ねむりの浸水
じりじりと、肌を刺すような強い陽射しが降り注いでいる。夏だ。
みょうじなまえ。二年B組。運動が苦手。勉強は苦手ではない。おっちょこちょいと言えば聞こえはいいが、忘れっぽく、そして少々鈍臭い。物はよく無くしてしまうし、人よりも怪我が多かった。
今日は、ここ最近の中では一番と言っても過言ではないほどに暑い。先日プール開きをしてからはずっと涼しい日が続いていたが、今日はプール日和と言える日であろう。
体育の時間は女子と男子と、分かれて授業を行う。クラスはAからCまでの三組しかないので、曜日によって共に授業を受けるクラスが違う。今日はA組との合同体育であった。
レーンごとに並んで、先生の説明を受ける。その間にも肌を焦がすような陽はずっと降り注いでいて、正直、痛いくらいであった。
先生の説明もそこそこに、私は眩しい水に目を向けた。肌を焦がしてしまうような強い陽射しは、水が張られたプールにも同様に降り注いでいる。薄らと感じる風が流れる度に、水光がゆらゆらと揺れた。
運動は苦手だ。水泳も、然り。
いつの間にか先生の説明は終了しており、一人目、二人目と順にプールへと入っていく。泳げたら気持ちがいいのだろうなとも思うが、泳ぐことが苦手な私からしてみれば苦しいだけだ。
「大丈夫?」
隣から柔らかい声が聞こえた。意識をゆっくりとそちらに向けてみれば、隣のレーンに並んでいた子がどうやら声を掛けたようだった。
「具合、悪そうに見えたけど」
「ううん、大丈夫」
緩く首を左右に振れば、その子は「無理しないでね」と言った。彼女のことは知っている。二年A組の笹川京子さん。可愛いと、男子の中では有名らしい。確かに可愛らしい雰囲気を纏っていて、それでいて今まで一度も話したことがない私にも声を掛けるところをみると、とても周りに気を配れる優しい子なのだと感じた。
前に立つクラスメイトが冷たそうな水の中へと入っていく。プールサイドから水面を見つめていれば、陽の光を反射してきらりと光る水の奥でゆらゆらと影が揺れた。ピッ、と短く笛の音が鳴ったような気がする。しかし、私は何故だか揺らめく水面から目を離せずにいた。そしてそれは次第に私を誘うようにぐるぐると渦巻いていく。
──どぷん、という音がして、そのあとすぐに泡が弾けるような音が聞こえた。目の前に広がる景色が青でいっぱいになると、やっと私は意識を取り戻したように息が出来ないことに気付いた。私は今、水の中にいる。プールの中に落ちたのだ。
足が届く距離の、それほど深くないところであったが、私は体を思うように動かすことが出来ずに緊張が走った。このままでは、溺れてしまう。そう気付いた時には少し遅かったようで、体から最後の空気が零れていくのが見えた。
美しい青から一変して、体を取り巻くのは恐怖と絶望。少々鈍臭いは、見栄を張ったかもしれないなと、頭の片隅で思った。
◇
優しい手のひらがそっとわたしの髪を梳いた。
それを懐かしいと感じたのは一体何故だろう。彼は一度もわたしの髪を撫でたことなど無かった筈なのに。そう思った瞬間に、ああこれは夢なのだなと理解した。
随分と懐かしい夢だ。
彼はわたしのことを憎んでいるだろうか。
◇
「あれ……」
衣擦れの音がしたあとに、小さくみょうじの声が聞こえた。
数歩近付いて、ベッドを取り囲むように仕切られた幕を軽快に横へと揺らす。彼女は驚いたように目を見開いて、僕を見上げた。
「ひばり、せんぱい?」
何も言わずに見下ろす僕を暫く見つめたあとに、みょうじは三度ほど目を瞬かせてから「私、溺れて……」と独り言のように呟いた。状況を分かっていないのだろう。
「熱中症、だってさ」
「熱中症……」
「プールサイドで倒れそうになってそのまま水の中に落ちたって聞いたけど」
僕の言葉を聞いてから、みょうじは暫く黙り込んだ。まあ、考えていることは何となく分かる。恐らく彼女は自分が熱中症で倒れたのだとは思っていない。何故なら彼女は本当に熱中症で倒れた訳では無いからだ。
「信じていないだろう」
「え、いや……そんなことは」
「いいよ、話してみなよ」
何故君はプールに落ちたんだい?
