蜜の色は黄金か

昇り始めた朝日は既にぎらぎらと輝き、外宮の賜屋への道のりは気怠かった。
のろのろとした足取りは、緩慢に影法師を動かす。今朝は、夜勤明けで一睡もしていない。


ようやく帰り着いた邸の扉を開ければ、ふわりとやわらかなにおいがした。
ひとり首を傾げる合間に、奥からぱたぱた足音がやって来る。

ややあって、ひょこりと顔を覗かせた女へ。挨拶のように寄せた唇には、べたっとした違和感。


「……ん?」


口を離すと、恋人は罰の悪そうな顔をした。
己の唇を舐めてみれば、甘い味と。太陽にも似た香り。


「…蜂蜜?」


聞けば、やっぱり気まずそうに頷く。


「貰ったんだ、何処かの宮で蜜蜂が巣を作ってしまったらしくて……」


そう言いながら、相手はぺろりぺろりと自分の唇を舐めた。
外光を遮った薄暗がりの中。その舌先の色は、ぽてりと赤い。


「…それで、舐めてたのか。蜂蜜を」

「………おいしそうだったから…つい…」


相変わらず、子供のようなことをする。
こちらの顔色を見て、向こうはうろうろと視線を泳がせ。くるりと、踵を返した。


「まあ、突っ立ってないで、入ったらどうだ?」


ぱたぱたぱた。
来た時よりも幾分早い逃げ足に、顔を顰めるべきか苦笑すべきか、逡巡する。そんなどうでもいいことで悩む程度には、眠たい。
普段なら二三軽口を言い合う間隙は、足音と嘆息が代わりに埋めた。


「珈琲ならあるけど、飲むか?」

「うん、くれ」


仕切りの向こうへ消えた背中を追って、足を進める。居間に入れば、途端に濃く香る、蜜のにおい。
卓の上を見やれば、大口瓶の中。とろりと収まる黄金色。


「結構な量だな」

「巣が馬鹿みたいに大きくて、これでもほんの少しなんだって。目立たない所に巣食ってたから、誰も気がつかなかったらしい。…何処にあったと思う?」

「……さあ」

「屋根裏だって。巣が大きくなり過ぎて、天井裏から蜂蜜が垂れてきていたらしい。天井の染みに気付いた時には、内梁が全部蜂の巣になってて、蟻塚みたいだったって」


…そんな詳細な情報は要らなかった。

噎せ返るような甘ったるい香り。ぶんぶんと地鳴りのように響く、何万もの蜜蜂の羽音。薄暗い空間を、ぼこぼこと奇怪に覆う六角の集合体。
想像するだけで、悪夢に出そうな光景だ。

顔を顰めても、ちらりと振り返った相手は素知らぬ顔をする。その手元で、陶器の器が湯気を立てていた。


「ん」

「…ありがとう」


目前に置かれた黒茶の液体を啜れど、疲弊した脳には苦味しか分からない。唯一、煎られた豆の香りだけは鼻腔へ届く。
だがその中にも、部屋に漂うそれと同じ、蜜のにおいが混じっていた。

ぼんやりと視線を遣れば、蓋の空いたままの瓶の周り。卓上には点々と、艶めく残滓が落ちている。
誤魔化すように、長い指が台拭きを摘まんで拭い取った。


「……おいしそうだったから…」


どさりと横に座った恋人は、また同じ言い訳をする。
だが懲りてはいない様子で、その手の中には小匙があった。


「おまえも舐めてみればいいのに」


腕は、硝子容器へ伸ばされる。
銀がなめらかに滑って、隙間のない黄金の海に沈んだ。とぷんという音すらしない、蜜の濃さ。
硝子を挟んで眺める液体の中で、匙は鈍色じみて泳いでいる。ほんの、一瞬の遊泳。

瞬きをする間に、それは引き上げられた。するすると、緩慢に波紋を作りながら。匙から溢れ滴る蜜は、黄金色の海へと戻る。密度の濃さは、重力に抗う液面の膨らみから見て取れた。

水平になるように支えているのは、彼女の手。
節くれて、筋張った。それでも確かな嫋やかさは、女人のもの。
…その腰を引く代わりに、己がゆるりと身を寄せる。


「馬鹿、」


胴に回した腕のせいで、体幹が揺れたのか。匙の平衡は失われ、丁度よく掬い取れたところだったらしい蜜が、瓶の中へ落ちていく。
じろりと一瞬こちらを睨んで、相手はまた瓶へと目を遣った。再び、銀色は蜜を潜る。
今度は彼女の顔を眺めた。匙から滴る蜜を眺める眼差しは、滑稽なまでに真剣だ。


「…………」


慎重に上下させ、上手く蜜を乗せた匙は、ようやく卓の上を飛ぶ。こぼさないように、ゆっくりと。
躊躇なく、掬った蜜を自分の口へ運ぼうとする相手に苦笑した。相変わらずだ。


「……なあ、」


耳元へ声を掛ければ、その手はぴたりと止まる。
敢えて悪戯心を起こす程度の気力は、残っていた。合致した視線に笑って、あ、と口を開ける。


「……しょうがない…」


向こうは何秒か迷って、やがて渋々と匙をこちらへ向けた。
もう一度口を開いて見せれば、如何にも面倒臭そうに手ずから口内へ。ふふんと笑えば、あちらは対照して不服そうだ。

彼女の匙を咥えていられたのはほんの一瞬で、次の刹那には抜き取られる。ひやりとした金属と、生ぬるい蜜の温度。
唇と口腔に触れたそれらは、途端にどろりと、甘ったるく変質した。
鈍った味覚に、甘みだけがずるずると拡散する。


「……甘いな」

「そんなの、当たり前だろ」


卓に匙を置いて、相手はつれなく無表情だ。
こちらはやはり苦く笑う。胴にあった腕を腰元まで滑らせて、引き寄せれば。気怠そうにこちらを見た。


「早く寝ろよ」

「ああ、うん、すぐに……」


重たい粘度の、甘ったるい蜂蜜のような。疲労と睡魔と、それから……

二度目の口付けと同時、今度はこちらの唇の蜜が音を立てる。構わず相手の顎を引けば、諦めたように口が開く。
花と花粉と蜜の味。

口腔にある互いの甘さが重なって、まじりあって。やがて境界も分からなくなった。










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【怪談】

給仕のTさん談.今は閉ざされている離宮の一つに、時たま掃除へ行くTさん。そこへ行くと、最近耳鳴りがする。始めはただの空耳だと思ったが、日に日に音は大きくなる。それも、その宮のある場所へ行った時だけ……同僚に話したところ、彼女も同じ体験をしたそう。天井に人型のしみが出来ているのを見た人もいるとの話だった。近ごろ、あそこには"出る"との噂が立っているらしい……真相を究明すべく、Tさんは給仕たちを連れてそこへ乗り込んだ。天井には、確かに大きく不気味なしみが点々と広がっている。Tさんは怯える給仕たちをなだめ、とうとう天井板を剥がしはじめた。……すると、そこには………天井裏を覆い尽くす、巨大な蜜蜂の巣が……
明日の献立は、蜂の子の蜜煮だという……



一番はしゃぐのはコブラ様では。山と積まれた巣に大喜びして「みつろうケーキ!」とか言いながら蜜蝋ごとはちみつをむしゃむしゃして怒られそう。蜂の子ほじくり出して生でもぐもぐして大顰蹙も買いそう。



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