後にも先にも

時折、うんと胸がむず痒くなって、痺れたように息が苦しい。


例えば、ふと回廊の先にその横顔を見つけた時。
職務の立て続け、寝不足の夜にぽんと頭に乗せられた手があたたかい、そんな当たり前のことを噛み締める時。

想いはじわじわと滲んで、始末に負えない。
小娘染みたこの心地は、もう長いこと己の体に住み着き、離れてはくれないのだ。


「………青臭い」


高鳴りの鼓動のような、息を継げない水中のような。
十代の少女でもあるまいに、その感慨は今なお己を締め付けている。

惚れた腫れたと周囲が騒ぐのを、ひとり冷え切って眺めていた少女の頃。
二十も過ぎれば、もう所帯を持てと煩く言われる中。
日々に疲れてぷらぷらと、友の曰くは『干からびている』らしい日常を漂っていた。
つい、数月前までは。


(……馬鹿だなあ)


ころっと、落ちてしまった。
此処へ至るまでの、今となっては余りに小っ恥ずかしい経緯を思い出し、思わず頭を抱えたくなる。

ぴくっと揺れた自らの腕は、しかし自由にならない。
あたたかで、筋張った手に捕まえられて、動かせない。


(………ほんとうに、馬鹿だ)


目の前で呑気に寝息を立てる白皙の男をちらりと見遣って、はあと嘆息する。
苦く苦く吐いたつもりなのに、最後には甘やかな痺れが残った。
元より胸襟の中で疼いていたそれは、夜明け前の空気に素肌を晒し。ひんやりとする身に、血を巡らせる。

つと体を捩ってみれば。肌を寄せ合う相手は少し呻き、眉根を顰めて己を手繰り寄せた。
しばらく大人しくしていてやれば、安心したように顔を緩ませ。一層互いの隙間を埋める。
だらしない笑みを浮かべる相手は、始終すやすや寝入っていた。
無意識下でこの男の抱き枕に定められているらしい己は、むっと顰めっ面を作る。

胸にはまた、締め付けられるような。それでいて甘い、あの感覚。

私もまた、眠ればあんな風に不甲斐ない様相なのだろうか。
そう思えば情けなくて。…まして、それをこの男に見られでもしたら。
身体中で暴れ回る感情に、己は強いて蓋をする。


「………馬鹿らしい…」


また嘆息して、相手の腕の中。
当てつけのように無理矢理、ぐりんと体を回転させ、阿呆面から目を背ける。
背後で男がまた呻いて、その白い手を回してきた。
腰を引き寄せるそれを、よっぽど抓ってやろうかとも思ったが、起きられるとそれはそれでまた面倒なので放って置く。
寝台の上をずりずりと相手が身動きし、とうとう背面はぴったりその胸板と触れ合った。


あたたかい、この男の。
初めて想い焦がれた、初めてそれを求めた、恋人の体温。


(………何てことだ)


ああ、情愛というものの、なんと扱いづらく厄介なことであろうか。

胸にちくちくと襲いかかるこの針の、なんと執念深いことか。この毒の、なんと強烈なことか。
いつまでもいつまでも、じわりじわりと滲み続けるこの感情は。


(………この馬鹿のように愚直になれれば、どんなに楽だろうか)


眠る男の視線を恐れるような己には、到底無理な話だ。
紅く血の上った頬を隠しながら、私は三たび嘆息する。


「……おまえは、気楽で良いな…ペル…」


むにゃむにゃと眠りこける間抜けな相手は、声に気が付くこともなく。
ただ腑抜けて穏やかな寝息を、己の首筋にそよがせるばかりであった。





(ただひとり、おまえだけ)




****

まだ日の浅い二人。



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