はなしたくない。





緩い、優しい温かな圧迫感にナマエは眠りという空間から抜け出した。ゆっくりと開けた目の前にはなんとシャツから覗く逞しい胸板があって寝起きでも刺激的なそれにナマエは完全に目を覚ました。どきっとするような胸元から視線を上げれば寝息を静かにたてて安らかに寝ている愛しの人がいて、そのあどけない寝顔にナマエは頬を緩ました。おはよう、そう小さく言って彼の額にかかる真っ直ぐで柔らかい前髪に触れた。緩い圧迫感は背中に回された彼の腕で、抱き枕よろしくのような状態のナマエはその優しい圧迫感に愛しさを感じた。


(そっか…、昨日は神田が任務から帰ってきてそのまま一緒に寝たんだっけ…。)


そう、神田が任務から帰って彼の部屋で少し談笑した後、そのまま眠くなって彼のベッドで意識をなくしたのだ。任務後で疲れているというのに…。ナマエは前髪を撫でるその手をそのまま下へ下ろして整った彼の輪郭を撫でる。まるで女性のように、いや女性以上に綺麗な目鼻立ちについ見惚れてしまう。彼は恋人目贔屓無しに見ても美しい男性だ。男性に美しいなんて言葉はおかしいかもしれないが(しかも彼はこれ関連の言葉を送られるのをひどく嫌がる。)残念ながら彼は美しいという言葉がよく似合う男性だった。ナマエはなぞるように顎から首筋、鎖骨へと手を滑らす。

ナマエの手はびっくりするほど滑らかな神田の肌を滑り、先程からナマエの目の前にある胸板に辿り着く。無駄に色気を出すその板にナマエはほぅ、と息を漏らす。全身が美術品か何かのようだ。しかしうっとりと眺め、撫でる手つきはあるところでピタリと止まってしまった。


「…………………、」


肌蹴たシャツから覗く、黒い梵字のタトゥーがナマエの瞳を揺らす。神仏を表し様々な災難から救ってくれる神聖な力を持つと言われる梵字だが、ナマエは彼のタトゥーからそんな力は感じられなかった。むしろ、


(…もっと、禍々しい…、)


時に彼を蝕むように見えなくもないそれはナマエの不安と不思議の一つでもあった。これは彼の何なのか、彼の何を示すのか、趣味で彫られたようなものではないそれをナマエは何度も聞こうと思っていたが、いざ神田を目の前にするとどこか聞いてはいけない気持ちがわき出てナマエの口を閉ざしたのだ。なぜだろう、と思うと同時に悲しさと無力さが心を支配する。彼は自分から何も言わない。それはナマエを信頼していないからだろうか。違う、そうじゃない、とナマエは首を振る。言いたくないのだろう。彼は、自分から語らないのではない、語りたくないのだ。でなければちゃんと自分に言ってくれるはずだ、とナマエは半分言い聞かせるようにして瞳を揺らす。

しかしそれと一緒に沸き起こる悲しさ。彼をしっかりと支えられない自分の無力さに涙が零れそうになるのだ。


(結局、私はユウを知らない…。)


目の前に神田がいるのに、時々、手の届かない、走っても追い付けない遥か遠くに神田がいる気がする。こうして彼に触れていても、本当に触れているのか不安になる。ナマエは梵字をつう、と細い指でなぞる。すると、


「…おい、」


頭から寝起きの低い声が落ちてきた。


「あ…、起きた…?」

「さっきからくすぐったい…。」


梵字をなぞった不安な顔を引っ込めてナマエはおはよう、と微笑み、神田はそれに返事をするように背中に回した腕の力を強くした。くすぐったい指先に起こされ少し不機嫌そうな声だがそこまで怒っていないようだ。(まぁ、それは彼女だから、なのだが…。)


「やめろ…、朝から変な気分になる…。」

「へ、へんなきぶんって…」


どんな気分だ、と問おうとすればナマエの衣服の中に彼の手が入ってきてナマエは慌てて神田から体を離した。そんなナマエに神田は冗談だ、とにやりと笑って額に唇を落とした。その直後、頬を赤くしてふるふると震えるナマエからの右ストレートが神田の顔に食い込んできたことは言うまでもない。

今日も黒の教団本部に爆発音が響いた。







「キミ達さー、これ何回目?」


呆れ顔でこちらを見て言うコムイの言葉を聞いているのか聞いていないのか、ぼろぼろに破壊された神田の部屋の前でナマエと神田は互いに顔を逸らし不機嫌そうに立っていた。二人の格好も(言うまでもなく)ぼろぼろで、何があったのか、それは右頬を腫らした神田と棍棒のイノセンスを握るナマエを見れば一目瞭然だった。


