緑の海と小旅行

開け放った窓から、さらりと乾いた風が吹く。
雨の日のそれのような湿り気はなく、しかし暑熱期のように過酷なそれでもない。

顔を上げて外を見れば、きっと良い天気なのだろう。雨季の曇天続きだった空は、ようやく青く澄んでいる筈だ。
…残念ながら、己に今それを眺める余裕はないのだが。


「……う…ぐ…」


目前、数センチ下方。ぷるぷると情けなく震える手のひらの下で、沙汰を待つもの。
みずみずしい張りのある肌には、柔らかな産毛。
…そこへ、この右手に持つ。鈍色の刃を振り下ろした。

べちゃり。緩慢に弾ける赤色。


「………上手くできない…」


まな板の上、無残に潰れたのは、野菜の切り身。

額に浮かぶ汗は、暑さによるものではない。
それを手の甲で拭いながら、哀れに崩れたトマトのスライスを口へ放った。
よく冷えていて、洗ったばかりのそれ。程よい酸味の中にある甘みは、旬の味わいである。ぷちぷちとした若い種子の食感が愉快だ。…上手く切れなかったせいで、若干果肉がぶよぶよとしてしまっているが。

最初の一切れは難しいんだ、と己を納得させて、二切れ目に取り掛かる。先ほどよりも慎重に、慎重に包丁を赤い実へと差し入れ…


「………何故だ…」


出来たそれは、もはや切り身ではなかった。
若草色を帯びた種子の部分が無惨に飛び出し、鮮やかな薄皮はひしゃげ、果肉はほとんど切れていない。

流石にめげて、包丁を置く。しょんぼりと首を垂れていれば、がちゃりと玄関の扉が開いた。


「ただいま。……なにやってるんだ?」


振り向けば、片手に小包を抱えた白皙の男。


「……おかえり」


怒られるかなあと思いながら、荷物を卓へ置いて近寄ってきた男へ、台所を明け渡す。
察しの良い彼は、まな板の上の惨状を一瞥し。全てを悟ったらしい。


「こら! 野菜は洗うだけでいいと言っただろう!」


案の定、叱咤と共に頭を軽く小突かれた。


「……出来ると思ったんだ」

「一人で包丁を持つな! 危ないだろうが…」


怪我は無いかと、それだけを聞いて。こちらの野菜の汁に濡れた指を、相手は手に取り入念に調べる。
大丈夫だと答えても、指がちゃんと十本揃っているか確認するまでは解放してくれない。
子供じゃあるまいに、過保護なことだ。

面倒なと鼻に皺を寄せた己を見遣り、彼は真顔で言う。


「言っておくがな、おまえの家事…特に料理の能力は五歳児以下だ。冗談抜きで」

「……失敬な…」

「事実なんだから仕方がないだろう。…いいな、おれの居ないところで、包丁なんか使うんじゃない。前にも言っただろう…」

「……分かったよ…」


容赦のない物言いへ憮然としつつ、五歳児以下の称号に思わずしゅんとした。ふうと嘆息すれば、相手は少し笑って頭を撫ぜてくる。
やめろやめろと首を振って、それを払った。彼はやっぱり笑ったまま、卓へと置いた包みを開く。
そこからするかぐわしい匂いに惹かれて、己はその横へ顔を突き出す。


「必要なもの、見つかったか?」

「ああ、揃ったよ」


先ず、相手が紙袋から取り出したのは大きな瓶。中には、黄味がかった薄緑の液体が満たされている。何本か浮いているのは、小ぶりで細長い野菜たち。若い胡瓜の、酢漬けだ。
重たそうなそれは、どんと音を立てて木目の上へと立てられる。

次いで取り出されたのは、香ばしい香りのする包み。開けば束に纏められた、薄焼きパン。まだほかほかと湯気の立つそれは、王都のパン屋で彼が買ってきた焼き立てだ。いいにおい。
だが、辺りに漂うこの素晴らしい香りの元は、これだけではない。

