Promise of evening calm



【夕凪】- yunagi -
 夕方の海辺、陸風と海風が入れ替わるときに風がなくなることをいう。ほんの少しだけ見せる穏やかな時間。



 ちょうど、波の音が消えた瞬間だった。まばゆいオレンジ色がきらめいているなか、わたしたちは約束を交わした。それはごくありふれていて、子供らしい約束。けれどもわたしは心からそう願っていたし、また彼もそうだと信じていた。御伽噺のようだと誰かは言うかもしれない。それでも、そんな恋がひとつくらい本当にあったって、わたしはいいと思っている。



「え、なまえちゃんってお兄ちゃんいるの? あんまりイメージなかったな」

 どれだけエリート校だと言われていても、昼休みになればざわざわと騒がしくなるのはどこも同じだ。机を二つ、前後でくっつけるように並べ、クラスメイト四人で囲んでおしゃべりをしながら昼食を取る。午前中の授業の話。昨日あった出来事。そして、放課後の予定。

「と言っても本当のお兄ちゃんってわけじゃなくて、幼馴染なんだけど」
「ああ、なるほどね。それで、そのお兄ちゃんが帰ってきてるんだ?」
「……うん。四年ぶりに」
「四年かぁ。結構長いね」
「うん。でもさすがに、ちょっと浮かれすぎてたかも」
「そうかな? 仲が良かったんだったらそうなるんじゃない? まあ確かに、なまえちゃんがあんなふうだったの珍しかったから先生もちょっとびっくりしてたけど」
「もはや体調が悪いのかって心配してたもんね」

 兄のような存在だった幼馴染が、四年ぶりに帰って来る。と言ってもすでに昨晩、予定よりも一日早く彼は帰ってきていて、今日は実家でゆっくりと休んでいるそうだ。そして放課後はその幼馴染と久しぶりに会う予定になっている。帰国前に連絡をくれた日から、ずっと今日が待ち遠しかった。
 いくら連絡を取り合っていたとはいえ、四年という月日は長い。正直、不安な部分もあるけれど、今は会いたくて仕方がなかった。お陰で昨晩はよく眠れず、授業中も上の空で先生に注意をされてしまったほどだ。今思い返してみても恥ずかしい。幼馴染が知ったらきっと呆れた顔をするだろう。

「じゃあ今日は午後の授業終わったらすぐ帰る?」
「うん、そのつもり。なので今日はパスでお願いします」
「了解。帰りにまた面倒事押しつけられないようにね。終わったらダッシュで帰ったほうがいいよ」
「本当に無理なときはちゃんと断るから大丈夫だよ」
「どうかなあ……」
「そもそもなまえちゃんが走って下校するところなんて想像つかないけどね」

 今のわたしを見たら、幼馴染はどんなふうに思うだろう。──お前は本当危なっかしいな。頭のなかで記憶の彼がそう言ったのを思い出しながら、わたしは最後に残ったプチトマトを食べて苦笑した。

◇ ◇ ◇


 幼馴染の彼と離れていた四年間は、決して空白だったわけじゃない。むしろ日本にいる誰よりも連絡を取っていただろうし、色々、あった。会いたい気持ちと、どこか不安な気持ちがぶつかりあっているようで、心臓の奥が少しだけ苦しい。緊張も相まって、胸に手を当てなくても激しく鼓動しているのがわかる。
 鎌倉は海に面している。そのため彼と過ごした日々の記憶には、いつも海があった。彼は海が好きだった。はっきりとそう告げられたことはないけれど、一人でいるときも、二人でいるときも、彼はいつも海を眺めていた。
 待ち合わせ場所も、また海の見えるところだった。四年前、最後に会ったときと同じ場所。海水浴場からは少し離れていて、人気ひとけもなく静かなところ。
 ここにはもう一年以上来ていない。一人で来ると、もう彼はいないのだと実感して寂しさを覚えてしまうから。誘われるように進んでいく。そうして次第にさざなみの音が聞こえてくると、目に飛び込んできたのは眩しい夕陽と、それを眺めるように立つ後ろ姿。わたしは思わず駆け出していた。

「冴くん」

 あんなにも不安だったはずなのに、その姿を目にした途端、体が勝手に動いていた。くるりと振り返る彼。夕陽のせいで、その表情は上手く見えない。

「ここで走んなって、前も言っただろ」

 手の届く範囲まで近づくと、ようやく彼の顔が見えてくる。むかしよりもずっと大人っぽい表情。どこか冷淡ささえも感じるのは、わたしの思い違いではないだろう。ほんの一瞬、胸の奥が軋むような思いに襲われたけれど、彼の指が額にこつんとぶつかったことでそれも止まった。少し刺々しい空気も、仄暗い表情も、わたしが知らない彼ばかりだけれど、細められたまなざしは変わらなかったから。
 あ、っと口から音が零れて彼を見つめる。どれだけ雰囲気が違っても、冴くんは冴くんなんだ。それは当然といえばそうなのかもしれないけれど、四年の月日の間で彼になにかがあったことは明白だったので、すっかり頭から抜け落ちていた。

