思い出の木漏れ日


 わたしがカイザーさんと出会ったのは、数年前、ブルーロック施設内でのことだった。当時海外選手の受け入れをして人手が回らなくなった理由から、アンリさん経由でお手伝いを任され、ときどき顔を出していたのだ。とはいえそのときはわたしも学生だったため、週末だけ、それほど長い期間でもなかったのだけれど。潔くんを始め、歳が近い子が揃っていたから、アンリさんや絵心さんが許した時間のみ選手が揃う棟まで顔を出したり、お手伝いをしていたのだった。
 そんなときにわたしと彼は邂逅した。
 当時の彼への印象は今とは少し違っていて、それでも少しではあるのだけれど、もっとキザで高飛車で、飄々と甘い言葉を囁くような人だった。不思議な話だけれど、どうしてだかわたしは当時から彼に口説かれているらしかった。もちろん初めは冗談で、それはきっとわたしも彼も、誰もが知っていたことだったけれど、冗談としては面白くないところまでやってきてもそれは終わりを見せずに(そもそも初めからわたしにとっては面白くない冗談だったのだけれど)、いつしか本物になっていたのだ。いいや、本物だと見せかけてやっぱり今でも冗談なのかもしれないけれど。
 ブルーロック内ではアンリさんとわたし以外、一人も女子がいなかったから、物珍しさにからかわれているのだろうと思っていた。そしてそうやってからかわれているところを、潔くんによく助けてもらったりもしていた。あるときは目の前で言い合いになるようなシーンもあった。そんな場面に当事者として立っている自分にも違和感があったし、サッカーに本気で向き合っている人たちが集まる場所で、風紀を乱していることに気づいてしまってから、少しずつ選手棟からは足が遠のいてしまったのだけれど。一介のスタッフ、さらにはただのお手伝いということもあって、誰にもなにも言わず、そのままフェードアウトするつもりでその棟には近づかなくなった。けれど彼は、彼だけは、アンリさん経由でわたしの元に訪ねてきたのだ。

「おい、なんでこっちに来ない」
「えーっと、そもそも最初はこっちの棟でずっとお手伝いしていたんです。だから元の形に戻ったというか……そっちに行ってもなんだか空気を悪くしてしまうので」
「世一が騒いでいるだけだろう。お前が気にする必要なんてない」
「それでも、覚悟を持ってここに来た人たちの邪魔はしたくないです」
「……」

 当時のカイザーさんは今よりも少し若くて、いいやもちろんわたしも若かったのだけれど、目尻の跳ね上がった赤いラインを僅かに縦に伸ばし、ほんの少しだけ子供らしい顔をした彼は、しばらくのあいだわたしを見つめた。そうして沈黙が続いて、少しいたたまれなくなったころ、ようやく口を開いた。

「この棟からも試合は見れるんだよな?」
「あ、はい。絵心さんにお願いすれば、モニター室を貸していただけます」
「ならいい。ここからで許してやる」
「えっと、なにをですか?」
「俺が勝つ瞬間。活躍の場面。全てだ。俺の試合をここからちゃんと見ていろ」

 そう言ってカイザーさんはわたしの手を下から掬うように持ち上げて、触れるか触れないか、ぎりぎりのところまでくちびるを寄せた。そして、思わず惚けるわたしを微かに笑って部屋をあとにしたのだった。あんなふうに正面から告白をされて、ましてやキスのようなものまで送られるのは人生で初めてのことだった。もちろん数年経った今でも、あの日以来、彼以外にあんなことをされたのはただの一度もない。



「……ん」
「起きたか」
「……あれ、今」
「もうそろそろ着くぞ」

 目が覚めたら、うんと近いところからカイザーさんの声がした。ぼんやりとした意識のまま隣を向けば、頬杖をついた彼がわたしの髪を梳くように後ろへ流している。ああそうだ、わたしは今、彼に連れられて飛行機に乗っていたのだった。ペアシートのためにわざわざランクを落としたのだと文句を言う彼の話を笑って聞いていたら、そのまま寝落ちていたらしい。

