まばゆい情景に


 今はそこまで厳しく食事を制限しているわけではないと、彼は言っていたけれど、ドイツここに来る前から今週末に試合があることをわたしは知っていた。旅行のスケジュールをなんとなく把握したタイミングで潔くんに連絡をしたとき、彼がそのことを教えてくれたのだった。


 旅行中、彼と毎日出かけていたかと言えばそうでもなく、彼にはもちろん練習があって、そのときは近場を一人で散歩してみたり、クラブハウスのほうまで一緒に行ってみたりもした。そのときに潔くんとは数年ぶりに再会を果たしたのだけれど、カイザーさんのときよりもはしゃいでしまったせいで、いつもの如く(わたしにとっては懐かしい光景だったが)二人の口論が勃発してしまったのだった。そもそも会えなかった期間が違いすぎるのだから、反応が違ってくるのも当然だと思う。そう言っても、カイザーさんはその日ずっと拗ねたままだったが。

「明日、試合があるんだ」
「聞いてますよ」
「……前に言ったか?」
「いいえ、潔くんから」

 彼はあからさまにむっとした。けれど知らない振りをすることもできないから、こう言うしかなかった。すでに数日経って少し慣れてきた彼の家で、やわらかいソファに身を沈めていたわたしは、彼に向き合うように姿勢を正して目を合わせた。

「ミヒャエルに聞くべきでした。ごめんなさい」
「いや、どうせ俺に聞いても試合のことは言うつもりがなかった」
「言いたくなかったの?」
「サプライズのつもりだった」

 まさかの回答にわたしは思わず固まって、それからまばたきを数度した。

「なまえ、俺の試合は見ているか?」
「……えっと、たまに」
「本当は?」
「……見れるものは、ほぼ全部」
「よろしい」

 すっかり機嫌をよくしたように彼は穏やかな微笑みをたたえて、わたしの頬を手のひらでするりと撫でた。本当は元から拗ねてなどいなかったと思えるほど、静かな変化だった。

「直接見て欲しかったんだ」
「……うん」
「見てくれるか?」
「そこは、特等席を用意してやった、とかじゃないんですか?」
「確かに違いない」

 用意したさ。お前だけのために。
 そう言って彼はわたしの手を掬い取って、甲にそっとキスを落とした。あの日とは違い、確かにそこには彼の薄いくちびるが触れた。彼にキスを送られるのはくちびる以外であればもうたくさんあったけれど、今までで一番優しいキスのように見えた。


* * *


 冬の澄んだ空気を熱くさせるほど、彼のプレーは凄まじく、圧倒的で、唯一無二だった。青々しいフィールド世界の中心はまさしく彼で、皇帝以外の何者も浮かばない。初めて見たときでさえ感動したそれが、うんと成長して、わたしひとりのキャパシティでは受け止めきれないほどかっこよく、気がついたらわたしは涙を零していた。


 ブルーロック時代、カイザーさんの印象が変わり始めたのは、潔くんが目覚しい成長を見せ始めたときだった。元から彼は吸収率が高く、発想も転換もずば抜けていたから跳ね上がるように成長していたけれど、カイザーさんやノア選手と出会ってからはそれがより顕著になったように見えた。
 彼はどうやらわたしがいたあの棟から、試合のみが見れると思っていたようだったけれど、元よりブルーロック施設内にはたくさんカメラが設置されていて、練習中や食事中など、ありとあらゆるシーンをモニターで確認することができた。もちろん、自室や浴室などプライベートな場所にカメラは設置されていなかったので、二十四時間監視されていたというわけではなかったけれど、監獄、という名に相応しいほどの数はあった。
 それはほんの気まぐれに、わたしがモニターのチャンネルをドイツ棟の練習場に変えたときのことだった。潔くんを含めたブルーロックチームやバスタード・ミュンヘンの選手がそれぞれ自主練を切り上げ始めていたころ、ただ一人、カイザーさんだけが誰もいない別室でひたすらに練習し続けているところを見つけてしまったのだ。絵心さんからモニターのチャンネルはあまり変えないようにと言われていたので、練習場を見るのも、そして試合中にすら流さないほどの汗をかき、必死になっている彼の姿を見るのも初めてだった。わたしはそれがとても衝撃的で、当たり前すぎて忘れていた大切なことを目の前に差し出されたような気持ちになって、はっとした。覚悟を持ってここに来た人たちは、なにもブルーロックメンバーだけではない。カイザーさんを含めた海外選手、そして少し前の試合で対峙したU-20の選手たちだって、みんなそうなのだと、わたしはこのときにようやく本当の意味で理解したのだ。彼が新世代世界11傑に選ばれたのは、確かに彼自身がそこまで走り続けた過去があって、それはきっと、ずっと、人の目に触れないところで努力し手にした結果なのだと、そう思った。初めの出会いがあまりにもひどい印象だったから、彼は違うのだと、わたしは勝手に思い込んでいたのだ。
 わたしはすぐにチャンネルを変えた。この一面はきっと、彼にとって見て欲しくない部分だろうと思ったからだ。けれどあの場面を見て、胸がいっぱいになったわたしはいてもたってもいられずに、ドリンクを引っ掴んでドイツ棟に走っていたのだった。幸いわたしがいた棟から彼がいた場所は比較的近く、棟と棟を繋ぐ渡り廊下にも鍵がかかっていないことを知っていたので、止めるものはなにもなかった。
 話すつもりはなかった。会うつもりもなかった。それでも、この中に、応援している人間がいるのだと伝えたかった。けれど彼がいた練習場にまでたどり着いたとき、壁を殴りつけるような大きな音が突然響いてきて、わたしは思わず息をのんでその場で立ち竦んでしまった。