「おかえりなさい」

 無意識に零れたその言葉は、自分の想像以上に喜悦を孕んでいた。すると冴くんは面食らったように何度かまばたきを繰り返したのち、そっと目元を緩ませた。

「ただいま」
「昨日帰ってきたんだよね? 時差ボケとか、平気?」
「俺が時差ボケなんかするかよ」
「いくら冴くんがすごくても時差ボケくらいするでしょう?」
「俺がしねぇっつったらしねぇ」
「えぇ……? そういうものなのかなぁ。まあでも、ないならよかった」

 緊張が溶けてからはあっという間で、自然と言葉が溢れてくる。流れるように、わたしたちは四年前までの定位置だった堤防の上に並んで腰掛けた。冴くんが左、わたしが右。ずっとむかしから、変わらないこと。

「高校はどうだ?」
「ぼちぼち、かな? みんな頭がいいから頑張って授業聞いてるよ」
「へぇ……前は授業中よく寝てて怒られてたのにな」
「最近はちゃんとやってるんだから。受験だって、ちょっと頑張ったし……」
「白宝だっけか?」
「あれ、高校のこと言ったっけ?」
「お前が受かったとき、母親から連絡が来た」

 そうだったんだ。一人納得しながらも、「そもそも冴くんって白宝のこと知ってたんだ」と言うと、彼は「お前は俺のことをなんだと思ってんだ」と少し不満そうにこちらを睨みつけた。良くも悪くもサッカーしか興味がない少年? いいやもう少年ではないけれど、中学一年生のころに旅立った彼には無縁な話だと思っていたから、少し意外だった。

「生徒会に入ったって聞いたときも、なんの冗談かと思った」
「それは先生に強く勧められて……断れなかったんだよね」
「またいつものやつか」
「そんなことないと思うけど……」
「凛の我儘聞かされてただろ」
「それは凛くんだからだよ」

 ぽつりぽつりと交わされる会話は、まるで四年の間に生まれたわたしたちの隙間を埋めていくようだ。まずは二人の間。そうして次第に埋まっていくと、先ほどよりもほんの少しだけわたしたちの距離が縮まったように思えた。それでもまだ手探りで、先の見えない暗闇のなかにそっと手を伸ばすように、言葉を選んでいく。

「そうだ。凛くんは冴くんに会えたのすごく喜んでたんじゃないかな。凛くんとこの間会ったときも楽しみにしていたようだったし……」

 ああここだ、と、なんとなくそう思った。凛くんの話をすると、冴くんはいつも誇らしそうだったのに、今はずっと遠い水平線を眺めたままだったから。思わず口を噤んで彼の横顔を見つめる。とても短い時間のはずだったのに、切なくなるほど長く感じられた。

「……ミッドフィルダーになることにした」
「冴くんが?」
「ああ。昨日、凛にもそう言った……あとは多分、なまえも想像がつくだろうが」

 きっと、凛くんはどうしてだと言うだろう。世界一のストライカーになると言ったのも、一緒に世界に行こうと言ったのも、他ならぬ冴くんだからだ。

「喧嘩しちゃった?」
「そんな可愛いもんじゃねぇけどな」
「酷いこと言ったの?」
「まあ……それなりに」

 凛くんが冴くんのことを大好きなように、冴くんもまた凛くんのことが大好きだ。その彼がこんなにも言っているのだから、きっと相当ひどいことを言ったのだろう。あんなにも仲が良かった二人が喧嘩をするだなんて。わたしには想像もつかないけれど、お互い傷ついたのは間違いなかった。
 小さいころから期待をされ、大人と関わることの多かった冴くんは、いつも落ち着いていて物事を達観していた。視野が広いというのだろうか。こうすれば周りがどうなるか、ああすればどう思われるか、それを瞬時に理解して、行動する。けれども自分の軸の部分はしっかりと持っていて、いつもそれに従っていた。
 だからこそ、こうなることはきっと冴くんにもわかっていたはずなのだ。その上で選んだ道。この覚悟に、かける言葉なんてあるのだろうか。

「俺を追っているようじゃ駄目なんだよ」

 俯いていた顔を上げる。零れるように呟いた言葉は、わたしに向けての言葉ではなかったけれど、わたしはどこか救われたような気持ちになった。きっと、そういうことなのだ。世界を見て、そう思ったのだ。口数が少ないほうだから間違われることも多いけれど、彼は優しい人だから。

「応援してるね」
「……おう」
「凛くんのことは……」
「アイツのことはいい」
「たまに、様子見るよ」

 じっとりと睨みつけるような視線を無視すると、冴くんは小さくため息をついた。

「勝手にしろ」
「うん、勝手にする」

 いつの日かまた、二人で一緒にサッカーができることを信じている。
 その言葉は飲み込んで、わたしは波のない静かな海を眺めた。

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