一番最後に取り出されたそれは、油紙で緩くくるまれていた。香草の香りと、胸の浮き立つような独特の、とろりとした香り。顔を近付ければ、熱い湯気が頬に当たる。紙には油が滲んでいた。同じく王都の肉屋で買ったのであろう、回し焼き。その場で切り落として貰ったばかりの、香ばしい鶏肉だ。やはり焼き立てである。


「猫みたいだな」


ふんふん夢中で匂いを嗅いでいると、笑い声。
むっとして相手を睨め付ければ、腹の虫がぐうと鳴く。凄みも何もありはしない。


「冷めないうちに作ってしまおう」


また、ぽんと頭へ手を置かれた。振り払う間もなく、それは降ろされる。彼はするりと、前掛けを着けた。


「…あーあ…こんなに潰してしまって……」


まな板の上、一部がひしゃげてしまった哀れなトマト。向こうは呆れながら、飛び出した種子を包丁で払う。
その後ろから覗き込むこちらは、またしゅんとした。


「それに、こういう水気の多いものは板が汚れるから最後に切るものなんだぞ…」


ぶつぶつと、何事か言いつつ。水で手を洗った相手は、己の作った無残な切り口の周辺をすとんと容易く切り落とす。中身は潰れもせず、飛び出しもしない。まるで魔法のようだ。
目を丸くするこちらを尻目に、彼は片側が不恰好な切り身をぽいと自分の口へ入れた。ちらりと己の顔を見遣り、目を細める。
嚥下と同時。その白くもはっきりと隆起した喉仏が動いて、どきりとした。
気にしない風に、相手は包丁を持ち直す。


「…おまえは、細く切ろうとしすぎるんだ」


光る銀灰が、滑るように降ろされた。
刃は、溶け込むように薄皮へ入り、とんと板に着く。
ぺらりと、潰れもせず、ひしゃげもせず。完璧な形の切り身のひとひらが、横へ倒れた。


「……?!」


己がどんなに上手くやろうとしても、ちっとも綺麗に出来なかったのに。
まさに魔法。いとも容易くとんとんと作られてゆく赤い切り身たちに、ただただ唖然とした。


「それとな、切る時に力を入れすぎだ。あと、包丁はただ押さえつけてねじ切ろうとするな。こういう、中身の飛び出しやすいものは特にな。刃を、こうやって…そっと滑らせないと駄目だ」

「……お、おお…切れてるな…」

「厚さは、だいたい人差し指の半分くらいだ。…だからって、間違っても指の上から包丁を押し当てて目測したりなんてするなよ」

「わ、分かった…」


手を少しも休めないでいて、しかし彼はさらさらと解説をする。
どんなに教え込まれたって、少しも上達しない己へ教鞭を振るうこと、早数年。それでも諦めないこの男は、なかなか熱血だ。
そうこうしている内に、二つほどあったトマトは全て薄切りにされた。完璧で、うつくしい形の。
それらを白磁の皿へ並べて、次に相手は卓上の瓶詰めを取った。

蝋で密閉された蓋の淵を、包丁の柄で削ぎ落とす。その下にはちゃんと屑かごが置かれていて、相変わらずの綺麗好きが伺えた。粗方落とすと、節くれた指はがっちりと蓋を覆う。一瞬、白い前腕の筋がぐっと膨らんだ。次の刹那には、蓋はかぽんと音を立てて外れている。
軽く手を濯いで、彼は瓶の中から酢漬けの胡瓜を三本ほど取り出した。酸っぱいかおりがする。
生で食べるそれよりうんと若くて、うんと細いそれ。酢の酸によって、色味は薄い。とんと包丁を滑らせた断面は、薄黄色に染まっていた。


「…………」


相手が取り出した酢漬けを全部切り終えてしまって、それらの輪切りが皿へと並ぶ頃。私はすっかり、手持ち無沙汰を持て余している。
背後でそわそわとしていれば、声が掛けられた。


「ちょっと、離れていた方がいいぞ」

「…? なんでだ?」


きょとんと首を傾げれば、相手は流しの盥に浮かぶ野菜の中へ手を突っ込む。私が、出がけのこの男に言いつけられて洗っておいた野菜たちだ。
彼はその中から玉葱を出して、こちらへ見せた。


