hikari


 ドイツ旅行も残り二日となり、今日は自由に時間を使える最後の日だということで、カイザーさんにミュンヘンの有名な観光地を案内してもらうことになった。天気は生憎の曇り空だけれど、本来ドイツは曇りが多い地域でもあるので今までが恵まれていたと言えよう。観光は初日に案内してもらったマリエン広場からスタートして、ミュンヘン・レジデンツ、そこから大きく迂回しながらゼントリンガー通りのほうまで戻ってきて、今はアザム教会を目指しているところだ。

「どこを見ても綺麗ですね、ミュンヘンの街並みは。まだまだ寒いけど、散歩しててとても楽しいです」
「それはよかった」

 石畳の道はどこも舗装されていて綺麗で歩きやすい。中心部は歴史的建造物も多く残っていることから、日本とは全く違った景観でとても新鮮だった。何百年も昔からあるとは思えないほど華美で、けれどそれだけの歴史があるからこそ漂うその神聖さに圧倒されながら、広く大きな道を歩いていく。
 そうして見えてきた一際目立つその場所に、わたしは思わず息をのんで立ち止まった。建物が連なる途中に突然、荘厳な入口と彫刻が見えたからだ。思わず誘われるように隣を見やったわたしに、カイザーさんは目を合わせてから小さく笑うと、先導するように前を歩いて中へと入っていく。わたしは慌てて彼のあとを追った。
 そうして目の前に広がる景色は壮観で、わたしは再び息をのんで頭上を見上げた。敷地面積で言えばそれほど広くはないのかもしれないけれど、天井は遥か高く、煌びやかな装飾で埋めつくされていて眩しい。晴れの日であればステンドグラスが光ってもっと綺麗だっただろうが、それでも圧巻の景色だった。
 こつりと靴音を鳴らしてカイザーさんが前を進む。こんな場所でも、彼は負けず劣らず輝いていた。ここに来てから、彼はずっと光っている。日本で見るよりもずっと馴染んでいた。それがまるで、彼がここで生きてきたことを証明しているようで、今までどこか信じられなかった彼の人間らしい部分が、急に現実味を帯びたような気もした。

「どうした?」

 教会を抜けたカイザーさんがきょとんとした顔でわたしを見下ろす。そのときにようやく、教会よりも彼のほうに意識が集中していたことに気がついた。

「どうして今回、わたしをここに連れてきたんですか?」

 ずっと、聞きたかったことだ。そして今回の旅で、わたしたちのなにかも変わるような気がしていた。

「お前に想像して欲しかったんだ」
「想像? なんのです?」
「ここで俺と生きていく未来を」
「え……?」
「俺が生きてきた場所を、そして俺が今ここで生きているさまを。一番近いところで見て、感じて欲しかった」

 こつこつと靴音を鳴らしながら、彼は語るようにそう言った。元来た道をたどるように、ゆっくりと歩きながらわたしの手を取る。大きくて、わたしよりもほんの少しだけあたたかい。

「お前は臆病だから、できる限り待とうと思ったんだ。けど、いつまでも待っていられるほど俺は優しくないし、そんなことをしているうちに手から零れ落ちたら元も子もないから、こうして連れてきた」

 そう言って彼がわたしを見下ろす。その瞳はどこまでも強く、ただまっすぐわたしに注がれていた。
 わたしは、ミヒャエルのことが好きだ。けれどそれを口にしたことは一度もなくて、そうできなかった理由は、彼にとってわたしは相応しくないと思っているのと、彼がサッカー以外のことで夢中になる姿を想像できなかったからだ。
 彼がわたしのことを今でも冗談で口説いているとは思っていないし、きっとほんの少しだけほかの人よりも近いところにいるのだと理解はしている。けれど、そもそも彼が、恋や愛など、目には見えない不確かな感情に夢中になれるとは思っていなかったのだ。彼にとって一番の優先事項は間違いなくサッカーで、人生をかけていると思っていたから。あの日、ブルーロックで彼の知らない一面を見たとき、わたしは、彼にとっての悪いこと・・・・・・・・・・が起きてしまったら最悪彼は死んでしまうのではないかと、本気で心配したくらいだった。だから世界一を目指す途中である今、わたしだけに限らずそういう存在を自分の中で見つけ、真正面から向き合う彼を想像できなかった。だからこそ、彼に本気になること、ましてや好きだと告げることなんてわたしにはできなかったのだ。
 道の途中、ところどころに設置されたベンチに彼が座る。開けた場所にあるお陰で、ミュンヘンの美しい街並みがよく見えた。

