青の深いところ、夜の深いところ



 冴くんが日本にいる間、凛くんとは一度も会わなかった。というよりも、会えなかったのほうが正しいだろうか。連絡をしても返ってこず、いつもなら家の前で偶然会ったりするのにそれもなかったのだ。一度冴くんに聞いたときも顔を合わせていないと言っていたので、もしかしたらできるだけどこかに出かけていたか、部屋にこもっていたのかもしれない。
 それは本当に偶然だった。
 放課後、地元の駅から家へと帰る途中、見慣れた後ろ姿を見つけた。すらりと高い背、さらさらな黒髪、いつも背負ってるリュックサック。間違いない、凛くんだ。わたしは思わず駆け出していた。

「凛くん!」

 手を取ると、彼は勢いよく振り返って目を見開いた。いつもより覇気がない。けれどもすぐにわたしを睨みつけると、激しく手を振りほどいて距離を取った。照れ隠しで冷たい態度を取られたことはあったけれど、こんなにもあからさまに拒絶されたのは初めてのことだった。

「気安く触ってんじゃねぇよ」

 ぎろりと鋭い目。怖くなって、思わず体が固まった。怒り、憎しみ、悲しみ。さまざまな感情がこもった視線が、わたしを射抜いている。胸が張り裂けそうなくらい、苦しい。

「ごめん、凛くん、あの」
「そうやって近づいて、アイツにでもチクるつもりかよ」
「な、なに言って」
「……とぼけんなよ。知ってたんだろ、全部。それで俺が今までやってきたこと、腹んなかで全部意味がないって、無駄だって思ってたんだろ!?」

 まるで大きななにかが破裂したような衝撃だった。わたしと彼の間にある空気が、びりびりと震えている。怖いのと悲しいのとがごちゃまぜになって、じわりと視界が滲んだ。冴くんは、一体彼になんて言ったのだろう。二人はどんな会話をしたのだろう。わたしが冴くんと過ごしている間、彼はずっとこんな感情を抱いたままだったのかと思うと、申し訳なくて仕方がなかった。
 凛くんが離れていく。どうしよう。怖くて体が動かない。それでも今、彼を一人にしちゃいけないような気がした。きっと彼は、向こうでの冴くんのことや二人になにがあったのかを、わたしが知っていると思っている。

「って……待って、凛!」

 ほんの少しだけ彼の足が止まる。けれども凛くんは振り返ることなく、そのまま糸師家の玄関をくぐった。ばたん、と扉が閉まる音がして、思わずその場にしゃがみこむ。きっと凛くんは冴くんに会っていたことを知っている。今のわたしが彼になにか言ったとして、意味は、あるのだろうか。ちゃんと伝わるのだろうか。悲しくて、寂しくて、胸の真ん中にぽっかりと穴が空いたような心地だ。

◇ ◇ ◇


 冴くん凛くんと出会ったのは、それこそ十年以上前の話だ。大きな運動広場で遊んでいたとき、凛くんが蹴ったボールがわたしにぶつかったのだ。そのころ彼はまだ本格的にサッカーをしておらず、冴くんのボールを追いかけていたような小さな男の子だった。

「あいた」
「わり、平気か?」
「あ、うん……だいじょーぶ」

 先に声をかけてきたのは冴くんだった。明るい髪に海のような瞳。爽やかで、クールな印象の男の子だと思った。
 ころころと転がったボールを拾い渡すと、彼は「さんきゅ」と言ってサッカーボールを受け取った。するとすぐに奥から走ってやってきた凛くんが、彼の背に隠れたままわたしを見つめた。癖のないつやつやとした黒髪と、同じように海のような瞳。兄弟なのだろうとすぐにわかった。

「凛、ちゃんとごめんなさいしろ」
「……ごめんなさい」
「ううん。平気だよ」

 冴くんの言うことを素直に聞いて、言われた通りに謝る姿はとても可愛らしい印象だった。わたしがそう言うと、凛くんはほっとしたような顔をして冴くんを見上げた。すると褒めるように、ぽん、と冴くんの手が凛くんの頭の上に乗る。ふにゃ、と凛くんの顔が緩んで、まなざしがきらきらと輝いた。