「次はこれだから」

「あー……」


納得して、己は後ずさる。一歩、二歩、三歩の距離。


「離れすぎだろう……」


呆れたような、揶揄うような声で笑われて。あちらは手際よく飴色の外皮を剥く。ぱりぱりと、乾いた音。
ややあって、つるりとした白色の…ほのかに青みを帯びた本体が現れた。
すとんすとんと上下を落として、相手はざっくりと玉を半円に割り裂く。そこからが、離れ業だった。


「?!!」


本日、二回目の放心。

なんだあれは。なんなんだあれは。
彼の手の中の玉葱は、不透明で白い。だが、その降ろされる包丁が滑ったあとのそれは。
…綺麗な、半透明なのだ。しかし、ここで驚くべきは、その薄さではない。切り落とされた玉葱は、ぺらぺらとした軟弱なものではないのだ。母体から離され、倒れる時。ちゃんと、ぱたんと音を立てる。その程度の、厚みと硬度は持ち合わせているのだ。…だというのに、あの透明度である。極限の薄さと厚さの、その狭間をぴたりと当てて、均等に切っているのだ。この男は。
なんという技。なんという力量。どうしてそういう職ではなく、武官なんてやっているのだろうか。大変疑問である。

一度唖然としてそれが過ぎ去れば、途端に湧いてくるのが好奇心だ。併せて、先ほどの手持ち無沙汰も疼き出す。
…ちょっと近付いて見るくらいなら大丈夫だろう。そう思って、一歩を踏み出す。二歩、三歩。
結局、元の位置。彼の背中のすぐ後ろへ逆戻りだ。肩口からひょこひょこと、まな板を見下ろす。相変わらず、流れるような動作で切り身は生み出され続けていた。

相手は「こら」だの「やめておけ」だのと言って制止しているつもりらしいが、何者もあくなき探究心には勝利できない。己もまた、その限りだった。近寄った感覚、特に痛みも感じないからと、すっかり油断していたのもある。
またそわそわとしながら、ついうっかり。彼の、その手元のすぐ横へ。迂闊にも、にゅっと顔を突き出してしまった。


「あ、おい……」

「……ん…む…? ………あああっ!」


向こうがあっと言った時には、もう遅かった。
最初の一瞬は、鼻がむずむずするなあと、その程度だった。だが、次の刹那。つんとする鼻腔の奥と共に、眼球へぴりぴりとした痛み。途端、瞼も開けられなくなった。


「だから止せと言ったのに……」


これ見よがしな嘆息にも、構っている暇はない。
何とか玉葱から離れようともがいてみるも、開かない目では卓に足をぶつけるのがせいぜいだ。
蹲って、生理涙を流しながらうーうーと唸る。


「大丈夫か」

「……もう駄目だ…」

「軟弱な…」


しばらく泣き続けて、ようやく瞼は上がるようになった。
しょぼしょぼとする目で見上げた先、相手は涼しい顔で催涙兵器を切り刻んでいる。化け物か。


「……な、なんでおまえは平気なんだ…ペル…」

「こんなもの、慣れだ」

「…ば、化け物……」


失敬な、と言いつつ笑う声を睨めつける。馬鹿にしやがって。
しかしながら、玉葱にやられた眼は真っ赤でだらだら涙を流している。やはり、凄みもなにもありはしない。
歪む視界の向こうで、奴の口元が吊り上がっている気がした。実に腹立たしいことだ。

じりじりとまた後退して、同じ距離だけ離れた。ふふんと吐息で笑う声。一人、みっともない面で憤慨する。


「……あ、そうだ、暇なら葉野菜を千切ってくれ」


むすっと椅子に座っていると、水滴の付いた萵苣の玉と皿を渡される。
良いように使われているようで癪だが、これで手持ち無沙汰は解消できるだろう。不機嫌も吹っ飛び、張り切って葉の一枚一枚をひっぺがす。だが、これはこれでなかなか難しかった。


