辺りは一面のオレンジ色。お日様は西の海へ帰ってねんねのお時間。
たぷたぷ揺らめく海面も、今や朱色にきらきらしてる。誰かさんの髪の毛みたい。
「ドレークー! ご飯だって!」
たたっと甲板を走り抜けて、木のドアへ体当たり。べきっという嫌な音。板と私の腕、どっちが鳴ったのかしら? すごく痛い。
外は西陽で眩しいくらいだったから、雪崩れ込んだ部屋の中は薄暗く見えた。なんだか陰気な感じ。
「……ノックをしろ」
不機嫌そうな声のあと、ぱちんと何かが閉まる音。
きょろきょろすれば、机の前に彼の姿。大きな手のひらが、その引き出しからさっと離れる。
「なにしてたの?」
「……何の用だ」
「もうすぐご飯だって!」
質問には答えてもらえない。だから要件を言ってあげれば、少し頷いてひらひら手を振ってくる。さっさと消えろと言わんばかりに。いつものこと。
「今日はごちそうかな!」
だからいつものように、構わず机へ突進する。そのまま、おっきな背中へ体当たり。肋骨に深刻なダメージを食らった。すごく痛い。
うーうーと唸りながら。それでも太い首へぎゅーっとしがみつく。すかさず相手はこの腕を掴んで、僅かな隙間を作った。気道が圧迫される前に。やっぱりいつものこと。
今日はおまけで、胸をぐりぐり押し付けてあげて。後ろから顔を覗き込む。
「……何の真似だ」
「バースデーサービス!」
案の定なんの反応も貰えず、つまらなくってちょっとむくれた。
だからついでに、ほっぺたにちゅっちゅっとキスをあげる。うざったそうに振り払われた。これもまたいつものこと。
「なんでそんなに不機嫌なのー? せっかくの日なのに! もっとハッピーな顔しようよ!」
「………もうそんな歳じゃない」
相変わらずの仏頂面で、むすっとしてる。
つまらない!
むーっとほっぺたを膨らませながら、彼にのしかかった。けれど、いつものようにその空気をぶーっと潰してもくれない。
ちらりと顔を見れば、無表情の中。なんだかくらーい雰囲気。なにをそんなに沈んでるのかしら。
きょろきょろした先、机の上には海図とペン。ずあっと引き出しへ手を伸ばせば、即座にがしりと掴まれた。
「いたい!折れる!離してー!」
ぎゃあぎゃあ騒げば、ややあって解放される。ドアにぶつけたところだから、ダメージは二倍。すっごく痛い。
「ひどい!加減してよ!」
「…………」
涙目になって睨みつければ、無言で目を逸らされた。
あれっ、いつもなら「自業自得だ」とか言ってくるのに……
「…どうしたの?」
「………別に」
ちょっと真顔になって聞いても、首を振られるだけ。やっぱりおかしい。
氷色の視線の先には……あの引き出しがあった。
「ふーん」
……少しだけ揺れる、つめたい青の眼差し。
それへ適当に返事をして、すぐ近くのもみあげをわしゃわしゃといじくった。
ほっぺに指を滑らせて、いたずらすれば。ぱっと手を掴まれる。今度はちゃんと力加減されていた。
「くすぐったかった?」
「…………」
「ごめんねー」
口ではそう言いながら、耳元にふーふー息を掛けてみる。……三秒くらいで、顔をぐわしと鷲掴みされた。
「………ふざけるな」
「……ごめんなふぁい」
頬にめり込む指のせいで、唇がたらこみたいに飛び出す。おじいちゃんみたくもごもごと謝れば、溜息の音。
さっさと出て行けと……また手で追い払われた。
「なんでー!ひどい!」
「……鬱陶しい」
薄青の視線はもう……机へ向いてはいない。
そのことにちょっと安心しながら、けれどもおどけて見せる。
「可愛いハニーが! 一生懸命かまって攻撃してるのに! この甲斐性なし!!」
「……自分で言うな」
