻った頃も何回か見ていたが、最近は見なくなっていた。
見なくなっていたが、やはり忘れるなとばかりに見てしまう。
ナマエは湿った目尻を拭ってベッドから起き上がる。爽やかな石鹸の香りにナマエの心臓が落ち着きを取り戻したかのようにとくんとくんと鳴る。この部屋の主人は任務で今はいない。だけど香りだけでも十分落ち着く。自分の夢見が悪いのを心配して彼が使っていいと言ってくれたベッド。
後癖のない、爽やかな香りがする。
安心する香り。
主人のいないベッドはとても冷たいが、自分の心はじんわりと温かい。
香りで心を落ち着かせるようにナマエはまたベッドに身を沈めた。手繰り寄せた枕を抱き締めて目を伏せる。すると体が少しざわざわと騒いだ。鋭く厳しい気配が伝わる。これは、この気配は…。ナマエは抱き締めた枕を置いて靴も履かずに裸足で床を歩いた。
ひたひたと歩く床から冷たさが伝わるが関係ない。今はこの気配にもっと近付きたい。部屋のドアノブに手をかけようすると、向こう側から銀ノブが動いた。はっ、としてドアから離れればドアが開いて、神田がそこにいた。
「…ナマエ……」
ドアを開けてすぐにナマエがいた事に神田は少し驚いたらしく目を大きくしていたがナマエは特に気にせず神田の胸に額を置いた。こてん、と置かれた額に神田は一つ瞬きをして、一度辺りを見回してから彼女の腰を抱いて部屋に入った。後ろ手でドアを閉めれば今度は細い腕が神田の首後ろに回ってきて、首筋あたりにナマエの頬が押し当たる。
「……ナマエ?」
「…ん。」
「どうした。」
「…六幻の気配がしたから。」
彼女はイノセンスの気配に敏感だ。時には遠く離れた気配もわかるが、あれは『発作』が起きた時特有の事だ。ざっと見た限りその発作が表れた様子はない。だとすると、普通に気配を感じたのだろう。どこか泣いていたように見える濡れた瞳のナマエを神田は抱き締め、気付く。
「お前、靴は。」
「あそこ…。」
指差された場所はベッド下で、別に靴の位置を聞いたわけではないのだが…、とナマエを見下ろしたが今にも消えてしまいそうな憂えた表情に胸が微かに締め付けられる。細い素足を抱えて、ナマエを抱き抱えたままベッドに座る。少し乱れたシーツにナマエがここで寝ていたのがわかる。
「本当にどうした。」
「え?」
珍しく甘えてる。そっと顔を上げたナマエの頭を抱えるようにして撫でるとナマエの瞳がまたじわりと熱くなってきて悟られぬように首筋に頬を置いた。ああ、香りがする。彼の香りだ。
「…ごめん。」
「何で謝るんだよ。…何もしてないだろ。」
「…………………。」
うん、そうだね。とほっと微苦笑したナマエに神田は少し安堵した。彼女のどんな顔も好きだが、やはり憂え顔は心配するし、笑ってくれれば安心する。
「何かあったのか?」
甘い、穏やかな声が耳から脳を通って心が温かくなる。首に回した腕をほどけばそれが神田の手に掴まって指が絡む。包み込むような神田の大きな手が冷たくて温かい。
「…怖い夢、見たの。」
「ああ。…眠れないのか?」
「ちょっとだけ…。」
睫毛を伏せたナマエに神田はそうか、と一言置いてナマエの額に唇を落とした。そして小さな体をベッドに優しく寝かせ、それを抱き締めるように神田も横になった。彼女の夢見はなぜか悪い。過去に嫌な事がたくさん在り過ぎるからだろうか。こんな事はこれが初めてではなかった。最近は落ち着いているようだったから気にしていなかったが、まるで忘れるなと言わんばかりだ。だからこそなるべく一人で寝かせないようにする。自分がいない時にこのベッドを使っていいと言ったのはそのせいだ。(今では任務の帰りを迎えて欲しい、という私欲が大半になっているが。)
「また嫌な夢見たら起こしてやる。」
「私が見てる夢、ユウにも見えるの?」
「……魘されてたら起こしてやる。」
まるで赤子をあやすようにナマエの背中をゆっくり叩く神田にナマエは先程までの感情を忘れてしまう。
ー神田がいない時はとても悲しくて、暗くて、寂しかったのに。
顔を埋めるように神田の胸に寄り添った。任務帰りで疲れているだろうに…、だけど彼は#ナマエをひどく甘やかす。まるで依存させるかのように。いや、もう依存してしまっている。
この、優しい香りに。
私はきっと一生、彼を断ち切るなんてこと出来やしないだろう。
「寒くないか。」
「大丈夫。」
「寒かったら勝手に自分の毛布とか持ってこいよ。」
「私の部屋に毛布がなくなっちゃうじゃない。」
「毎日ここで寝ればいいだろ。」
「それは…やだ…。」
「あ?」
「だ、だって…」
ユウの匂いだらけで私は眠りたいんだもん。
貴方の香りに抱かれて
お や す み
(私の毛布でユウの匂いが消えちゃうかも。)
(ナマエの毛布、俺が欲しい…)
―『おやすみ』終―
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