「……む…んん…」


球状に重なる葉を、根元から綺麗に千切り取るのが困難なのだ。必ず、根元よりだいぶ上の位置でぽっきりと折れてしまう。繰り返した結果、根元の部分だけが不自然に分厚い玉と、尾切れのような葉が何枚も。
仕方なく根元も毟れば、手元には柔らかすぎる部分と、芯に近い部分とで完全に分離された無残な端切れ。またやってしまったと焦りつつ、前方の広い背中をちらりと見遣る。向こうは気付いた様子もなく、まだ玉葱を切っていた。

まあ何とかなるだろうと、言われた通りに毟った葉の一枚一枚を裂いて千切る。裂いて千切る。裂いて千切る。その繰り返し。
玉葱を切り終えたらしい相手が、皿へ薄切れを落として振り返った。そしてちらりと、こちらの経過を見て。


「こら! 細かく千切りすぎだ…!」


また怒られた。
首を竦めれば、聞き飽きた嘆息。白い指が、皿の上の葉切れを摘まむ。手の平の部分の、半分よりやや狭い面積。


「こんなに小さくしてしまったら……大きさが足りないじゃないか…」

「…あ、そうか」


ついつい夢中になって、用途を忘れていた。
悪い悪いと平謝れば、気をつけろと釘を刺される。次からは、ちゃんと相応しい大きさに千切ろうと決意し見遣った先。
玉の殆どは既に毟り取られ、細切れにされていた。己によって。もはや、取り返しはつかない。大変残念ながら。
…まあ、なんとかなるだろう。

残りの僅かな葉を慎重に千切っていると、己の目前。卓上へと置かれていた包みが持ち上げられた。また、ふわりと、香ばしい肉の良い匂いがする。
油紙を緩く縛っていた草紐が解かれ、きつね色の焼き目の付いた鶏肉が姿を現す。まな板の上へとそれが置かれると同時、たまらず手の中の葉をうっちゃり、彼の背後へ戻ってきてしまった。


「……こら」


聞き分けのない畜生を宥めるような口調で、相手はそわそわと身動きするこちらを牽制する。
声を掛けられれば、慌てて背筋を正すものの。数秒もすれば、かぐわしい香りに夢中になってしまう。
板の上の薄切り肉は、元々鶏の丸々一匹が回し焼きされていたものだ。王都の市などでも、よく目にする光景である。大抵、塩と香辛料で味付けされていた。店の者に頼めば、必要なだけを薄く切り落として渡してくれる。

大人の手のひら一つ分くらいはある、そんな鶏の肉片。彼は変わらぬ慣れた手付きで、所々焦げ目の付いた皮の上へと刃を滑らせた。
…少しだけ、勿体無いなと思う。この大きさの肉を丸々頬張ることができれば、それはどんなに素晴らしいことだろうか。夢想しても詮無きことである。

程よい大きさに切られてゆく肉片たちを眺めつ、またそわそわとしていれば。相手はちらりとこちらを見て、言う。


「…ほら、口開けろ」


お、もしやと言われるままにすれば、ぽんと鶏の端切れを放り込まれた。やっぱりだ。
まだ温かいそれ。香辛料はちりちりと舌先を刺激し、焦げ目はぱりぱりと香ばしく、肉はしっとりと旨い。
もちゃもちゃと機嫌良く食べていれば、向こうはちらりと笑って全てを切り終えた。

皿の上。今まで用意した野菜たちの中へ、鶏肉が加わる。材料は揃った。いよいよ仕上げだ。
ペルが向こうから、深皿を持ってくる。同時に、己は卓上の包みから薄焼きパンの束を取り出した。


