白澤様、こないの
生理がこない。
たった数文字の言葉を口にすることができなかった。彼が日頃から「絶対に結婚はしない」と主張するのを聞いていたから、相談を持ちかけても無意味なことは明らかだった。
私は、白澤様の場所へ行くことをやめ、自分の家からほとんど出なくなった。
毎日のように会っていた彼と距離を置いて一ヶ月。私から連絡を取らなければこうも容易く途絶えるものなのだと知って、無性に悲しくなった。
ベッドで毛布にくるまって泣いていると、玄関の扉が開く音が聞こえた。ばたばたと足音が近づいて来て、見慣れた顔が角から覗く。
「ニーハオ!なまえちゃんが会いに来てくれないから僕から来ちゃっ――え!?泣いてるの!?」
ヘラヘラしていた表情が引きつって、狼狽えたものになる。私はそれを内心、いい気味だと思いながら、背を向けるように毛布にもぐる。白澤様が駆け寄ってきて、布団の上から抱きついた
「どうしたの?何か辛いことがあった?」
その声は分かりやすいくらいに焦りの色がにじんでいた。満足と、怒りと悲しみが、心からあふれて入り乱れる。
「一ヶ月もほっといたくせに」
「ごめん、本当にごめんね。僕もすごく寂しかったんだ」
彼女でもない女にこんな風に言われて、謝ってしまう白澤様は優しいのか優しくないのか。多分、両方なのだろう。私は毛布ごと白澤様を払いのけると、起き上がってベッドの上で正座した。
「白澤様、私もう、あなたと会いません」
「……どうして?」
彼の眉が寂しげに寄せられるのを見て、自分の弱い部分が膨らんでしまう。ほだされないよう、視線を落として、彼を視界から弾きだす。
「僕のことが嫌いになったの?」
目は伏せても、辛そうな声が表情を想像させる。ずるい男だ。代わりに愛してくれる女など、たくさんいるくせに。執着がないことなんて、分かっている。
「私、こないの」
「え?」
「生理、きてない」
白澤様が言葉を失うのが分かった。私は正座した腿の上で握った自分の拳を見下ろして、取り返しのつかないことをしてしまったことに、ひどい息苦しさを感じていた。
一つの命を殺めるか、抱え込んで苦しみながら生きるか。私が独りでそういう葛藤をしている間も、白澤様はどこかで誰かに愛の言葉を紡いでいる。
そう考えると、悔しくて、虚しくて、八つ当たりのような気持ちで告白してしまった。悪いのは彼ではなく自分だと、頭では分かっているのに、心が追いつかない。
「それで、僕と、距離を置こうとしたんだね」
いつもどこかふざけているような彼が、真剣な声で問う。私は答えるでも首を振るでもなく、ただじっと息を潜めてうなだれていた。
「確かに、僕たちは潮時だね」
重々しく吐き出された言葉に、あっけなく訪れた終わりを痛感し、下腹部が重くなるのを感じた。腿に水が落ちるのを見て、自分が泣いてしまったことに気づく。拭おうとするより前に、彼が私の手を掴んで引き寄せた。視線が合ったのは一瞬で、次に目を開けた時には、白澤様に強く抱きしめられていた。
「白澤様、なにを」
「結婚しよっか」
呼吸を忘れた。先ほど、瞬間的に見えた白澤様の表情が、少し赤らんでいたのを思い出し、疑問を抱く。突き返すように彼の胸を押すと、簡単に距離は開いたけれど、腰に回した手を離そうとはしなかった。
「なんで、そうなるの?」
「なんでって、僕たち好きあってるんだから、普通のことだよ」
「白澤様、いつも普通じゃないこと、言ってるでしょ。それに、今だって、『潮時だね』って……」
「潮時は『辞める頃合い』って意味だと勘違いしてる人が多いけど、本当は『物事を行うのに最良のタイミング』ってことなんだよ」
「え……、そうなの?」
この場にそぐわないやりとりが、妙な気恥しさを感じさせた。
どういう反応をするのが正解か分からなくて、返答に困る。
それでおもずおずと、彼の胸に置いていた手を握ると、そっと手が添えられた。また距離が縮んで、肩に顎が置かれる。
「そりゃ、僕は信頼されないようなこと、たくさんしたし、言ってきたよ。だから、すぐには答えてもらえないと思う」
耳元で、穏やかな声が、慎重に紡いでいく。
愛をささやく時に比べて、ずっとゆっくりで、緊張しているのが分かった。確かに、間違いなく、私に届くように、一つ一つの言葉を大切にしてくれている。
「……他の女の子と別れて、もう一つの命を抱え込んでもいいも思えるくらい、なまえちゃんを失いたくないんだよ」
涙が滲む。今度は温かかった。
覚悟を決めて彼の背に腕を回すと、また、強く抱きしめられる。
「大切にするよ」
140504
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