レメンブランス、夜が溶けるまで囁いて
あの人と過ごした時間はまるで海の中で溺れているような、そんな時間であったと思う。その海は、普段は塩の味しかしない筈なのに、時々胸焼けするほど酷く甘い時があった。
光も届かないその海の中は、夜なのかそれとも天気が悪いだけなのか、それすらも分からない。あの人の視線に一喜一憂しながら顔色を伺う日々はとても苦しかった。
◇◇◇
最悪な夢をみた。じっとりと汗をかいていて服が貼り付き、気持ちが悪い。時計を見てみれば、まだ朝の5時であった。
「最悪」
まだあと2時間は寝られるではないか。だがあんな夢を見てしまえば、再び眠りにつくことなど出来そうに無い。私は一先ずこの汗を流したくて、まだ薄暗い廊下を渡って浴室へと向かおうとした。
「……嘘でしょ」
声を上げずにはいられなかった。先程までは寝ぼけていて気付かなかったが、どうやらこの汗は夢によるものだけでは無かったらしい。予定ではまだ半月もあった筈なのに、どうして。疑問と不安に襲われながらも机の上に置いてある薬を手に取り、水も飲まずにそのまま無理矢理飲み込んだ。母には、朝伝えよう。難しそうであれば今日は風邪と言って休むしかない。何でこんなにもついていないのか。
「誰なの」
思い出すのは夢でみた白い男。知らない顔であったが何となく、朝から悪い出来事ばかり続くのはあの人のせいだと、ほぼ八つ当たりような感情をぶつける。
一先ず効くまで大人しくしていよう。ベッドへと戻り、じくじくと内側から広がる熱を何とか抑え込もうときつく毛布を握る。薬が効くまでの辛抱だ。
◇◇◇
この世の中には男女とは別に第2の性というものが存在する。
アルファ、ベータ、オメガ。その3種類に分けられ、1番多いのはベータ、その次にアルファ、そして最も少ないのはオメガだと言われている。オメガは優等種とされるアルファを産むことが出来る唯一の性であるが、ヒートと呼ばれる発情期を持つため、世間的には劣等種と呼ばれていた。今では薬も改良され、効果も優れており、ベータと変わらない生活が送れるようになっているため、以前ほどオメガに対する扱いは酷くは無い。だがそれでも一部の人間には昔と変わらず、オメガは劣等種だと蔑まれていることは事実である。
「なまえ!もう風邪大丈夫なの?」
校門でクラスメイトに声を掛けられると、私はいつものように笑顔を浮かべる。
「うん、なんかこの間の雨もろ被りしちゃって、熱出た」
「なまえはちょこちょこ体壊すんだから、本当に気を付けなね」
「うん、ありがと」
昨日は結局学校に行くことは出来なかった。
友人達と共に教室へと向かう。今日も私はいつもと同じように授業を受け、彼女達とくだらない話をしながら昼食を食べて、放課後は文句を言いながらもファストフード店で宿題をする。そうして2年半以上過ごしてきた。そして残り少ない高校生活もそうであると思っていた。
「そういえばこの間、隣の学校でオメガがヒート起こしたらしいよ」
「え、まじ?」
「やっぱりいるんだね〜、うちの学校も案外いるのかな?」
放課後、目の前の友人達はそんな他校の噂話をしながらファストフード店で頼んだポテトを口へと運んでいく。それは既に冷めきっており、一緒に頼んだアイスティーが入ったコップも水滴を浮かび上がらせて、隣の水滴とぶつかると雫となって下へと垂れる。コップの周りには水溜まりが出来ていた。
正直、私は第2の性について話すのは嫌いである。何故ならば、私はベータと偽っているオメガであるからだ。
「なまえ?」
「え?ああ、ヒートを起こしたオメガはどうなったのかなって」
「んー、なんか近くにいたアルファに捕まりそうな所をベータの先生が助けたらしいよ」
「そっか」
「気になる?」
「いいや」
まあ正直私たちベータには分からないよね。と、隣の友人が残り少ないジュースを飲みきる。
そう、大半がベータであるこの世の中ではこのようなことは非日常的な出来事なのだ。ましてや今この時代は薬も発達していて、ヒートは殆ど抑えられることも出来るので、ばれる事も少なければ、オメガと公言していてもそれ程周りに被害が及ぶことなど多くはない。
「運命の番とかもさあ、本当にあると思う?」
「あれって迷信でしょ?」
「だよね〜」
