あなたと砂糖漬け 前編




 貴方と過ごす時間は、まるで砂糖のような甘い甘いひととき。ずっと隣にいて、じわりじわりと気付かぬうちに貴方の色に染まっていく姿は、まるで砂糖漬けのよう。気付いた時にはもう戻れない。戻る選択肢なんて既に頭の中には残っていないけれど。



◇◇◇



 もう何度も立ち寄ったことのある洋館の離れ。しかし、本館には一度も足を踏みれたことは無かった。それは、立ち入る用も無かったのもあるが、なまえがそこに入る勇気が無かったためでもある。
 ずっと目を背けていることなんて出来ないのは分かっているが、かの秋の出来事、入院していた白蘭に会いに行く時、美しいとは呼べない繋がりを受け止めることが出来ずに逃げ帰ったあの日から、なまえは未だに一歩を踏み出せずにいた。
 そんなことを露ほども知らない白蘭は、中々前に進もうとしない彼女を不思議に思っていた。

「ん?行かないの?」

 本館に入ったはいいが、他の者たちがいる部屋まであと数歩。服の裾を指先で摘まれ、引き止められた白蘭は後ろにいる自分の番を見遣った。

「緊張してる?」

「き、緊張というか……」

 声音と表情からして、緊張しているのはまず間違いないだろうが、言い淀む彼女に別の何かがあることは簡単に予想出来た。
 そういえば数ヶ月前、病院に来てもらう時に同性がいた方が安心するかと思い、ユニやブルーベルを紹介しようと思っていたことを思い出す。あの時は結局目の前にいる彼女が来ることはなく、紹介することが出来なかったので、今日初めて会うことになるのだが、あの時何故来なかったのか未だに詳しい理由を白蘭は知らなかった。

「また今度にしようか」

 その言葉にハッとした表情でなまえは顔を上げる。ここまで連れてきてもらったのに、まだ踏ん切りがつかないなんて、と、自己嫌悪に陥りそうになる。けれど、この醜い感情を彼に知られることは避けたかった。
 一方的にこんな感情を抱いているなんて、相手にも失礼だということは分かっている。無言で左右に首を振り、大きく深呼吸をしてから一歩前に足を踏み出す。大丈夫。あの時とは少しだけ変わったのだからと、自分に言い聞かせて。
 しかし、二歩目を出そうとした瞬間、目の前から大きな声を投げ掛けられたかと思えば、白蘭となまえの間に滑り込むようにして、彼の腕を引く一人の少女が目の前に現れる。
 スカイブルーの髪、コバルトブルーの瞳、あの夢の中よりも幾らか小さい女の子は、なまえにも見覚えがあった。と言っても夢の中でなのだが。

「白蘭おっそい!!」

「はいはい」

 頬を膨らませながら白蘭の腕を引き、部屋へと導こうとする少女──ブルーベルに、なまえは抑え込もうとしていた醜い感情が心の中で広がったのを感じた。
 自分よりも幼い子にこんな感情を抱くなんてどうかしている。自分はもう彼とは番である筈なのに、欲というものは留まることを知らないようで、もっともっと彼が欲しくなる。
 番になる前、白蘭となまえの二人だけが世界から切り離されてしまったかのようなあの夜のように、ずっと自分だけを見てくれたらいいのにと、大袈裟なことを考える。逃げ出したくなる気持ちでいっぱいになったが、彼の服を摘んだままであったので、ブルーベルが前に進めば進むほど、なまえも部屋へと近付いていく。

「こら、ブルーベルったら……お二人共、お待ちしていました」

 大きな客間のようなところに入ると、ブルーベルを窘める声が響く。声の主に視線を向ければ、そこにも見覚えのある少女がいて、視線が絡む。微笑まれたあと、恭しくお辞儀をされたので、思わずなまえもそれに返した。

「はじめまして。ユニと申します」

「はじめまして、なまえです」

「にゅにゅ、私挨拶されてない……」

「ブルーベルさんもはじめまして……その、お邪魔します」

 一先ず挨拶が終えたことに、心無しか白蘭はほっとしたような表情をしていた。ブルーベルは別として、ユニと気兼ねなく話せるようになれば、今後色々と楽になるだろうと思っていたからだ。
 桔梗や柘榴、デイジーやγ、太猿や野猿とも顔を合わせ、随分と濃いメンバーに囲まれながら、おろおろとする様子は見ていてとても可愛らしい。γ辺りには性格が悪いなどと言われそうだが、生憎性分なもので、変わるものでも無いだろう。助けを求めるように自分を見つめる視線が堪らなく心を擽るのだ。