何を言ってもぜんぜん響かない。いつものこと。
相変わらず、つれなーいひと。
なんだかちょっと寂しくなって、また首元にぎゅうぎゅう抱きつく。既に気道確保はばっちりなドレークが……また嘆息した。
「……なに悩んでるのー?」
「…………」
「そんな沈んでどうしたのー?」
「…………」
聞けば、無言で首を振られた。
アイスブルーはそっと瞑られて、白い蓋に覆われている。
……とおい故郷の、波間で生まれる氷のような。時折ゆらりと動くそれに、目蓋はぴくりと震えた。
……あの引き出しの中に、何が入っているのか。知ってる。
けれども黙って、知らないふりをしてあげるの。わたしはいい女だから。
「……ドリィ」
彼はいつでも色んなものに苛まれていた。……特に、こんな日は。
「その名で呼ぶな」
刹那に燃え上がる……氷の色。
つめたい焔のような視線。それが、きっとこちらを睨め付けた。氷柱で刺し抜くように、冷気で灼き殺すように。
「……ごめんね、ドレーク」
「…………」
彼は……その名を愛称で呼ばせてはくれない。……特に、わたしへはそれを強要する。
ちょっと気分で呼んでみれば、いつもこんな風に睨まれた。ちっちゃな子供の時からそう。
……そんな自分は……わたしのことをシルヴィーって呼ぶのに。
(……理不尽なひと…)
子供の頃からそうなの。
自分の譲れないことは絶対に許せない。周囲のそれすら認められない。
相手の距離が近ければ、近いほど……その、わがままみたいな何かを強いる。
……無意識らしいこの支配性を、本人はとても厭うているのだけれども。
それでもやっぱり……捨て去れないでいる。
(不器用なひと……)
でもいいの。
このひとの理不尽さも、身勝手さも、わがままも。ぜんぶひっくるめて許してあげるの。愛してるから。構いやしないよ。
……それに、いい女はぎゃあぎゃあ騒がないものだもの。そっと笑いながら、いつまでも寄り添ってあげるんだから。
……あの時、ふたりで約束したみたいにね。
「ドレーク」
「………」
「好きだよ」
「………」
囁き声に返ってくるのは、いつだって沈黙ばかりで。
(おばかなひと……)
たいせつななにかを口に出してしまえば、音にしてしまえば。
……それが途端に時を失い、消えてしまうと。
そう、頑なに盲信している……この愚かしさ。だから、いつだってあの口は閉ざされている。
繰り返し囁かれる言葉を良しとせず、ただただ安価と切り捨てる。音へ変われば、途端に壊れてしまうと……そう、信じ切って。
世界の有限性に子供のように怯えて、けれども平気な風に強がっている。
おろかなひと。
開けもしない宝箱へ、たいせつにたいせつにしまい込んだって。……変わらないものなんてないんだから。移ろわないものなんてないんだから。
……大事に握っているだけじゃあ、いつか腐って砕けて消えちゃうのに。
「ドレーク」
このひとは。
そんなことにも気がつけない、お馬鹿さんだから。
……だから、わたしは幾らでも。このひとの嫌う安っぽさに甘んじてあげるの。
囁きを忘れてしまった、このへの字の口の代わりに。
「ドレーク、大好き」
「…………」
「愛してるよ」
「…………」
「この世界の何よりも好き、大好き」
「…………軽々しく…」
そんなことを口にするな。
ほら、やっぱりこう言うの。素直じゃないひと。
うんと強くて動じないふりをして。けれども内心、すっかり震え上がっている。いつか、手の内のものが消えちゃうんじゃないかって。
そうやって、必死に何かを守ろうとしている。実は、緩やかに握り潰していることに……少しも自覚がない。
めんどくさい男!
