夢の途中


 雨上がりの朝は、ほんの少し空気が冷たくて、太陽があたたかかった。濡れた石畳と水たまりに光が反射して、地も空も、なにもかも、瞬くようにきらきらと光っている。昨晩の雨が嘘のように眩しい。思わず目を細めてしまうほど、どこかドラマチックな光景だった。


 久しぶりに見た彼の名前は、メッセージ通知でも着信でもなく、ネットニュースでだった。青い監獄ブルーロックでの日々が終わって早数年。彼は以前と変わらず、いいやそれよりもずっとずっと、目覚しい活躍を見せ夢を描き続けている。遠い海の向こう側で。
 フィールドの中で颯爽と駆け抜ける青を、惹きつけられるように目で追っていた。わたしと同じように、彼はたくさんの人々を虜にしている。彼のサッカーは、まさしく夢を魅せているのだ。
 そんなときだった。わたしのスマートフォンの画面が支配されたのは。たった今久しく見た彼の名前が、再びわたしの目の前に現れたのは。ミヒャエル・カイザー。間違いなく彼からの着信だった。



「えっ。それでこっち来ることにしたの!?」
「したというか、無理やり約束をこじつけられたというか……」
「それでも来る気なんだろ?」
「もちろん旅行としてね?」

 イヤホン越しに聞こえる潔くんの声は、明らかに驚いた様子で、同時に戸惑ったような声色をしていた。無理もないだろう。彼は当時からわたしたちのことを気にかけてくれていたし、心配してくれていたから。最近音沙汰がないことも知っていたからこそ、なおさら驚いているに違いない。

「最近連絡取ってなかったんじゃなかったっけ?」
「取ってなかったよ。そもそもわたしから連絡したことなんて今までもずっとなかったから、向こうから来ない限りなんにも」
「それなのに、よくそれで来る気になれるな」
「だって、断れそうにもないし……」

 一週間ほど前、突然カイザーさんから着信が届いた。およそ数ヶ月ぶりの連絡だった。内容は、「来月迎えに行くから十日ほど休みを取っておけ」というもの。行先はもちろんドイツで、十日ほどと言っていたから、旅行に連れて行ってくれるという意味なのだろう。なんて無茶なことを言ってくれるのだと初めは思ったけれど、一ヶ月前に連絡が来た時点で少しは配慮をしてくれたのだろうかとも思ったわたしは、それなりに彼の我儘さに順応してしまっているのかもしれない。結局数日後には休暇申請も出していたので、間違いないと思う。
 潔くんは悩ましげな声を漏らしてから、「まあでも」と切り替えるように明るげな声を発した。

「こっち来るなら、どっかで会えるといいな」
「うん。まあ、会わせてくれるかはわからないけど……そもそもドイツとは言っていたけど詳細は教えてくれなかったし」
「あと他になんて言われてんの?」
「一ヶ月後に日本まで迎えに来るってことと、旅行の最低限の準備はしておけっていうくらい」
「それだけ?」
「それだけ」
「本当、なんで休みの申請出したの?」

 その問いにうまく答えられずにいると、潔くんは再び「まあなまえが決めたことを否定するつもりはないけどさ」とフォローするようにそう言って、「またなにかあったら連絡してよ。スケジュールとかわかったらさ」と通話を切った。複雑に交じる不安定な気持ちに、脈が早くなるのを感じながら、わたしはスケジュール帳を眺めた。カイザーさんが来る約束の日まで、あと三週間。どんな形であれ、その先の未来はきっと、今とは違ったものになっているだろう。あまり実感はないし、今はまだ想像もつかないけれど、おそらくそれは寂しいことだと思う。少なからずそう思えるような過去と、彼に対しての情はあった。


* * *


 それからきっかり三週間後の午前。カイザーさんは約束通りわたしの家まで迎えに来た。帽子とサングラスの、あまり意味のない変装姿の彼が玄関に寄りかかりながらわたしを待っている。

「さぁて。ちゃんと準備しただろうな?」
「家にまで来るって言うからちゃんとしましたよ。無理やり連れて行かれて、職場とか色々迷惑はかけたくないですし」
「懸命な判断だ」

 久しぶりだね、とか、元気だった? みたいな、二人の空白を埋めるような言葉はひとつもなく、彼はまるで数日前に会ったかのような気軽さと口ぶりで目の前に現れた。確かにそんな会話をわたしたちがするとは到底思えなかったから、よかったと言えばそうなのかもしれないけれど、彼の本心の不透明さに不思議に思うのもまた確かだった。突然連絡をしてきて、一体彼はどういうつもりでわたしを迎えに来たのだろう。実のところドイツに誘われたのは今回が初めてではなかったのだけれど、今まではその場の軽い口約束みたいなもので(そもそもそれですらほぼ一方的なものだった)、こんなふうに実力行使に出るのはこれが初めてだった。彼の性格を考えてみれば、それは想定の範囲内と言えばそうだったので特別驚愕はしなかったけれど、それを行うなら、今よりもきっと最適なタイミングがあったはずなのだ。それがずっと、わたしの中で引っかかっている。

「まさか、荷物それだけか?」
「ええ、まあ……あなたと一緒にしないでください」
「にしても少なすぎやしないか? ……まあいい、必要なものがあれば向こうで買えばいいだけの話だ」

 カイザーさんは隣に置かれた荷物を見て驚いたように目を見張ってから、軽々とわたしから奪ってそれを運んでいった。彼曰く少ないとはいえ、十日ほどと言われたからそれなりに中身は詰まっていると思うのだけれど、それを感じさせないほど簡単に持っていかれてしまった。現役のスポーツ選手であるし、これくらいであれば大したことないのかもしれない。

「ちなみに、何時の飛行機なんですか?」
「二十二時だ」
「……本当にとんぼ返りじゃないですか」
「そうでもしないと逃げられてしまうからな」

 マンションの廊下に差し込む陽光に眩しげに目を細めつつも、彼はサングラスをずらしてわたしを直接見下ろした。不敵な笑みを浮かべる彼は、どこまでも余裕そうで、本心が見えない。追いかけられる理由がわからない。そしてそれほどまで必死になる理由も。
 そうして彼は攫っていくかのように、わたしを連れ出したのだった。







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