彼─1

 彼は疲れていた。何に、と問われれば返答に窮してしまうほどごくごくささやかなものだったが。

 それでもその小さなものは彼の心の大部分を占め、巨大な暗雲となって体まで埋め尽くしていく。

 誰にも言えない。

 誰にも言わない。

 自分が家族に疲弊しているなど、言えやしない。

 彼の家は村の中でも裕福な家である。山奥の豪家など高が知れているが、それでも自尊心をむやみに高めるには充分だったのだ。

 父も、母も、兄も弟も姉も皆、血で繋がれた家族に誇りを持っている。

 彼を一番に責め立てる祖母は家に誇りを持っている。

 だから小さな村で君臨する彼等を見るたび無性に虚しい気分に陥り、今こうしているように彼は山に入ることが多かった。

 日に日にその回数も時間も増し、初めは口うるさく注意していた家族も最近は手慣れたもので、日が暮れても帰らない時にだけ人をやって彼を探させる。

 探さないでほしい。

 このまま山を歩み、どこか別の世界へ抜け出したい。

 この小さな世界ではない、遠く大きな世界へ。

 誰か、連れ出してくれないだろうか。

 叶わぬ願いを思い描いたところで胸に一つ重石が足されるだけである。

 叶わぬものを願い、それが目の前から奪われた時の落胆は味わいたくなかった。

 少しでも暗雲を晴らそうと大きく息を吐く。黙々と進めていた足は心と同じく重い。

 かさりかさりと笹をかきわける音が辺りを支配する。

 だがその時、今まで一つだった足音が二つに増え、彼の目の前で立ち止まった。

 先客かと顔をあげる。

 彼は、彼女と出会った。

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