「夢を見ていたのか?」
「うん……少し昔の夢を……あなたと初めて会った時の夢……」
「……そうか」
「え? 何か言ってました?」
「いいや? ミヒャエル大好き、としか言ってなかった」
「……絶対嘘」

 着陸の案内が鳴って、がたがたと機内が揺れる。その様子に少しずつ意識が覚醒してきて、ぐっと両手を上げて伸びをした。窓際の小さな子窓から見える景色は、時間のわりにまだまだ薄暗い。冬のドイツは日本よりも日の出が遅いのだ。と言っても日本の暦上では、もう春なのだけれど。

「着いたら、どこに向かうんですか?」
「俺の家に決まってるだろ。荷物とか色々置かなきゃ話にならない」
「え、わたしカイザーさんの家に泊まるの?」
「昨日言っただろうが」
「途中から眠くて、あんまり覚えてないです」

 そう言うと、彼はむっとした様子でわたしを睨みつけた。そのあいだに飛行機は無事着陸して、前から順に案内がされる。ぱちん、とシートベルトを外した彼が、さっさと荷物をまとめて立ち上がった。普段はマイペースなくせに、こういうときはせっかちなのだ。全てひっくるめてマイペースと言うのだろうけれど。

「空港に車を停めてある。とりあえず一旦家に戻るぞ」
「カイザーさんって運転できたんですか?」
「……? 当たり前だろう」
「あ、うん、そうですよね。できないことなんてないですよね。それにしても仮眠とか取らなくて大丈夫ですか? 日本にいた時も少ししか寝てなかったですけど」
「フライト中に寝たから問題ない」

 それでもわたしよりか短い気がするけれど。朝にそれほど強くないようだったが、ブルーロック時代にも眠れない日々は何度かあったようだし、波が激しいほうなのかもしれない。思えば睡眠だけに限らず、彼はそういう場面がいくつかあるように思えた。
 その後、彼のスマートな案内と運転により、人知れず胸が高鳴ったのはこの先もずっとわたしだけが知っていることだ。


* * *


 ドイツのミュンヘンにある彼の自宅は、それはそれは一人で住むには十分すぎるほど広く、豪邸と言っても過言ではないほど立派だった。相変わらず片付けはあまり得意ではないようだけれど、そもそも物が少ないのか、家のサイズと私物の数が見合ってないのか、それほど散らかった印象は見受けられなかった。
 荷物を置いたあと、わたしたちはミュンヘンの中心地から少し歩いたカフェでブランチを食べた。とても大きな外装で、建物と建物のあいだにある道にまで赤いテーブルと椅子が並んでいる。あたたかい季節にはテラス席にも多くの人が埋まっているのだと彼は言った。
 案内をされた二階の窓際席は景色がよく、ミュンヘンの歴史的な街並みがよく見えた。外装だけでなく、中もとても広く開放的なつくりになっていて居心地がいい。

「好きなのを頼むといい」
「……難しくて読めないところがある」
「ん? どれ?」

 わたしたちの主な会話は簡単な英語と、それからブルーロック時代に譲ってもらったイヤホンで成り立っている。そのため音としてのドイツ語は勝手にイヤホンが翻訳してくれるけれど、文字はまだまだわからない部分が多い。身を乗り出した彼にメニューを指差していくと、彼はひとつずつ丁寧に答えた。

「じゃあ、これにする」

 チーズやハム、チェリートマトが挟まれたクロワッサンのサンドイッチだ。彼曰く付け合わせにサラダもついているらしい。悩んだ末、ようやく決めたわたしに彼はひとつ頷くと、カフェのスタッフを呼んで、それと追加でオムレツとコーヒーをふたつを頼んだ。
 こうして見ると、本当にスマートでかっこよくて、文句のつけどころがないほど完璧な人なのだ。現に周りに座るほかのお客さん一部は、カイザーさんの存在に気づいてちらほらと視線が向いている。お店の客層的にそれほど騒ぎ立てそうな人もいないため、ゆっくり食事はできそうだけれど、注目される機会がないわたしにとってはやはり不思議な心地だった。

