夜のまぶたを閉じても君がいる



 夕陽が海に沈むまでの時間は思ったよりも早い。そう考えると案外明日はすぐ傍にあって、今日という日は一瞬で過ぎ去ってしまうのだと思い知らされる。同じ日は二度とない。けれどもそれはときに、救いになるときもある。
 この堤防の近くには街灯がほとんどない。そのため、夜になると星がよく見えた。とくに冬は空気も澄んでいて、より一層綺麗に見えた。
 ときどき話をして、星を眺めて。それを何度か繰り返すと、冴くんがぽつりと「送ってく」と言った。話したいことは終わりがないほどたくさんあるのに、彼といると、時間があっという間に過ぎていく。

「んな顔すんな」
「……どんな顔?」
「帰りたくないって堪らなそうな顔」

 頬に手を当てて俯く。そんなにわかりやすかっただろうか。けれどもむかしから、わたしは冴くんに心を見抜かれてばかりだった。

「週末は? 空いてんの?」
「空いてるけど……」
「じゃあそこだな。そのまま空けとけよ」

 ぽん、とわたしの頭の上に冴くんの手のひらが乗る。いつもそうだ。彼はわたしが不安に思ったり寂しい気持ちになったりすると、頭を撫でてくれる。あのころよりも大きい手。やさしくて、ひどく安心する。

「……いいの?」
「元よりそのつもりだった。部活も入ってねぇっつってたし」
「言ったっけ?」
「前に話したとき、凛の試合見に行きたいとか言ってただろ」

 言われてみればそんな気もする。よく覚えているなあと思っていると、冴くんは隣ですっと立ち上がって夜空を見上げた。釣られるように見上げる。濃紺に満天の星空だ。すると不意に、視線を戻した彼と目が合った。

「ほら、帰んぞ」
「……うん」
「なんだよ。まだ不満か?」
「ううん、違う。そうじゃなくて」

 ここで再会したときはあんなにも違って見えたというのに、今ではこれっぽっちも思わない。もちろん成長して見た目も雰囲気も変わったけれど、一番奥にある部分はわたしが知る彼のままだ。

「冴くんは冴くんのままだと思って」
「……んなこと言うのはお前くらいだ」

 そう言って目を逸らすところも、むかしと変わらない。素直じゃない冴くんの一面だった。

◇ ◇ ◇


「そういえばなまえ、髪伸びたな」

 家までの道をたどっているとき、不意に冴くんがそう言った。確かに彼と最後に会った四年前は肩に少しつくくらいだったけれど、今では随分と伸びて胸の下くらいまである。
 そういう冴くんも以前は前髪を眉の上で短く切り揃えていたけれど、今はセットされてアップスタイルになっている。可愛さが抜けて、だいぶクールな印象になった。その上背もかなり伸びているので、隣に並ぶと少しだけどきどきする。

「うん。なんだか切るタイミング逃しちゃって……変?」
「いや? 俺は好き」

 冴くんの指がわたしの髪に触れる。そうしてそれはするすると降りていって、毛先をくるりと遊んでから離れていった。急にそんなこと言われたら、どう反応すればいいのかわからなくなる。けれども嬉しいのは間違いなくて、わたしは内心胸を撫で下ろした。本当は、次会うときまでに少しでも大人っぽくみられたかったから、だなんて言えない。

「じゃあこのまま切らないでおこうかな」
「俺が変って言ったら切んの?」
「……わかんないけど、多分」

 我ながら単純だと思う。けれども冴くんがもし本当にそう言ったなら、わたしは髪を切るだろう。すると彼は少し神妙な顔つきをしたのち、「ふうん」と小さく呟いた。そのトーンは先ほどより少し高い。
 未だ投げかけられている視線から逃れるように前を向く。彼のことだから全部バレているだろうが、今は少し恥ずかしくてずっと目を合わせることができなかった。


 わたしと冴くんの家は歩いて一分ほどの距離にある。駅から帰ると糸師家のほうが近いけれど、海から帰るとわたしの家のほうが近い。彼は最初に言った通り、わたしを家まで送り届けてくれた。

「時間とかまたあとで連絡する」
「うん」
「じゃあな」
「……さ、冴くん……!」

 振り返った彼は少しだけ驚いたような顔をしていた。簡単に振りほどくことができるほど弱く繋がれた指先。むしろ自分でも、咄嗟に引き止めてしまったことに驚いているくらいだ。なにか言わなくちゃ。でも、なにを言えばいいんだろう。親指と人差し指の先端から、じわじわと熱が上っていくのがわかる。

「お前の手、ちいせぇな」

 先に動いたのは冴くんだった。繋がった指先を取ると、手のひらを見つめたり感触を確かめるように握ったりした。その手はわたしよりも少し固くて、とても大きい。

「ごめん……なんにもないのに引き止めちゃった」
「別に。なまえなら構わねぇよ」

 彼の手と比べるとわたしの手は確かに小さく見える。すっぽりと覆われて、握られてしまうと見えなくなってしまうほど。こんなふうに、前との変化やわたしと違いに気づくと、胸の奥がちりちりと熱くなる。
 手を伸ばせば届く距離にいる。もうあのときとは違うんだ。言い聞かせるように心のなかでそう言って、大きな手を握る。するとそれに応えるように、彼の手がまたわたしの手を握った。

「うん、大丈夫……ありがとう。じゃあまた週末」
「ん。明日の学校寝坊すんなよ」
「もうそんなことしないもん」
「どうだかな」

 早く家入れ。そう言った冴くんの言葉に、わたしは渋々玄関をくぐった。ひらりと手を上げた彼を最後に、ぱたん、と扉が閉まる。そうしてわたしはずるずるとその場に座り込んで、手のひらをじっと見つめたあと顔を覆った。なんだかもう、色んな感情がごちゃまぜだ。四年の間になにがあったのか。凛くんとどんな話をしたのか。そんな不安や心配の気持ちと、変わらない部分への安心、そして彼の成長ぶりに戸惑いを隠せない。前からかっこよかったけれど、それよりもうんとかっこよくなって、大人っぽくなっていた。それに最後、手まで繋いでしまって……。わあっと叫びたい気持ちに駆られて、咄嗟に口元を覆う。
 反対に、いつまでも子供っぽいと思われたりしていないだろうか。彼がスペインに旅立ってから、自分なりに努力をしていたつもりだったけれど、そもそも彼はもっと広い場所で生きて活躍している人だ。色んな人と出会っただろうし、関わりもあっただろう。もちろん、どうでもよくなっていたら今日会うことも、なにかあったときに連絡をしてくることだってないだろうが、それでも自惚れられるほど自信があるわけじゃない。冴くんにどうでもいいって思われたくない。できることなら、もう少し近くにいたい。

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