「あんまり苛めないでね」

「放ったらかしにしていたのはお前だろう」

「やだなぁγクン、人聞きの悪い」

 野猿とブルーベルは既に別の遊びに夢中のようで、部屋から移動している。残されたユニとなまえが何やら話している様子だが、先程よりも幾らか馴染み始めた様子の彼女に胸を撫で下ろす。
 初め、何かを言いかけていたようだが、やはり緊張していただけであったのだろうか。



◇◇◇



 大分打ち解けたようにも見えるが、心を覆うような黒い靄は一向に晴れることはなかった。
 ユニもブルーベルも、いい子なのは十分に分かった。けれど、それとこれとは別問題なのだと、今度は違う意味でなまえは頭を悩ませていた。
 どんなに打ち解けたとしても、やはりなまえはマフィアでは無いため、これから分からないことも沢山あるだろう。そうなると、やはり白蘭が頼るのは周りにいる仲間や、ユニやブルーベル達なわけで。自分が入る隙はない。マフィアになれるとも思っていないし、なるつもりも無いのだが、それはそれでもやもやとしてしまうのだから、どうしようもない。
 それと、幼い彼女にこんな気持ちを抱いたって仕方の無いことなのだが、やはりブルーベルと白蘭との距離感に面白くないと感じているのは事実であった。
 ヒート時以外で、なまえから白蘭に甘えたり、積極的にスキンシップを取ろうとしたことは一度もない。元々の性格や、未来の夢でのこともあって、自ら行くことを恥ずかしく思い、躊躇していたのだ。
 あの可愛らしい少女のように、もっと積極的になれたら。それは努力次第で変われるのかもしれないと、分かってはいる。前に六道骸に言われたように、そうして封じているのは自分自身なのだ。

「そろそろ戻ろうか」

 白蘭の言葉に、たまたま戻ってきていたブルーベルが「えー!」と、声を上げる。
 既に日は沈みかけていて、思っていたよりも本館で時間を過ごしたのだなと、今になって気付く。初めと同じようにして腕を掴み、引き止める様子を見ていたなまえの心に、また黒い靄が増えたような気がした。

「なまえチャン?」

 殆ど無意識であった。ブルーベルが握る反対の手をなまえが掴む。おや?と、桔梗やγが思う頃には彼女は俯いたまま一向に離そうとせず、黙り込んだままだ。
 勘づいた白蘭は少しだけ口角を上げて、もう反対側を掴むブルーベルの手を優しく解いた。

「また今度ね」

「そう言って全然来ないじゃない!」

 ブルーベルにとって、白蘭に恋愛感情は無いだろう。自分を見出してくれた恩人、居心地のいいファミリーのボス、そして楽しいことを一緒にしてくれる兄のようなものかもしれない。未来でもそうであったが、この時代でも白蘭は随分と自分の番にご執心のようで、最近はめっきり遊んでくれなくなってしまい、それが彼女にとっては不服であった。
 今もまた、何か面白いことに気が付いた様子の彼は、反対にいる番に夢中のようで、機嫌が良くなったかと思えば、自分の手を解いて颯爽と部屋から出ていってしまった。

「案外上手くいってんだな」

 γが小さく漏らした言葉に、野猿やブルーベル以外は皆同じことを思ったであろう。
 何せ未来では随分と酷かったことを知っているからだ。



◇◇◇



 白蘭はすぐ近くの離れになまえを連れていくと、ソファに座わらせ、自らも隣に座った。
 3月とはいえ夜はまだ肌寒いため、空調を付ける。少しずつ暖かい空気が流れ込み始めるまでの間、隣にいる彼女は一言も言葉を発さなかった。
 何から聞こうかと、少しだけわくわくしながら頭の中で考える。先程の行動で、白蘭の中での疑問は殆ど解決していた。まさか、彼女がこんなに可愛らしいことを思う日が来るだなんて。また誰かさんには性格が悪いと言われそうだが、やっと手に入れた大切な宝物なのだから、顔が緩んでしまうのは仕方が無いだろう。

 白蘭が口を開きかけたその時、先に動いたのはなまえだった。




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