出来る限り優しく声を掛けたつもりだ。そうでもしなければみょうじは言わないだろうと思ったからだ。
恐らく彼女は自分の身に降りかかってきた不可思議な出来事を、普通という枠の中で処理をしている。人間というものはそうやって、他人と外れないように物事を無意識に決めつけてしまうのだ。それは良いことでもあるが、同時に悪いことでもあると僕は思う。
彼女は数瞬悩ましげな表情を見せると、一度口を開いてからゆっくりと閉じて、そして再び口を開いた。
「水面が、きらきらと光っていて」
「うん」
「綺麗だなと、思ったんです。それで、ずっと見ていたんですけど、何故だかそれが怖くなってきて、目が離せなくなって、そしたら急に意識が」
「うん」
「体も動かなくて」
「怖かったかい?」
「そう、ですね……怖かったです」
ぎゅう、とみょうじは白い掛け布団を強く握る。僕はベッドの近くに置いてあった椅子に腰掛けた。
「死ななくて良かったね」
「雲雀先輩は」
「……なに」
「今の聞いて、どう思いましたか?」
そう言ったみょうじの瞳の奥は少しだけ揺れていた。不安、なのだろう。今まで普通の枠の中で処理していたことが、処理しきれなくなってきている。そうして自分の中で答えを見つけることが困難になると、人は他人に答えを導いてもらおうとする。抽象的な質問を問うて。
「君の話だけを聞くと、まるで水に誘われたように聞こえるね」
馬鹿にされたのだと勘違いをしたのだろう。みょうじは少しだけ眉を寄せて、睨むように僕を見つめた。そんな表情を向けるだなんていい度胸をしているなと内心思いながら、僕は表情を変えずに「素直に思ったことを告げただけだよ」と言った。
彼女はやがて難しそうな表情を浮かべると「でも、そうなのかもしれないです」と小さい声で呟いた。しかし、声音からは納得していない様子がひしひしと感じられる。そう簡単に普通でない出来事を納得することなど出来ないといった様子であった。
呟いた声がやけに弱々しく聞こえたからだろうか。言うつもりは無かったが、気が付いたら僕の口から言葉が溢れていた。
「もうあのプールでは水に誘われることなんてないよ」
「どうしてそう言えるんですか?」
「逆に僕の言うことが信じられないかい?」
「質問を質問で返すのは、ずるいです……」
口をへの時に曲げた表情は実際の年齢よりも幼く感じられた。思わずふっと笑いを漏らすと、みょうじは少しだけ目を見開いてから視線を逸らす。やはり彼女の表情は見ていて飽きることがない。
ちょうどよくチャイムが鳴る。これは一番最後の授業が終わる鐘の音であった。その音を聞いてから彼女はハッとしたように顔を上げると「そういえば」ときょろきょろと辺りを見渡した。
「今、何時ですか」
「ちょうど今放課後になったところだよ」
「え……」
「一人で帰れるだろう?」
「帰れますけど……」
困惑した様子でみょうじは「そういえば私の服は誰が」と呟いた。彼女がいるベッドを挟んだ向かい側には、僕が座る椅子と同じものが置かれている。その上には鞄と、水着の入った別の鞄が。今彼女が着ているのは並盛中学校の制服である。
つまり誰かが彼女の水着を脱がせ、制服に着替えさせたということになる。着替えさせたのは女性の養護教諭なのだが、ちょっとした悪戯心が芽生えた僕は椅子から立ち上がり、ゆっくりと口角を上げた。
「さあ?誰だと思う?」
「えっ……?」
その時あげた声と、大きく目を見開いた抜けた表情は後から何度思い出しても笑ってしまいそうなほど珍しく、そして好ましい表情であった。