美しい死の瞬間



 命が絶える瞬間を、もう何度も見てきた。両手で数え切れないほどだ。人は呆気なく死ぬ。それはもうずっと昔から知っていたことだったけれど、オレには死んで欲しくない人間が一人だけいる。生涯なにがあっても変わらない。もはやそのために生きていると言っても過言ではなかった。
 一度目のオレに誓ったのだから。
 それは間違いなかったはずだった。


 息絶えた人間にオレがまず思うこと。汚ぇ。大抵殺す相手はクソみたいな野郎ばかりだが、それがたとえどれだけ整った容姿相手であろうともオレはそう思うだろう。個体が生命活動を行わなくなった瞬間、それは朽ちていくばかりで腐敗もするし、なにより数十キログラムにも及ぶゴミになる。まあクソみたいな野郎は生きていてもゴミなのだが、動かなくなればさらに最悪だ。
 よくもまあこんなにも血が溢れ出るものだとも思う。人間の血液量は一キログラム当たり大体八十ミリリットルらしい。つい先ほど目の前で死んだ女はおそらく四十キログラムくらいだろうから、三キログラムと少しの血が巡っていて、これからどんどんと傷口から溢れていくことだろう。
 別にこの女に対して綺麗だとか可愛いだとか、特別な感情はなにひとつ持ち合わせていないが、やはりどんな人間であっても汚いと思うのには違いないようだった。そして同時に気持ち悪さが襲ってくる。汚物処理をしているのと同じ感覚だ。オレはそこまで狂っちゃいないので、人を殺すことに愉悦を抱いたりはしない。本音を言うならやりたくもない(誰だって汚物処理をしたいとは思わないだろう)。ただそこにゴキブリがいるのなら己の手で殺して、その様子をこの目で確認しないと気が済まないといった感覚と同じようなものだ。

 ──なまえを殺したら、同じことを思うのだろうか。

 薬が回ってきている感覚がする。内服してからおよそ三十分が経過していた。自分の内側で脈がどくどくと大きく音を立て始め、理由もなく愉快な気分になっていく。こういう場面で使用すると、気持ち悪さが軽減されていいのだ。そのぶん思考回路もめちゃくちゃになるが。なまえのことが頭に浮かんだのもそういうことだろう。


 薬を服用したあとの記憶はいつも朧気だ。だから気がついたら家のなかがめちゃくちゃになっていたりする。良い部分と悪い部分を天秤にかけたらどう考えても悪い部分のほうが大きいのに、止められないということはおそらくそういうことだろう。今さら真っ当に生きるつもりもないので問題はない。
 ただ、使用後の症状だけは最悪すぎるけれど。
 薬を飲んで痛快な気分になってから、オレはいつの間にか家に戻って眠っていたらしい。スマートフォンを確認すれば鶴蝶からメッセージが届いていたので、仕事自体は問題なく済んだようだ。全身くまなく気怠い。なにもしたくない。酷いときは妙な焦りと緊張感に襲われ、なにもしたくないはずなのになにかをしていないと不安で部屋中うろついていたりもするのだが、どうやら今回は平気らしい。それどころか部屋を荒らした形跡もなく、しっかりとベッドの上で眠り、現在午後の三時だ。
 なにかがおかしいと頭のなかで小さく警報が鳴り続けているが、それをまともに考えられるほどまだ冷静でもなかった。
 そうしてオレはこの家にいるのが自分一人ではないことを思い出した。瞬間、遠くで小さな影が動く。

「あ……」

 目が合った直後、なまえはぴたりと足を止めて視線をうろつかせた。あの日、みょうじなまえという人物が本当になまえで、殺すべき相手なのかを確認しに行った日から、こいつはオレの家で最低限の生活をしている。家族や友人を人質にして、だ。
 なまえはあの日以降、どこかよそよそしい態度でオレと接し続けている。とはいえこの家に毎日きちんと帰っているわけでもないので、接する機会自体それほど多くはないのだが。ただ今日は一段とぎこちなく、視線も合わなければ近寄りすらしなかった。
 けれどすぐに納得した。薬を飲んで今現在ここにいるということは、帰ってきてからの有様を全て知っているわけで。破損はほとんどないので今までと比べれば大したことなかっただろうが、あいつからしてみれば恐ろしかったのかもしれない(実際、梵天の息がかかった店の女からそう言われたことがある)。怒りも悲しみもなく、ただ淡々とそのことを理解できたのは、きっと薬を服用して効果が減退した直後だったからだろう。それよりも喉が渇いて仕方がなかった。

「……水」

 零れた声は存外かさついていた。そのせいか、はたまたオレが突然声を上げたからか、なまえはびくりと体を揺らして、それから慌てて踵を返していった。出会ったときはあんなにも動じなかったというのに、今のこの状況はなんだ。後ろ姿にようやく苛立ちが襲ってくる。感情の起伏がおかしい。あいつを見ているときはより異常だ。
 チッと舌打ちが零れる。すると再び遠くから影が動いて、扉の隙間からあいつが顔を覗かせた。よく見ればその手には大事そうにミネラルウォーターが抱えられている。

「これ、飲む……?」

 おそるおそる差し出されたそれを受け取って、キャップを開けて流し込む。干からびた地面のように際限なく水分を欲する体に、もはや水浴びでもしたくなるほどだ。妙に体も痛いし、汗をかいたのか皮膚の表面がどこか居心地悪い。

「どこ行くの?」
「風呂」
「お湯張る……?」
「いらねぇ」

 先ほどまで怯えていたくせに、お節介なところは変わっていないのか。こいつのことがよくわからない。まあ一番わからないのはオレ自身だが。このあいだからオレはどうかしている。そもそもなまえをここに連れてくる必要などどこにもなかったのだ。人を殺すことに真っ当な理由など必要ない。殺すこと自体が真っ当ではないからだ。オレはあの日、あの場で、どんな理由があろうともなまえを殺すべきだったのだ。それ以外の道はなかった。ほかの選択肢など考えてもいなかった。

 本当に?

 幻聴が聞こえてくる。オレを責め立てるような声だ。どうして殺さなかったのか。どうして連れてきたのか。どうして。どうして。

 どうしてあの日置いていったのか。

 ドン! とノイズをかき消すように壁を殴りつける。
 捨て去ったはずの過去に、今さらかき乱される必要だってないのだ。そんなことはわかっている。それでも全ての言動に正しい理由つけるのは難しくて……いや難しいなどと取り繕うのも止そう。本当は、理由をつけたくないのだ。つけてしまえば、過去の自分を、別の未来を、裏切ることになるからだ。
 わかっている。自分があの日、どうすればよかっただなんて。正解はわかっていたのだ。それでもそうできなかった理由が本当はあって、それを上手く結論づけることも、正しい言葉に導くことも、裏切ることもできなかったのだ。
 そんな単純な相手じゃなかった。
 捨てきれなかったことに苛立ちすら感じるほど。
 なまえが死ぬときはきっと、オレの手のなかだ。むしろそうでなくちゃ困る。ここまで来てしまったのたのだから。
 だからこそ誰の目にも触れさせないように、手の届く場所に置いて、そのときが来るのを、あいつがいつか迎える死の瞬間をじっと待つのだ。




- ナノ -