「……ックソ!」

 震えた空気に流されるように壁際に寄りかかる。こんなふうに彼が声を荒らげるところを聞いたのはこれが初めてだった。彼の激情はモニター越しで見るよりも遥かに緊迫していて、苦しくて、痛かった。彼はあのとき、どんな気持ちでわたしに「俺を見ていろ」と言ったのだろう。あの自信たっぷりで、皮肉ばかり言ういつも彼からは想像もつかないほど、壁の向こうの彼は必死で、がむしゃらで、焦っていた。
 ここに置いておけば、きっと帰るころに気づくだろう。そう思い出入口の近くにドリンクを置いたときだった。思っていたよりも近いところでボールを蹴る音がして、それに思わずびくりと体が震えた瞬間、置いたはずのドリンクに手がぶつかり、ごとんと廊下に鈍い音が響いた。まずいと焦ったときにはすでに遅く、わたしの前では見せたことがない、ゆらゆらと熱く揺れた青い瞳がゆっくりとこちらを向く。瞬間、わたしは素早く立ち上がり、背を向けて逃げるように走っていた。彼と目を合わせることも、倒れたドリンクを直すこともせず。
 それから、わたしはドイツ棟に近づかなくなった。それでもモニターで彼のことはずっと見ていた。一度知ってしまえば彼のプレーがより印象的に残ってしまい、気がつけば彼を目で追うのも、彼のことを考えるのも得意になっていた。
 次に彼と再会したのはそこから数ヶ月あとのことだった。そのとき、彼はあの日のことを尋ねたりはしなかった。わたしもなにも言わなかった。そしてその先もずっと、わたしたちの中であの日のことは触れられないまま、今日まで来てしまっている。



「どうだった?」

 試合が終わったあとの彼は、まるで頭上から紙吹雪が舞っているのかと思うくらい眩しくて、自信に溢れていて、煌めいていた。

「泣くほどかっこよかったか? ん?」

 なにを言っても陳腐な感想になってしまう気がして、もごもごと言葉を探しているうちに、本当に喋れなくなるほど、とめどなく気持ちが溢れていた。はらはらと一向に止まる気配のない涙に、カイザーさんが困ったように笑ってわたしの目尻を拭う。

「お前が俺を思って泣いた日、全部にこうしてやりたかった」
「……そんなに泣いてないです」
「そんなに、ってことは今日が初めてではないだろう?」
「……」
「少なくとも、今日で二回目だ」
「一回目は、」
「あの日に決まってるだろう」

 はっとしたように見上げれば、彼はやわらかい笑みでわたしを見つめ、まぶたにそっとキスを落とした。あの日、とは、わたしが彼の元までドリンクを届けに行った日のことを言っているのだろうか。あのときはとにかく必死で、焦っていて、自分がどんな顔をしていたかなんてわかっていなかったけれど、あの瞬間からもう泣いていたのか。元いた棟に帰ってきて、しばらく呆然と立ち竦んでいたから、いつから泣いていたのかなんて気づいていなかった。


 その日の夜、カイザーさんは「今夜は一緒に寝よう」と言ってわたしを彼の寝室へと誘った。実のところこの家に来てから、わたしたちは別々の部屋で寝ていたのだ。自分で言うのも少し恥ずかしい話ではあるが、昔わたしの家に勝手に上がり込んで来たときはベッドがひとつしかなく必然的に一緒に寝ていたりもしたので、この家に初めて来て部屋を案内されたときは密かに驚いていたりもしていた。
 彼の寝室は穏やかな色で統一されたシックな部屋で、月明かりが似合う静かな場所だった。まっさらなシーツはとろりとした質感さえ覚えるほどなめらかで、思わず何度も撫でたくなるほど心地よい。

「変なこと、しないでくださいね」
「今までも何もしなかっただろうが」

 無実を証明するように両手を上にあげた彼が、今度はわたしを迎えるように差し出す。枕をひとつ抱いたまま、わたしはそろりと足を伸ばしてその腕の中に収まった。意外かもしれないけれど、彼の言った通り、キスやハグはしたことがあれど、それ以上のことはしたことがなかった。昼間とは違う、彼自身の清潔感のある匂いと、甘美的でしっとりとした寝香水の香りが混ざり合い、やわらかくわたしを包む。本人には言えないけれど、彼の腕の中は世界で一番、安心できる場所だった。

「ミヒャエル」
「……なんだ?」
「……やっぱりなんでもない」
「……全く、困った奴だな」

 大きな手のひらが、わたしの頭を優しく撫でた。それはゆっくりと繰り返し、やがて途中で止まると、耳元で微かな寝息が聞こえてくる。今までで一番早い眠りだった。無理もない。今日は試合で疲れただろうし、そうでなくともここ一週間はわたしを迎えに行ったりしてばたばたと忙しい日々を過ごしていたのだから。そう思うと途端に胸が苦しくなって、鼻の奥がつんと痛くなってくる。結局わたしはその日、彼の眠っているあいだにほんの少しだけまた泣いたのだった。







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