「ミヒャエルは、」
「ああ」
「サッカー以外、興味がないのかと思ってた」
「まあ、間違ってないな」
「こんな想像をしてしまって申し訳ないとは思っているけど、もしなにかあったらミヒャエルは死んじゃうんじゃないかって、本気で思ってたの」

 そう言うと彼は、「それも確かに、間違ってないかもな」と仄暗い表情を見せた。

「世界一になれない自分は必要ないと、生きてる価値なんてないと思ってる」
「うん」
「だが、世界一になった先、俺だっていつかは歳を取って引退する日が来る。そうなった時、俺は別に死ぬわけじゃないんだ。もちろん現役サッカープレイヤーのミヒャエル・カイザーはそこで終わるけど、その先を生きる気力くらいはある。そしてそうなるまで俺はお前に隣にいて欲しいと思うし、その先はお前と一緒に生きていきたいと思う。……この意味がわかるか?」

 ゆっくりと、ひとつひとつわたしの奥まで届けるようにそう言うと、ミヒャエルは「俺の言葉で直接言えないのがもどかしいな」と困ったように言った。はらりと落ちた涙を拭うこともせず、わたしは両耳に差し込まれたイヤホンを取って、彼の手を握った。

「もう一回、言って、今の」
「Wenn man das wegnimmt, macht es keinen Sinn mehr. 」
「ミヒャエルの言葉で、声で聞きたい。お願い」

 すると彼は驚いたように目を見開いてから大きく息をついて、わたしの頬を両手で包み、そっと口を開いた。まだ完璧にお互いの言葉がわかるわけではないから、それが本当に先ほどと同じ言葉かなんて確かめようもないけれど、彼の顔はどこまでも真剣だったから、きっと本当なんだと思う。穏やかなトーンで囁いたそれは、確かにわたしに伝えようとしていた。
 そうして最後まで言い切った彼は、イヤホンをわたしの耳に戻して手を取った。

「そろそろ帰るぞ。じきに雨が降る」



 ミヒャエルの言う通りあのあとミュンヘンには雨が降り、しっとりとした空気はさらに静寂さを帯びて、静かな夜更けとなった。

「……ミヒャエル、今日も、一緒に寝たい」

 最後にハーブティーを飲んで、それじゃあそろそろ寝ようかというところで、わたしは彼を引き止めるように服をつまんだ。彼は最初、ひどく驚いたようにまばたきを二度ほどしたけれど、すぐに「Ja.」とわたしを受け入れ、そのまま寝室へと誘った。しとしとと降る雨音が、窓際から微かに聞こえる。昨日も眠ったはずなのに、なぜだか妙に緊張していた。

「最初に言っておくが、今日は手を出すなと言われても無理だからな」
「……うん」
「……本気か?」
「なんでそっちが驚いてるんですか」
「いや、まさかそこで肯定されると思ってなかった」

 今のは冗談だ。いきなりそんなことはしない。
 ミヒャエルはマットレスの上にどっかりと座ると、両手を上げながらそう言った。まるで昨日のやりとりのようだ。
 けれど、今日が終わって、明日帰ってしまったら、わたしたちが次会えるのはいつになるのだろう。自分の気持ちや彼の思いを知ってしまった今、約束のない未来に寂しさを感じてしまうわたしはなかなか欲張りなようだ。手のひら返しもいいところである。曖昧なままでいようと必死だったのは、わたしのほうだったというのに。

「でも、次いつ会えるかわからないです」
「……」

 僅かな沈黙が二人を包んで、それからミヒャエルはがしがしと乱暴に頭をかいた。そうしてどこか不機嫌そうな顔をしてわたしを見上げる。

「とんでもない女だな、お前は」
「え……ごめんなさい」
「その前にいくつか確認しておきたいことがある。とりあえず、こっちに来い」

 そう言って彼がマットレスをぽんと一度叩く。わたしは同じようにベッドに上がってから彼の隣まで移動して、ちょこんと正座をした。瞬間、彼の手がわたしの腕を掴んで、ぐらりと体が傾く。