「一応聞いてあげる。どっちが先にやったの?」

「パッツン」
「どチビ」

「うん、もういいや。」


世間的に、一般的に、(コムイ的に非常に不本意だが)二人は恋人同士というものなのに、なぜ彼らはこう…、愛情表現が激しいのだろう(とでも言えばいいのだろうか…。)。思えば出会ってから恋仲になるまで、彼らの盛大な喧嘩は付き物で(しかも二人とも荒っぽい性格のおかげで必ず教団のどこかが被災地になる。本日の被災地は神田の部屋だ。)それは恋仲になった現在でもなぜか健在である。はたから見れば仲が良いのか悪いのかまったくわからない恋人同士である。


(ま、悪いなんてことはまず無いんだろうけどさ…。でも…、)


それにしても、とコムイは神田の腫れた頬を見つめる。彼の端整な顔立ちはぶれていないのだが、まぁ、痛々しい跡がなんとも言えない。間違いなく拳で殴ったであろう自分の妹に苦笑する。


「ナマエも容赦ないねぇ。神田くんまだ傷癒えてないのに。」

「…コムイ。」

「え…!」


言った瞬間、神田から舌を打つような声で睨まれ、その隣のナマエは驚いたように眼を丸くして神田を見上げている。あれ、言っちゃまずかった?とコムイはなんだか空気がガラリと変わった二人を見た。昨夜、任務から帰ってきた神田は脇腹に任務で負傷した傷があった。そんな事、ナマエはとっくに承知のはずだと思っていたが…。どうやら本人が彼女に言ってなかったようだ。(いや、黙っていたの方が正しいのかもしれない。)


「傷って…、ユウ怪我したの…?」

「もう治った。」


嘘よ、と言いかけた言葉をナマエは飲み込んだ。その前に神田が患部である脇腹をシャツをめくって見せてくれたからである。昨夜まではぱっくりと切られていた傷跡がすっかり無くなっていてナマエと一緒に脇腹を覗き込んだコムイは思わず息を呑んでしまう。脇腹はの傷は何事もなかったかのように消えている。


(相変わらず…、すごい再生能力だ…。)


確かに昨夜は医療班も溜め息をつくほどの痛々しい傷がそこにあったのだ。早く部屋に戻ろうとする神田をコムイと、一緒に任務に出ていたラビが無理矢理医療班へと連れて行ったのだ。その傷が一晩のうちに綺麗に消えている。彼の異常なまでの再生能力は知っていたが、いざ目の前にしてみると少し戸惑ってしまう。コムイは心配そうに神田を見上げたが当の神田はもういいだろ、とシャツを下ろし辛そうに顔を歪めるナマエの頭に手を置いた。


「おい、飯行くぞ。」

「…うん……。」


心配と不安が混じって、これが人前でなければ泣き出してしまいそうな顔のナマエの手を取って神田が自室に背を向けた。


「神田くん。」


しかしコムイはそんな神田の背中を止めて瞳を厳しく細めた。


「無茶は駄目だよ。わかってるよね。」

「コムイ、その話は後に…、」

「あ…、ユウ!私、先に食堂行ってるから!」


後にしろ、そう神田は言おうとしたがナマエが弾かれたように顔を上げて自分は気にするな、とばかりに両手を顔の前で振った。ナマエは神田が呼び止める前に二人に背中を向けてあっという間に食堂の方向へと走っていった。その後ろ姿を見つめて、神田はてめぇ…、とばかりにコムイを睨んだがコムイは怯むことはなかった。むしろ妹達に向けるような目を神田にも向けて神田の肩に手を置いた。


「君が苦しめば苦しむほど、ナマエは傷付くよ…。」

「………わかってる…。」


神田は小さく、でも確かにそう返した。もちろん僕もだからね、と言ったコムイを鼻で笑って神田は今度こそコムイに背を向けて、後ろで微かに笑ったコムイの気配を感じた。


──わかってる。

わかっている。


だからこそ、


彼女に自分の事を話したくないのだ。



(全てを告げても、あいつは俺の隣に居てくれるだろうか…。)



話したくないのだ。



離したくないのだ。







はなしたくないから、


はなしたくないのだ。


  

すことと、
すことを、
天秤にかける。

―『はなしたくない。』終―


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