暗い夜はあなたの匂いを思い出す



 青々と茂る木の葉の隙間から光が漏れている。風に揺らめく度に、縁側の廊下に映る木漏れ日も揺れ動いた。



 森のすぐ近く、辺りは田んぼが広がる広大な敷地の一角に茅葺き屋根の家が二つ。玄関から入り、土間を抜け、一番奥の縁側に面した少し小さめな座敷にいつもあの子はいた。

「また来たの?」

 部屋の中は随分と簡素で、あの子の私物らしいものが少しと、真ん中に布団が一式。どうやら今日はいつもよりも体の具合が良いようで、敷かれたままの布団に寝そべることなく、縁側に腰掛けていた。

「顔色が良いね」

「そういう貴方は顔色が悪いわね」

 そう言ってあの子は茶目っ気のある笑みを零した。
 今日は随分と天気の良い日で気温も段々と高くなってきている。陽射しは眩しく、寧ろ痛いくらいだ。

「今日はお天道様もご機嫌のようだわ」

 隣に座ることなく、ちょうど陽の光が入らない影になったところに腰を下ろすと、少し離れた前方から瑠璃色の唐草模様が描かれた皿に乗った枇杷が置かれる。

「枇杷葉湯売りの人が珍しく果実の方も持っていてね。あ、お茶は自分でよろしくね」

 毎日のように此処に訪れる僕を、あの子は嫌がる顔もせず迎えてくれる。丁寧に皮が剥かれた枇杷を一口齧れば、控えめな甘さと瑞々しい果汁が口の中に広がった。
 普段ならば後ろにある布団に寝そべったまま、開け放たれた障子から見える景色をただひたすらぼんやりと見つめているが、こうして体の調子が良い時は縁側に腰掛けて普段見えぬ広大な大空をずっとずっと眺めていた。
 何を話す訳でもなく二人で同じ方を向いて、たまに聞かれる外のことを簡単に答えるだけ。それでも、流れる穏やかな空気が心地よくて僕は何度も此処に来てしまうのだ。

「貴方のお陰で随分と平和になったわ」

「油断していると、食われてしまうよ」

「もしそうなっても貴方が何とかしてくれるのでしょう?それに……」

 言葉が紡がれることは無かったが、あの子が続けようとした言葉は何となく想像がついた。

「僕が食べてあげようか」

 前を向いたままあの子は静かに首を横に振った。

「やめておきなさい」

 その後、あの子は何も言わなくなってしまった。
 縁側から見える景色は広大な大空と、庭に生えている大きな桜の木のみ。家を取り囲むように柵があるのであの子はこの家の周りにある大きな田んぼも、家の後ろにそびえ立つ大きな山とそれに続く森も、もう近頃は殆ど見ていないのだ。
 優しい風が吹くと、縁側に映る木漏れ日がゆらゆらと揺らめいた。隣に行きたいのに、僕のこの体では隣に座ることも出来ない。いつもであれば布団に寝そべるあの子の手を取ることも出来るのに、今日はそれも叶わない。体調が優れていることは良い事だ。それなのに、隣に来て欲しいだなんて思ってしまうのはあの子にとって失礼だろうか。



 同じ敷地内に住むあの子の親戚は、朝と晩にあの子のいる隣の家に訪れて、飯を作り、あの子から頼まれたものを持ってくる。夜になれば気軽に会いに行けるのだが、生憎あの子は眠るのが随分と早いため、いつもは昼頃向かうことが多かった。
 あの子はとっくに夕餉を食べ終えているだろう。辺りは既に暗闇に包まれていて、見上げれば星空が広がっている。珍しく予定があり、昼間行きそびれてしまったが、もうあの子は眠ってしまっているだろうか。
 普段であれば玄関から入るが、暗闇に乗じて音も立てずに庭に降り立つ。雨戸も閉めずに障子も少しだけ開け放たれていることに呆れた。もう少し警戒心というものを持っていて欲しいものだと思いながら家に近付けば、あの子が苦しげに漏らした声が聞こえ、慌てて雨戸と障子を開けた。

「あらら……、来ちゃったの……」

「なに、これ」

 困ったような表情をして、掠れた声であの子は呟いた。
 目の前に広がっていたのは赤色。寝そべったまま横を向いて、咳き込む度にきっと血を吐いたのだろう。敷布団にも、畳にも微かに血が飛び散っていた。

「何で言わなかった」

 声が震えてしまったが、そんなことはどうでも良かった。目の前にいるあの子は苦しい筈なのに、僕が訪れたらいつもの笑みを浮かべていて、それが更に僕を苛つかせる。
 ゆっくりと腕を伸ばされたので、膝を付いてあの子の手を取った。こんな時なのに手に付いた血の匂いに惹かれてしまうのだから本当にどうしようも無い。齧り付きたい気持ちを抑え、あの子の手を強く握る。

「いつか二人並んで……太陽の下を、歩けたらいいね」

 まるで最期の言葉のようだった。ようだった、ではなく実際にそうなのだろう。心臓の音は段々と小さくなってきて、息も薄くなってきている。

「静かで、平和な……ところで……特別なものが、なくてもいいの」

 返事を待つことなくあの子は言葉を続けた。

「約束は、守るわ……十八になったら……私の血をあげる」

 生まれ変わったらね。
 そう言うと、段々とあの子の腕から力が抜けていくのが分かった。
 人間はとても弱い。捕食される動物でしか無い筈なのにどうしてこんなにも惹かれるのか。だがそれが血のせいだけではないことを何となく気付き始めている。けれど、それを認めることがどうしても出来なかった。

「さっさと来ないと咬み殺すよ」

 どうやら言葉は届いたようで、あの子は薄らと笑みを浮かべた。
 梅雨が始まろうとしていた六月の、生暖かい空気が漂う夜だった。あの子は十七という若さで眠りについた。


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