あの日置いてきた春に



「へー、結局自分でやってんだ?」

 灰谷兄の声はどうも癇に障って気分が悪くなる。弟のほうも大して変わりはしないのだが、あいつはわざわざ兄のように余計なことを言ってこないぶんやりとりは幾分かスムーズだ。その上こんなふうに茶々を入れてくることもないし、気分屋でもない。

 ──殺すのは構わねぇが、後始末はしろよ。

 マイキーにこう言われてしまえばやらざるを得ない。ここにいる奴らがどう思っているかは知らないが、そういう仕事ができないわけではないのだ。むしろ単独で行うという前提であれば得意なほうだと言える。実際そういう場面のほうが過去生きてきたなかで多かったからだ。
 灰谷の言葉を無視してジャケットの下にホルスターを装着する。心做しかいつもよりもその重みが鬱陶しく思えた。近ごろずっと気分が悪い気がする。元より気分が晴れているときなど服薬中以外ほとんどないのだが。

「鶴蝶からはただの雇われだったって聞いたけど?」

 取り繕う暇もなく、灰谷を睨みつけていた。そんなオレにあいつは「おー、こわ」とへらへらした様子でソファにもたれかかる。どうやら向こうは随分と機嫌がいいらしい。

「なにが言いてぇんだよ」
「そこまでわかっててお前はどこまで行くつもりなんだって話よ」
「はぁ? 逐一報告しろってか? キショすぎだろ」

 もちろん、一々どこに行ってなにをするかまで報告をする義務はない。メンヘラ女かよ、と思ったところで、余計なことまで思い出してさらに気分が悪くなった。あいつといると本当にろくなことがない。

「面白いことがあったら報告しろよ〜」

 返事をすることなく扉を閉めた。どこまで把握しているのかは知らないが、面倒な奴に目をつけられたのは間違いなかった。とはいえ、まあ別にいいだろう。どんな形であれ今日で終わる話だ。それでも嫌な予感はなにをしていても拭えないのでオレは妙な焦りに襲われていた。焦りってなんだ。自問自答する。今のオレに必要なのは自由に動き回れるこの体とマイキーだけで十分で、今さら焦る必要も、かき乱される筋合いだってどこにもないはずなのに。いつだってオレのやるべきことはただひとつだった。そのために、余計なものは全て置いてきたのだから。

* * *


 昔から嫌な予感が的中するほうだった。そういう場所にはそういう匂いが流れているものだからだ。しかしそれを運が悪いなどと言うつもりもないし、予感がするのなら予防策を考えればいいだけの話なので悲観してもいなかった。
 けれど今回ばかりは外れていて欲しい。珍しく、オレは願った。

「動いたら殺す」

 そう言いながら、内心舌打ちをしたくなった。昔から嫌な予感は当たる。それが今回もそうだっただけだというのに、確信した瞬間、どうしようもない怒りが湧いた。
 こめかみに銃口が宛てがわれているにもかかわらず、そいつは妙に冷静なまま視線だけをこちらに向けた。そして微かに視線が交わったところで動きを止める。その瞬間、オレの時間もほんの一瞬だけ止まったような気がした。いや止まったというよりも、遡ったと言ったほうが正しかったかもしれない。何年も昔の、ほろ苦くて、けれども安心できる温もりのあった春に。

「春千夜くん?」

 記憶に残っていた声とほとんど変わりなかったことにもう一度舌打ちをしたくなった。耳障りのない穏やかなソプラノ。上擦ったように聞こえたけれど、おそらく恐れからではないだろう。
 オレは目の前の女を知っている。過去のことなどほとんど覚えちゃいないが(覚えていても必要ないからだ)、この女のことはそれなりに覚えていた。優等生ぶったふりをして本当は全然そんなキャラじゃないということも。笑いのツボがおかしくて意味不明なところで笑い出すところも。怪我ばかりするオレに困ったような顔をしながら手当てをしてきたことも。
 みょうじなまえ。もちろん名前だって。

「誰だお前」

 冷めた夜道にオレの声が響いて、それから静まり返った。暗がりのせいで女の表情はよく見えなかったけれど、ほとんど変わらなかったように思えた。
 やや間をあけて女が口を開く。

「あの人が帰って来なくなったのは貴方のせい?」

 あの人とは、このあいだの男のことだろう。あの男をうっかり殺してから、オレはマイキーに言われて渋々その周辺を洗った。所属先、関係者、血縁関係、配偶者。そうして、目の前の女にたどり着いた。

「べらべらとうるせぇ口だな。喋っていいだなんて一言も言ってねぇぞ」
「喋らなくたって殺されるんでしょう? それなら聞いておいてもいいかと思ったんだけど……」

 死を恐怖しないのか。それとも。
 浮かんですぐに嘲笑が零れた。あの日から何年経ったと思っている。あのころとは違う。それはオレだけでなく、この女もまたそうであってもおかしくないわけで。この状況も、女の言葉もなにもかも、どうしようもなく苛ついた。

「知ってどうする? 仇でも打つか?」

 どうしてこの口は勝手に動くのだろう。いつもであればこんな面倒なやりとりなどせず、トリガーを引くというのに。
 苛つくオレとは裏腹に、女はそっと口角を上げた。

「そうね、そうしようかな」

 気がついたときには先ほどよりも強く銃口を押しつけていた。女の表情は変わらない。それどころか穏やかな顔つきのままそっと目を伏せた。綺麗な曲線を描いた睫毛と、瞼に乗ったアイシャドウのラメが目に入る。建物のあいだから差し込んだ月光のせいか、はたまたオレの脳みそがイカれたのか。そのシーンがまるで慈愛に満ちたものに見えた。うつくしくて、思わず見蕩れたのだ。
 じりじりと胸の端から焦げていく感覚に襲われる。

「そうしたら殺さざるを得ないものね」
「まるで殺されたいみたいな言い方だな」

 銃口を突きつけられたまま、女は首を捻ってオレとしっかりと視線を交わらせた。けれどその瞳は存外弱々しく、情けなくて、どこか安堵した様子にも見えた。

「……うん」

 怒りでおかしくなってしまいそうだったのに、オレは銃口を下ろしていた。いいやむしろ怒りが頂点に達したからこそ下ろしていた。頭のなかは痛いくらいにぐちゃぐちゃになっているのに、心は随分と冷えきっていた。

「死んで楽になろうとしてる奴を殺してやる気はさらさらねーんだわ」

 オレに殺されることを受け入れるな。
 救われたような顔をするな。
 なんで、なんでお前がここにいるんだ。
 こんな状況で再会するだなんて、誰が思っただろう。掴みかかって、叫んで、問いただしたい気持ちでいっぱいだった。それでもオレの口から出た声はどこまでも冷めきっていて、内心自嘲する。同時に安心もしたけれど。

「代わりにお前以外を殺してやろうか。家族、友人……色々いるだろ?」
「それは……やめてください……お願いします」
「じゃあ大人しく着いてこい」

 そう言うと、女はようやく動揺したように目を潤ませ、情けなく頷いた。思えばこの女の怯えたような表情を見るのはこれが初めてだった。昔はそれを望んでいて、けれども一度も叶わず諦めたというのに。
 そうだ。そもそもなにもかもが間違いだったのだ。

 最後の日からおよそ八年後の秋。寂れたビルがひしめき合う路地裏での出来事だった。




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