がんじがらめに身体を縛る、あらゆる鎖に抗えないんだ。
「ドレーク、あのね、」
だったら、そんなの。
はじめっから壊してしまえばいいの。
「あなたの、その偏屈そうな口元が好き」
あの、彼の机の引き出しの中。一番奥に丸められているのは……古びた紙切れだ。
……そこに、あの男の姿はある。
「抱きついた時の硬さが好き」
彼とよく似ていて。
でも、似ても似つかぬ男が醜悪に笑っている。
「綺麗な目の色がいとおしいの」
とっくのとうに死んだくせに。今なお彼を縛り続ける男。
血の鎖のみではない。あらゆるものを束縛している。
「西へ沈むお日様よりも、ずうっとあなたの髪色が好き」
……束縛されるのを、分かっていて。
分かっていて、それでも。彼はその紙切れを……未だ、手放せないでいる。
「その、不器用なところが好き」
……ばかなひと。
そう、笑って……あの紙切れを破り捨ててしまうのは、簡単なことだけれども。
「情けないあなたをあいしてる」
……まだ、待っていてあげるよ。
わたしはいい女だから。
「あなたに会えて、よかった…」
鶺鴒のようだって、そう……
一度だけ、この声が呟いたことがある。それがどんな鳥かは知らないけれども。
……でも、彼が言うんだから。わたしのささやく、そのすべてはきっと……愛を囀る鶺鴒のうた。彼にはどう聞こえているんだろう。
……それを知ることはできないけれど。
だからわたしは、わたしのすべてをさえずりで歌う。
「ドレーク。………ありがとう」
このひとは。
この世界へ、たったひとりきりで。けれども必死に生まれてきてくれて。
今、この瞬間。こうしてここにいてくれて。
わたしをここへ連れ出してくれて。世界の広さを教えてくれて。
「……シルヴィー」
「……いなければよかっただなんて、思わないで……」
あなたがいてくれる、だからこそ。
……この世界は、こんなに綺麗なんだから。
首筋にうずめた顔で、胸いっぱいに彼の匂いを吸い込む。
少し低めだけれども……あたたかな体温。時折動く筋肉のうねり。……鼓動のおと。
それらが確かに存在するのが…うれしくて。……らしくもなく、声はちょっと震える。
「シルヴィー、」
名前を呼ばれて。けれども、後に言葉は続かない。
途切れ途切れの、その吐息がせつなくて。……それでも、いとおしい。
ぎゅっとしがみつく身体が、くるりと回転し。気が付けば向かい合わせ。そっと背中に回された手は……大きくてあたたかい。
「ドレーク……」
……まるで、暗い海底の二枚貝のように。年月を経るにつれ、硬く堅く噛み合わさって。
とうとう離れなくなってしまった……その、かなしい口蓋。
「…………」
……けれども、この背中へ。
不器用に触れた腕は……何よりも雄弁で。
「あなたのぜんぶがだいすき」
囁きに……言葉が返ってくることはない。
けれど、それで良いの。そんな彼を愛しているから。
そうして、この氷色の沈黙はいつだって。確かな情愛を示してくれるから。
それに、なにより!
わたしはもう、最高の
指輪を貰っているんだもの!
「お誕生日、おめでとう!」
「………ああ」
彼には二度のそれがある。
一度目は、この世に生まれ落ちた日。二度目は、その背に赤旗を背負った日。
……そうして、三度目があるならば。
(……そのとき…きっとあなたは自由になれる……)
だから……その日が来たら。
彼はきっと、ついに引き出しの奥を開け放つ。あの紙切れを、明るい陽光の下へ当てる。そうして、元気良く二つに破いてしまうだろう。
そうしたら、半分になったそれを片っぽ分けてもらって。彼とわたしの二人、子供の頃みたいに競って……戯れのように細かくしてしまおう。うんと、うんとちいさく、軽く。模様も分からなくなるくらいに。
……あの時、彼がわたしのいばらを引きちぎってくれたように。わたしも、彼の鎖をばらばらにしてあげるの!
締めくくりに……びりびりにしたそれを空へ撒こう。お日様の輝く、青い空高く。気持ちの良い海風に乗せて。
ひらひらと舞うそれは。
……きっと、祝福の紙吹雪みたいだろうね。
風向きはおしまいへ、最高のハッピーエンドに向けて!
「……何がおかしい」
ふふふと笑えば、憮然とした声。
「いーえっ!そろそろご飯かな!」
言えばがたりと立つ彼に。
背伸びして、そのままちゅっとキスしてあげた。今度は唇へ。
そうすれば、この氷の色は。……いつも、少しだけ揺らめく。
平坦な顔の中、唯一素直ないとおしい目。
だからわたしはいつだって、この綺麗なアイスブルーへ。
鶺鴒のように愛を囁き続ける。
鶺鴒のうた