「匙と皿、取ってくれ」

「わかった」


指示された通りに、棚から木匙二つと小皿二つ、大皿一つを取り出す。両手に抱えて卓へと戻れば、相手は深皿の中身を緩くかき混ぜていた。


「持ってきたぞ」

「よし、じゃあ始めるか」


お互い隣り合って座り、手前に空の小皿を。互いの間に大皿と、色鮮やかな野菜や肉の乗った皿、それから深皿を置く。

深皿の中には、とろりとした乳白色の液体が入っていた。鼻を近づければ、酸味を含んだ爽やかな香りと、独特の大蒜の香り。擦り下ろした大蒜と檸檬の果汁に、油を少し加えて混ぜ、そこへ卵白を加えてさらに泡立てた特製のたれだ。胡椒と塩で味が付けてある。
それに匙を二本突っ込むと、私たちは小皿の上へ薄焼きパンを広げた。表面のすべすべとした、ごく薄い楕円状。まだ温かい。摘まんで持ち上げれば、くたりと垂れ下がる。まるで布のようだ。

用意が完了すれば、深皿の中の匙を手に取る。


「…くれぐれも、塗りすぎるなよ」

「分かってるよ」


相手に念押しされて、こちらは肩を竦めた。
一匙分と少し、たれを取ってパンの中央へ垂らす。そこから正円を描くようにして、隙間なく塗りこめるのだ。とは言え、均等にたれを塗り広げるのはなかなか骨が折れる。
ちらりと横を見れば、向こうは何の障害も無さそうに、滑らかな手付きで作業している。器用な男め。


「……塗りすぎだ。水浸しじゃないか…」


時折、ちらりとこちらを見遣って文句を付けてくる。
注意されたように、慎重に慎重に塗っているつもりなのだが。几帳面な奴のお眼鏡には適わないらしく、よく横から匙が伸びてきて、こちらのパンの上のたれを掬い取ってゆく。


「別にいいじゃないか…」

「良くない。これじゃあ飛び出してしまうだろうが…」


ぶつくさと言い合いながら、一枚目を塗り終えた。
次は、具材を載せる。最初に敷く葉野菜は己が細かく千切りすぎたので、タイル画のようにこまこまと敷き詰め、繋ぎ合わせてゆかなくてはならない。隣でわざとらしい嘆息が吐かれたが、無視をした。
葉を載せたら、玉葱。それから鶏肉。トマトを被せて、上から胡瓜の酢漬けを並べる。

今度は「載せすぎるなよ」と注意され、慎重にやったつもりだが。


「肉を載せすぎだ」

「いいじゃないか」

「良くない。包めなくなるだろう…」


また、同じ遣り取り。やはり、載せた具材は奪い取られる。
そんなこんなで具材を載せ終えれば、あとは包んで完成だ。

パンの両端を少し折り曲げて、具材ごとくるくると巻く。巻き終える手前で上下も折り、中身の飛び出さないように円柱状に整える。そうすれば、薄焼きパンの包みものの出来上がりだ。
…それにしても。


「はは、相変わらず不恰好なのを作るな」

「…嫌味な奴め……」


ペルのそれは、つんと澄ましたような完璧な形なのに。己のそれは、何だか太いしよれている。奴と私で、何が違うというのか。
むすっとしつつも、完成品を大皿の上に置く。二人合わせて、まずは二個。休まず次を作るべく、また小皿の上へとパンを載せた。

そうして、黙々と先ほどの工程を繰り返す。

つまみ食いをして怒られたりしながらも、数十分もすれば。大皿の上には、包みの山が出来た。具材も程よく捌けて、パンもお終いになる。
積み上がったものを眺め、達成感でふんと息を吐く己の横、相手は用済みの皿を片付け始めた。


「…あとは…飲み物か」


流しへ陶器を下げると、彼は薬缶を取り出し茶を沸かす。
こちらへ背を向ける奴が、茶葉に気を取られている隙。こっそりと、大皿の上。己の作った不恰好なそれを一つ、そっと抜き取り、ばくりと齧った。