迷信だと私も思っていた。だがふと思い出したのは先日見た夢。あの夢では運命の番は存在していた。そしてそれを夢の中の私は体験していた。
「やば、こんな時間」
「帰ろ」
急いで片付けを始め、少しだけ氷の残ったアイスティーを飲み干す。そういえば夢の中で感じたあの海の中のような世界も、これぐらい冷たかった気がすると、頭の片隅で思った。
「じゃーねー」
「うん、また明日」
大きく手を振る友人達に私も小さく手を振り返す。彼女達のことは大好きだ。だからこそ、自分がベータと偽っていることを、偶に心苦しく感じる時もある。
そのせいで彼女達と見えない一線が引かれているように感じてしまっているのは私だけなのだろうか。彼女達が本当はどう思っているのかと確認したくても、臆病な私は聞くことも、本当の自分のことを打ち明けることも出来ずにいた。私はこのままずっと周りに嘘をついたまま生きていかねばならないのだろうか。
「はぁ」
無意識に溜息が漏れていた。もし本当に運命の番というものが存在するならば、夢の中で現れたあの人が私の運命の番ということなのだろうか。
そこではっとする。あれは夢だ。あの人が本当に存在する筈も無い。それに、夢の中のあの出来事はとても幸せとは言えない日々だった。
運命という言葉に縛り付けられ、制御出来ない欲望のまま、目の前のあの人を欲しがる。そして相手もまた、自分のことを欲していた。そこに愛なんてものは無く、ヒートを終えた後はいつも後悔の念に苛まれていた。全てはあの人の意のままに物事は進み、自分の気持ちや願いなど、呆気なく海の底へと投げ捨てられる。あんな日々はとてもじゃないが運命とは言えない。本当になんて夢を見てしまったのだろう。
◇◇◇
1週間程のヒートを終えて、私の体は昨日よりも軽くなった気がした。抑制剤が発達しているとはいえ、体は普段よりも重く感じるし、私は人よりもヒートが重いらしく、抑制剤を服用しても1日目はどうしても普段通りに生活することが出来ない時もある。そういう時は決まって風邪と偽り学校を休んでいた。
「あ、なまえさん……!」
背後から声を掛けられて振り返ると、そこにはご近所さんのツナくんがいた。隣には小さな赤ん坊もいる。1年くらい前から沢田家に居候している子供だそうだ。
「おはよう、ツナくん」
「お、おはようございます!」
彼は少し奥手な子であるので、こうして話すことは少ない。それでもお互い生まれも育ちもこの並盛であるため、彼のことは小さい時から知っていた。
「最近は学校行くの楽しそうだね」
「え?!そ、そうですか……?」
「うん、前よりも登校中の表情が明るいし」
その言葉に彼は恥ずかしそうにこめかみの部分を指で掻く。彼はこう見えてもアルファである。本人に確認をとったことは無いが、何となく匂いで分かるのだ。
「そういえばこの間ツナくんが夢に出たの」
「え?!」
「なんかヒーローみたいに戦っててさ。もうちょっとうる覚えなんだけど」
白い男が出てきた夢の中にはツナくんもいた。夢の中の彼は未来にタイムスリップしてしまった仲間達と共に過去に帰るために、その白い男と戦い、そして勝利していた。
「あの、なまえさん」
「ん?」
「その夢が夢じゃなかったら、どう思いますか?」
「え……?うーん」
正直考えたことが無いかと問われれば嘘になる。私の運命の番が本当にいるのか、そしてあの人なのかと。
「流石にちょっと非現実的すぎるけど、そうだなあ……。私はちょっと嫌かも」
「それは、何でですか?」
「あまりいい夢では無かったから、かな」
もしあの夢が現実ならば、私は近い未来にあの人と出会い、自分の拒絶も虚しく番にされ、地獄のような日々を送ることになる。そんなのは御免だ。
「ツナくん、運命の番って知ってる?」
「え……?し、知ってます……」
「本当にあると思う?」
何かを悟ったような表情を見せると、彼は先程とは違い、強い眼差しを私に向けた。
「あると思います」
「へえ、意外かも」
「なまえさんは信じていないんですか?」
「うん。勿論」
私はベータだから関係ない。そう言えたらどんなに楽だっただろうか。私はそこまでスラスラと嘘がつける程、器用な人間では無い。
ツナくんは私の返答に何処か納得していないような表情見せる。彼は私に何を求めているのだろうか。