「ボール!」
「ほらよ」

 そう言って冴くんがボールを蹴る。するとすぐさま凛くんがそれを追いかけて、運動場のほうへと向かっていった。続いて冴くんもあと追う。兄弟でサッカー。仲がいいんだなあ。そんなことを思いながら、わたしは二人の様子を眺めていた。わたしはひとりっ子なので、二人のように兄弟や姉妹で遊ぶことが羨ましく思えたのだ。
 凛くんが冴くんのほうへパスをする。そしてまた冴くんから凛くんのほうへ。このころの凛くんのパスはまだ拙く、ころころと別の方向へ転がってしまうときもあったけれど、冴くんは必ずそれを受け止めて凛くんのほうへパスを渡した。自由自在。まるで息を吹き込まれたかのように走るボールは、当時ほとんどボール遊びをしたことがなかったわたしにとって鮮明に映った。

「ねえねえ。二人は、よくサッカーをしているの?」

 冴くんと凛くんの目が、きょとん、とまあるくなった。どうしたらあんなふうにできるの? すごいね、生きてるみたい、楽しそう。そう言うと、先に表情を崩したのは凛くんだった。

「そうだよ! 兄ちゃんはすごい」
「うんうんすごかった! でも君も……えっと、お名前なんていうの?」
「りん」
「りんくんも、すごかったよ!」

 凛くんは誇らしそうな顔を見せた。お兄ちゃんが大好きなんだろうとすぐにわかった。するとボールを抱えた冴くんがわたしたちの元へやってきて、とん、と地面にそれを置いた。

「やってみるか?」

 わたしは嬉しかった反面、少し戸惑った。

「え? でも、わたしやったことないし、上手くできるかわかんない」
「誰だって最初はそうだろ。蹴ってみろよ。どこでもいいから」

 どうしようと思って凛くんを見ると、彼は「兄ちゃんはどんなボールでも取ってくれる」ときらきらとしたまなざしでそう言った。大丈夫、かな。同じように反対側に視線を向けると、今度は冴くんが「いつでもいいぞ」とわたしを見下ろしている。わたしは思い切って、えいっとボールを蹴ってみた。
 ころころと前方へ転がっていくサッカーボール。するとそれを追うように冴くんが走っていって、しっかりと受け止めたのちわたしにパスを返した。さっき見たときと同じく、吸い寄せられるように戻ってくるボール。それはきちんとわたしの元まで帰ってきた。

「……すごい」
「ボール! もっかい蹴って!」
「え! も、もう一回? こう?」

 凛くんに促されるままボールを蹴る。するとまた冴くんはそれを受け止めて、綺麗な動作でボールを返した。凛くんが言った通り、どんなボールでも絶対に彼は受け止めた。その姿は素直にかっこよく、やりとりは純粋に楽しかった。そうしてそのあとは凛くんも混ざり、夕方ごろまで一緒にボール遊びをした。

「お家はどこらへん?」
「ここから少し歩いた、あっちの駄菓子屋をまっすぐ行ったほう」
「あ、そうしたらわたしのお家と近いかも。サッカーをするのはいつもこの辺?」
「ここか、あとは別の運動場とか」

 冴くんは海の方面を指さした。すると隣にいた凛くんが「あと兄ちゃんとこも」と付け足す。

「お兄ちゃんのとこ?」
「クラブチームの練習場。普段は練習があるから、休みの日だけここに来てる」
「そうなんだ」

  面倒見がいいのだろう。冴くんは凛くんの服についた汚れを払って、ボールを拾い上げた。すると夕方のチャイムが鳴って、子供が少しずつ減っていく。

「ねえ。また、一緒に遊んでもいいかな」

 よっつの目が、再びきょとんとまあるくなった。けれどもそれはすぐにゆるい曲線を描いて、二人は頷いた。
 この日が、一番最初の日だった。わたしたちが出会った日。そしてサッカーボールに触れた日。結局そのあと、わたしたちは途中まで一緒に帰り、次に会う約束をして海の近くで分かれたのだった。

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