「……あっ…こら!」


きっと振り返った相手から、途端に叱責が飛ぶ。
気付かれないように気をつけたつもりが、胡瓜の酢漬けをぼりぼり噛み砕く音でばれてしまったらしい。


「がめつい女め…油断も隙もないな…」


ぴいぴいと沸いた薬缶へ茶葉を放りながら、ねちねちと嫌味を言われる。度量の小さい男だ。

こちらは素知らぬ顔で包みものを咀嚼し続ける。


「無くなってしまうだろうが…」

「これひとつだけだ」


半分ほどの大きさに減った包みをぱくつきながら、もごもごと応える。
新鮮な野菜の歯応えが楽しい。切る時は散々苦しめられた玉葱は、しかし程良い薄さのお陰で甘みと辛みの両方を兼ねていた。トマトはぷちぷちと甘酸っぱく、小さくしすぎた葉野菜もちゃんと存在感がある。濃厚でありながら、臭みは香辛料で消されている鶏肉。少し冷めてしまったが、それでもなお香ばしく、美味である。こってりとした肉の後味は、こりこりとした酢漬けと爽やかな檸檬の果汁の酸味で中和されていた。


「わるくないあじだ」


機嫌良く口いっぱいに頬張れば、聞き飽きた嘆息。
相手は色の出た茶を薬缶から出して、別容器へ注いで冷ます。そのまま、隣の椅子に座った。

しかしながら。
載せすぎるなという忠告はこのためであったかと、食べれば食べるほど圧力で飛び出してくる具材を眺めながら思った。
気にせず、出た分は引き抜きながら咀嚼する。
さらに半分ほど腹に収め、それでも未だ幾らかの大きさのあるものを、一気に口へ押し込んだ。頬が押されて、ぷくりと膨らむ。


「行儀の悪い……」


呆れられるも、返事もせずに夢中で食べていれば、隣から破裂音。
何事かと見遣れば、相手は口を抑え、肩を震わせていた。笑っている。さっきのあれは、吹き出してむせた音か。
何がそんなに面白いのかと、眉根を寄せる。あちらはとうとう大笑いしながら、こちらの食物で膨らんだ頬を突ついた。


「……今度は…砂鼠みたいだな」


ぶにぶにと何度も頬を弄られ、己は憤慨する。
だが罵ろうにも、口がいっぱいで喋れない。「んん」だの意味をなさない母音だのを発しながら、ぶんぶん首を振ってしつこい男を振りほどいた。
ややあって、ようやくごくんと口の中のものを飲み込む。


「……なにをする…!」


白皙の上。青紫の口元は、依然笑っていた。
じろりと睨め付けてやれば、向こうは節くれた指の腹でこちらの口の端を擦る。


「んん?」

「ついてるぞ」


相手が翳した指の先には、件のたれが付いていた。

おやこれは勿体無いと、ぱくりとそれを口に含む。
ごつごつとしたものがぴくりと動き、硬い部分が口蓋の粘膜に触れた。爪の甲だろうか。構わずちゅうと吸い付き、塩味の強いたれを舐め取って唇を離す。しょっぱい。


「………なっ…!」

「んん、やっぱり悪くないな」


一人、満足してふふんと笑った。
大皿の上の小山を平らげる瞬間が楽しみで、わくわくとする。

続く沈黙に、同意を求めてくるりと横を見れば。


「……………」


普段は白い、白亜のような肌。
何処か憮然としたような。むすっと怒っているような。
そんな顔をして、血色は妙に赤い。酒が入った時のようだ。
怪訝に首を傾げれば、相手はちらりとこちらを一瞥し。


「………愚鈍な…」


手のひらで赤くなった顔を抑えて、何事かをぶつぶつ呟いている。
不気味だ。
困惑してこちらが眉を顰めても、気付きやしない。


「…おい、ペル……」


声を掛け、つんつん腕を突つく。そうすれば、疲れたような目で視線を寄越した。


「なあ、早く行こうよ。せっかく作ったのに、これじゃあ日が沈んでしまう」

「……あのな…」


何事か言い掛け、彼は口を噤む。そうして、やっぱり疲れたように頷いた。


「……そうだったな」

「うん、じゃあ、籠を取ってくるよ」


立ち上がって流しへ向かう相手を見届けて、己は居間へ物を取りに行く。目当ての物を持って台所へ戻れば、手に水袋を二つ持ったペル。中身は、冷ました茶だ。
一抱えはある、藤細工の籠。埃は今日この日のために、念入りに払ってあった。
そう、ずっと楽しみにしていたのだ。思わず、顔が綻ぶ。こちらの顔を見て、彼も少し笑った。
手のひらが、己の頭に載る。今までのように振り払ってやっても良かったが、気分が良かったので好きにさせた。
さらさらと、指が髪を梳く。