「っわあ!」
「まずひとつ、そのぐちゃぐちゃの敬語やめろ。今更過ぎて違和感がある」
「あ、はい……うん……」
「ふたつ。俺はまだお前から好きだと言われていない」

 え? と空白の時間が生まれて、それからあっと大きな声を上げた。確かにそういえば、あのときもすぐに帰ってしまったからなにも答えていないかもしれない。けれどドイツの人たちって、そういう告白の文化がないと聞いていたけれど。てっきり、彼はわたしの気持ちに気づいていて(もちろん気づいてはいるだろうが)、もう今さらなのかと思っていた。
 彼の膝の上にいるため、いつもと目線が違い彼を見下ろす形だからか、なおさら彼の不機嫌そうな顔が可愛らしく見えた。もしかして、言われるのを待っていたのだろうか、なんて、考えてみるとますます可愛さが募ってくる。そっか、ミヒャエルって、こんなふうに普通に恋をして、誰かに愛の言葉を囁かれるのを待っていたり、もやもやともどかしい気持ちになったりするんだ。少しずつ彼のことを知ってきたつもりだったけれど、まだまだ知らないことがたくさんあるらしい。わたしは彼の耳に着けられていたイヤホンを取って、両手で彼の顔を包んだ。

「わたしを見つけてくれてありがとう。わたしのことを好きになってくれてありがとう。わたしもミヒャエルのことがずっとずっとだいすき。ミヒャエルのサッカーが一番好きだよ」
「……おい、わかんねぇだろうが」
「あとでもう一回言ってあげるから」

 きっとこれも伝わっていないだろうけれど。なおもイヤホンを返さないわたしに、彼は今度こそ拗ねたように眉をひそめてじっとりとわたしを見つめた。もう少し、もう少しだけ待って。ミヒャエルといつかイヤホンのないわたしたちで話すために、少しずつ勉強してきた言葉の中に、これがあるから。

「Ich mag dich sehr.」

 一生、言うつもりのなかった言葉だ。だからそんなに練習したわけでもないし、知識として知っているだけだった。拙いドイツ語だったけれど、伝わっただろうか。窺うように見つめていれば、彼は驚いたように目を見開いて、それからじわじわと頬に熱が広がっていく。えっ、と驚けば、彼はわたしの手からイヤホンを奪い取って、ぽすりとわたしをベッドに組み敷いた。

「余程寝たくないらしいな」
「……でも確かに、寝たら朝になっちゃうから、そうなのかも」
「あ? ……おい、馬鹿な発言も休み休みにしろ」
「……さっきのドイツ語、間違ってたってこと?」
「間違ってないから言ってんだよ」

 なぜか不機嫌になってしまったミヒャエルが、わたしを押さえつけたままそっとくちびるにキスを落とす。彼からたくさんのキスをもらったけれど、ここは初めてだった。確かめるように彼の手を握れば、彼もまた強く握ってくれて、さらに求めるようにくちづけを深くする。気がつけば雨が止んで、雨雲の隙間から覗いた月の光が、彼の髪をきらきらと瞬かせていた。そうして言葉通り、わたしは夜明け近くまで眠ることなく、彼にたくさん意地悪をされたのだった。


 目が覚めたとき、一番最初に見えたのはミヒャエルの寝顔だった。すやすやと眠る彼の顔はあどけなく、出会ったころのような幼さが滲んでいる。それがなんだか不思議な心地で、思わずそのひとつも欠けたところがない端正な顔にそっと触れると、彼は煩わしそうに小さく眉を寄せた。
 カーテンの隙間から零れる朝焼けが眩しい。それだけ眠っていたということだろう。そっと覗き込むように上体を持ち上げれば、昨晩覆っていた雲はすっかりなくなっていて、澄み渡る青空が広がっている。雨が過ぎ去った世界は、どこもかしこも光っていて、息をのむほど美しかった。

「……なまえ」
「ここにいるよ」
「……寒い」
「はあい」

 戻るようにベッドに潜り込めば、ミヒャエルの腕がわたしを引き寄せて、強く抱きしめられる。冷えた素肌が彼の体温でじんわりとほどけていくような気がした。寝惚けたままの彼が、甘えるようにわたしの髪に鼻をうずめて、また寝息を立てる。彼との未来を想像したとき。そのときはきっと、こんなシーンがたくさんあるのだろう。眩しすぎて目がくらんで、いつか見えなくなっちゃうかも。そんなことを思いながら、わたしはいつか来る約束の未来にそっと胸を弾ませるのだった。今はまだ、夢の途中だから。彼のことを、彼の未来を信じることにしたのだ。







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