「少しは慣れろ」
「そんなの、無理です」
「俺だけ見てればなにも気にならないだろう?」
「それもそれで無理です」

 息をするように気取ったことを言う人だ。もちろんそうやって言えるほど、彼は自信に溢れているのだろう。けれどブルーロック時代の彼、とくに潔くんに対する彼は自信家のあまりとてもとても意地悪なことばかり言う人で、正直初めは少し苦手だったのだ。もちろんその一面は今でも健在だろうし、実際潔くんからも彼が相変わらずなことは聞いているのだけれど。苦手だと思っていたはずなのに、彼があまりにも強引だから、知りたくなくても彼のことを少しずつ知っていってしまったのだ。そうして気がつけばこんな付き合いになっていて、彼のことを嫌じゃなくなっている自分がいる。彼と過ごすのは案外気楽で、居心地がよかった(もちろんお互いの立場の差や彼の無欠さに緊張することもあるけれど)。それはきっと彼が我儘で強引すぎるからこそ、わたしが普段なら気にしすぎてしまうような部分に至る前に振り回されて、彼のペースに流されているからなのだと思う。今回の旅行もそうだった。
 しばらくして運ばれてきた料理は、どれも彩りがよく理想的だった。微かに甘いバターの香りがするクロワッサンも、そのあいだでとろりと溶けたチーズも、添えられた鮮やかなグリーンサラダも、ふわふわに膨らんだオムレツも。目を輝かせたわたしに彼は、「さあ召し上がれ」と笑みを浮かべた。


* * *


 カフェを出たあとは、カイザーさんが簡単にミュンヘンの街並みを案内してくれた。ミュンヘンの中央駅やマリエン広場、彼がよく行くカフェ、家から一番近いスーパーマーケット。巡った最後にそのスーパーで軽く買い物をして、そのあとは家でゆっくりと過ごす流れとなった。移動ばかりでカイザーさんも疲れただろう。実際わたしも長いフライトで体は少し疲れていた。

「ドイツ人は比較的夕食を簡単に済ませることが多いが、食べたいものがあったらなんでも言え。実際俺もトレーニング用のメニューで普段から人とは違った食生活だしな」
「さっきブランチなんてしてよかったんですか?」
「そこまでシビアにやってるわけじゃない。お前はなにも気にしなくていい」

 カイザーさんも、スーパーで買い物することなんてあるんだ。なんだか見当違いなことを考えながらそんな会話をしていると、彼は次々に食材たちをカートの中に放り込んでいった。あまり料理をするイメージはないけれど、実際のところどうなんだろう。なんでもできるようで、家庭的な印象はひとつもない。

「ちなみに料理はするんですか?」
「……たまに」
「今の間でなんとなくわかりました」
「勝手に想像するな」
「だってカイザーさん、できることははっきりと断言しますもん」

 むしろ、俺にできないとでも? とか、できるに決まってるだろ、くらいには言いそうだ。運転の話をしたときの反応がまさにそうである。

「ミヒャエルだ」
「はい?」
「ファーストネームで呼べと、もう何回も言ってるだろう」

 困ったように肩を竦めた彼が、わたしのくちびるに人差し指をちょん、と押し当てた。「ここではちゃんと呼べ」もう一度念押しするようにそう言った彼に、わたしはおずおずと口を開く。

「……ミヒャエル」
「よろしい」
「ここにいるあいだだけでいい?」
「帰るころには勝手に呼んでいるようになる」

 どこからその自信は来るのだろう。けれどじっと見上げるわたしに、彼はまたいつものように不敵な笑みを見せるから、なんだか本当にその通りになってしまうような気もして、必死に心の中で己を否定したのだった。







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