いとしさで世界が傾ぎそうなほど



 冴くんが帰国してからしばらく。スペインに戻る日が近づいていた。当日は平日で冴くんのご両親は見送りができないらしく(そもそもいらないと断ったらしい)、マネージャーさんと合流してから戻るのだそうだ。

「時間何時だっけ?」
「十四時。昼ごろには空港に向かう」

 そう言って冴くんは、フライト時刻が記載されたスマートフォンをわたしに向けた。東京羽田、十四時十分。しかしそれよりも、その下に書いてある座席クラスと合計金額にわたしは絶句した。ファ、ファーストクラス……? 確かに彼にはすでにたくさんのスポンサーがついていて、お金に困らないほど稼いではいるだろうが、想像以上の金額に意識が遠のきそうになった。どう考えてもゼロの数がおかしい。

「聞いてんのか?」
「スペインの空まで行っちゃうところだった」
「は?」
「……なんでもない」

 平日の夕方の帰路。わたしは学校帰り、冴くんはトレーニング後と、彼が帰国してからわたしたちはときどきこんなふうに、待ち合わせをして家まで一緒に帰っていた。冬は日が沈むのが早く、すでに辺りは薄暗い。

「見送り、行ってもいい?」
「学校だろ?」
「その日は午前中に授業が終わるの」

 こうして並んで帰ると、なんだか懐かしい気持ちになってくる。といってもあのころは小学生であったし、彼の隣にはいつも凛くんがいたけれど。
 冴くんが海外に行かず日本に残っていたら、こんなふうに放課後一緒に帰ることもあったのだろうか。同じ高校。同じ帰り道。想像すると、なんだか擽ったくなる。
 帰国予定の日は午前授業の日だった。そういう日は大抵、放課後に生徒会の集まりがあるのだけれど、用事があれば帰っていいことになっている。というよりほとんど毎日のように集まっているので、その日も同じように集まるだろうという感じだ。

「終わったら連絡しろ」
「うん、ありがとう。ちなみにその日、他に誰か見送りに来たりする?」
「そもそもお前以外に誰とも連絡取ってねーよ。わざわざ会うほどでもねぇし」

 ……そうなんだ。確かにむかしから、彼は友達と遊ぶことよりもサッカーのほうが大事だったけれど。とはいえ彼にだって友達はいたはずで、それなりに仲のいい人もいるのだと思っていた。少なからず小学生のころの同級生やクラブチームの仲間など、誰かと一緒にいるところをわたしは何度も見かけていたため、少し意外だった。
 けれどもよく考えてみれば、彼の帰国後、わたしたちはなんだかんだ毎日のように連絡を取り合い、こうして週の半分以上は会っていたので、彼の言葉は本当だろう。そう思うとなんだか少し、いいやすごく、嬉しくてたまらなかった。

◇ ◇ ◇


 それほど急がなくても間に合うはずなのに、最後の授業を終えてすぐ、わたしは空港に向かっていた。わたしが早く着くことで、冴くんと一緒にいられる時間が一秒でも長くなるのならと思えば、自然と足が動いていた。


 冴くんはロビーにいるらしい。言われた場所まで向かうと、柱の前で腕を組む彼を見つけた。今日はサングラスをしている。さすがに空港では変装をするらしい。それなりに背が高いぶんオーラみたいなものもあって、あんまり意味がないような気もするけれど。するとすぐに目が合って、まっすぐとわたしの元にやってくる。

「迷子になってんじゃねぇかと思ってた」

 そう言って冴くんはわたしの隣に立つと、近くのベンチに座った。嬉しいような、嬉しくないような。心配してくれていたんだろうけれど、ちょっと馬鹿にされているような気もする。それが顔に出ていたのだろう。彼は人差し指の背で、わたしの眉間をぐりぐりと押した。きっと機嫌を直せという意味だ。ちら、と隣を見上げると、サングラスを外した冴くんと目が合う。取っちゃったら意味ないのに。

「戻ったらすぐトレーニング?」
「ある程度スケジュールには余裕がある」

 とはいえ帰国してからも続けていたくらいだ。こう言っているけれど、多分わたしの思っている以上に早く、練習やトレーニングに戻るだろう。

「冴くんのことは冴くんが一番知っているだろうけど……あんまり無理しないでね」

 彼が帰国してから一番言いたかったことを、今ようやく言えたような気がした。お互いなんとなく、触れないようにしていたから。冴くんはまっすぐ前を向いたまましばらく黙り込むと、「前みたいなことにはなんねぇよ」とどこか遠くを見つめて呟いた。

「なまえ」
「うん」
「……いや、なんでもねぇ」

 どこか懐かしむような瞳と目があった。そうして頬に冴くんの指が触れる。それはまるで、一瞬垣間見えた不安定さを隠すようにも思えた。前みたいなことにはならないって、それは冴くん自身がってこと? それとも、わたしにはもう知る由もないということ?
 口を開きかけたときだった。冴くんのスマートフォンが、小さく鳴って振動した。交わっていた視線が逸れて、触れていた手が離れていく。相手は冴くんのマネージャーさんだった。どうやら時間が迫ってきているらしい。

「そろそろ行く」
「……うん」

 専用カウンター前にたどり着くと、冴くんはあっさり「じゃあな」とだけ言った。言葉少ななところが彼らしい。一昨日一緒に帰ったときに、わたしの家の前でした挨拶と同じくらいのトーンだ。でもそれはきっと、彼なりのやさしさなのだと思う。
 それでも寂しい気持ちは抑えきれなくてどんどん溢れていく。どれだけ連絡を取ろうとも、半日以上かかる地はあまりにも遠い。その上、次いつ会えるかもわからない。くるり、と彼が背を向けた。

「なまえ?」
「あ……ごめん、なんでもない」

 ちょん、と摘まれた冴くんの服。完全に無意識だった。せっかく冴くんが普通にしてくれたのに。両手を上げるように慌てて手を離す。すると彼はしばらくわたしを見つめたのち、わたしの腕を掴んでそっと引いた。ぐらりと体が傾いて、こつん、と額に彼の鎖骨がぶつかる。

「いい子で待ってろ。お前がここにいるから、俺はちゃんと帰って来れる」

 冴くんの手がわたしの後頭部に回って、くしゃくしゃと髪を混ぜるように撫でる。すると抑えていた感情がまるで大きな波のように押し寄せてきて、涙となって零れた。ぎゅうっとしがみつくように彼の背に腕を回して、服を握りしめる。

「たまに電話してもいい?」
「変な時間にかけんなよ」
「わかってるよ。ちゃんと冴くんが起きてるときに、」
「ちげーよ、日本時間の話だ。わざわざスペインこっちに合わせなくていい」

 ぽん、と軽く背を叩かれて離れる。そうして目が合った瞬間「泣くな馬鹿」と、冴くんはわたしの額をこつんと叩いた。

「行ってくる」
「……うん。行ってらっしゃい」

 慣れた様子でゲートを潜る冴くんの背中を見つめる。──いい子で待ってろ。その言葉だけで頑張れそうな気がするのは、単純すぎるだろうか。
 それでも彼が言うように、わたしは、彼が帰って来たいと思えるような場所でありたいと思う。

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