「遠足の前の子供のようだな」

「なに、遠足みたいなものじゃないか」


白い指が、白い布を掴む。それはふわりと、大皿の上へと被せられた。白い小山が、こんもりと見える。
それを、傾けないようにそうっと持ち上げれば、相手は籠の口を開く。そうっと、そうっと。編み目の固い一番底へ、皿を下ろした。
彼が皮の水筒を手に取る。中身と重ならないように、隙間を上手く見つけて二つ、籠の中へと収めた。
ちょっと持ち上げてみれば、ずっしりと重たい。

最後に、覆いの布をもう一枚上から被せて。



『じゃあ、行こうか』



私たちは、微笑みあった。





****





空は何処までも澄み渡っていた。真円の太陽が、頭上で絢爛として燃える。それでも、大気は爽やかな風で満ちていた。
現在は、雨季が終わったばかりの播種期。いい季節だ。

見下ろす大地はうんと遠く、家々は玩具のよう。薄くたなびく雲が、近い。


「気持ちがいいな」

「うん!良い天気だ!」


広くて大きな背中に、両足を畳んで座っている。
相手の…巨大な猛禽の、その首元。ぺたりと突いた両手の間には、食べ物の入った藤籠を抱えていた。落としたり、傾けたりしないように気をつけながら。
体を支える手のひらには、柔らかな羽毛の感触。もふもふと遊んでいれば、くすぐったそうに笑われる。風が己の髪を捲き上げ、後方へなびかせた。

王都の外れ。ペルが飛ぶ眼下、広がる一面の農地は鮮やかな緑色をしている。
雨季の終わりと同時に種を撒かれた、まだ若い麦だ。もう数月もすれば、眩いばかりの金色に変わる。豊かな、命の実り。

陽光と風とに目を細めながら、小さく笑んだ。


「どの辺りにしようか」

「おまえに任せる!」


風の音に遮られるので、答える声は自然大きくなる。吐息で笑う音。分かったと返して、彼は大きく旋回を始めた。昼食を摂る場所を探している。

久方ぶりに、互いの非番がぴったりと重なった日。二人で遠出をしてみようと決めて、ずっと楽しみにしていた。
また、口元が緩む。浮き立つ胸でぎゅっと籠を抱えれば、下から低い声。


「振り回すなよ」

「そんなこと、するわけないだろ!」


うんと幼い子供に言うように念押しされ、むっとする。
口を開いて反発すれば、風がぼわぼわと頬を膨らませた。負けじと声を張り上げる。


「…昔、おれとチャカの弁当を預かったおまえが走り回ったせいで、散々な昼飯を食った覚えがあるんだが」

「……あ、あれとこれとは関係ないだろう!」


十年以上も過去の話を持ち出してきた相手に、動揺しながら首を振った。どうしてそんなことを覚えているんだ。


「……どうだか…」


信用しかねるとばかり、嘆息するペルが恨めしい。
もう子供じゃないんだから、弁当片手に飛び跳ねたりなんてしないのに。


「おまえの方こそ、気を付けて飛べよ!」

「はいはい…」


ははん、だか、へへんだか。相手は鼻で笑って、こちらを馬鹿にする。
羽根でも毟ってやりたかったが、こんな上空で振り落とされてはたまらない。ただきいきいと憤慨しながら、彼の背中で風に吹かれていた。
くすくすと、笑う声。そんなに人を揶揄うのが楽しいか。


「あそこにしよう」


空は高く青く、地は柔らかな緑に包まれていた。
平和な、平和な、昼下がり。

下降を始めた恋人の背中で、ひとつ息を吐き。私もまた、微笑んだ。




(揺らめく麦穂の合間へ)





****

ふたりでピクニックへ行くおはなしでした。
ペルさんはそのうちピクルスとか自作し始めると思う。
クレープ的サンドイッチはシャワルマという中東ファーストフードがモデルです。



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