いつかといつかを繋ぎあわせたら



 数えきれないほどの人々が注目しているなかで、二人が敵として立ち向かい、サッカーをしている。分厚いガラス越しから見える二人の攻防、そして感じる歓声と熱に、どくどくと心臓が激しく鼓動するのを止められないまま祈るように拳を握った。

(冴くんのサッカーだ……)

 彼のサッカーをこんな近くで見るのはとても久しぶりのことだった。ボールに触れている機会はあれど、具体的な練習風景を見ることはできなかったし、試合もここ数年は画面越しばかりだったから。
 後半も残り十五分になり最終局面がスタートしたころ、冴くんの動きに変化が起きた。それまでのパスを中心にボールを回していたものから、相手の隙をつき自らが攻めていくような動きに変わっていったのだ。目にも止まらぬ速さでボールを操り、相手の隙間を縫うようにすり抜けていく。今までのスタイルから、ギアをひとつ上げたような感じだった。無駄な動作がなく、全てが洗練されている。わたしがむかし見ていた、わたしが見惚れた彼のサッカーだった。
 みるみるうちにゴールへと近づいたとき、冴くんがボールを強く蹴った。それは華麗な弧を描き、十三番のもとへと飛んでいく。吸い込まれるように。僅かなズレもなく。このまま十三番の士道選手が正しく蹴れば、間違いなく点が入るだろうと思った。緊張が走る。けれどもそれが届く直前、士道選手の影から一人、ブロックするようにそこへ飛び込んだ。凛くんだった。

「りっ……!」

 思い切り立ち上がったのでガタンと椅子が倒れた。しかしそんなことよりも、わたしはフィールドから目を離せなかった。士道選手の足が凛くんの頭へと直撃して倒れ込んだからだ。
 あんなふうに飛び込んだ彼を見るのは初めてだった。それくらいの覚悟で、あそこに立っているということだった。あの冬の日からずっとずっと、冴くんを倒すために努力してきたことを知っている。なにがなんでもここで負けるわけにはいかなかった。
 幸いまだ動けるようで、彼はすぐに立ち上がった。そうして試合が再開される。青い監獄ブルーロックチームもU-20チームも、決死の攻防を続けていく。
 そうして残り五分を切った。
 凛くんの動きにも変化が起きたのは、ちょうど試合終了まで二分を切ったところだった。今までの無駄のないプレーから、予想もつかない不規則なものに変わっていったのだ。一見暴走とも取れるそれは、しかし確かに敵も味方もの意表を突いていく。それは以前、まだ彼が幼いころに言っていた「壊れるほう」へと向かうようなスタイルだった。
 敵のもとへ真正面から向かっていき、壊して進んで、さらに前へ。そうして最後シュートモーションへと移り、ボールを強く蹴った。大きく弧を描き、風を巻き込むように飛んでいく。それまでの間わたしはまばたきもできず、彼のプレーに惹き込まれていた。

 けれどもそれはゴールポストへとぶつかり、弾け、冴くんが奪い取る。その瞬間、アディショナルタイムへと突入した。

 次々と青い監獄ブルーロックチームが冴くんに向かっていく。けれども彼はそれをひらりと翻すように抜けていった。一人、二人、三人。時間は刻一刻と迫っている。
 そして冴くんの前に凛くんが立ちはだかった。
 二人の会話はもちろん聞こえない。しかし、なにかを話している、ということだけはわかった。数十秒しか残されていないなか、二人の最後のマッチアップが始まる。抜こうとすれば阻止をして、さらにその上を行こうとする。息をのむような攻防。気がついたらわたしはひっそりと息を潜め、震える手を握りしめていた。ぺしゃんこに潰れてしまいそうなほど、心臓が痛い。
 けれども時間は平等にやってきて、一瞬、まばたきもできぬほどのスピードで結末へと向かう。冴くんが一番得意とするステップを繰り出したとき、凛くんがそれを止めたのだ。その瞬間、まるで全ての時間が止まったようだった。しかし実際にはそんなことなくて、ボールが二人から離れていく。
 凛くんが、止めた。一度は抜かれてしまった、彼のステップを。
 そうしてボールは宙を描き、青い監獄ブルーロックチームの十一番のもとへ。
 決まる、と思った。今日の試合の結末が。心臓が痛い。もはや呼吸などすっかり忘れていた。

 そして、それは正しくまっすぐと飛んでいき、ゴールネットを揺らした。

◇ ◇ ◇


 これはまだわたしが中学生のころ……冴くんがスペインから帰国する前の話だ。
 それまでわたしと冴くんは、毎日ではないけれど定期的にメッセージのやりとりをしていた。サッカーの話。学校の話。他愛もない話。ぽつぽつと、近況報告のような形で送り合っていた。

 ──スペインはどう?
 ── 簡単なやりとりならわかるけど、それ以外は話が通じなくてめんどい。
 ──確かに。そこからだもんね。練習は大変?
 ──日本じゃ絶対有り得ねーことがよくある。

 彼がスペインに行ってすぐのやりとり。大変、と簡単に言わないのが冴くんらしいと思ったのを覚えている。そのあとも彼は練習の話やスペイン語についての報告を定期的に送ってくれていた。
 具体的な日時は覚えていないけれど、あるときからその連絡の頻度が少しずつ減っていった。一週間、二週間、三週間、そして一ヶ月……そこからやりとりがめっきりと減って、彼の情報といえばネットニュースで得ることくらいになっていった。
 それでもときどきわたしから一方的に(寂しさを紛らわしたかったのだと思う)メッセージを送っていた。返信を催促するようなこと、そして質問などの内容が一切ない、完結じみたものを。手紙を送っている感覚だった。そしてそれに既読がつくことで、わたしは安心を得ていた。


 それはほとんど明け方のことだった。
 普段は一度眠ってしまえば目覚ましが鳴っても全然起きないというのに、なぜだかこの日はふっと意識が浮上したように目が覚めた。目を開けると、そこには暗闇のなかで光るスマートフォン。初めは眩しくて上手く見えなかったけれど、メッセージが届いたようだった。相手は冴くん。彼の名前を見るのはとても久しぶりのことだったので、わたしはひどく驚いた。
 内容もたった、「なまえ」とわたしの名前のみ。わたしはすぐに発信ボタンを押していた。それはもうほとんど反射的なものだったけれど、そうしなければならないという使命感が降ってきたのだ。
 そうして繋がる冴くんとの通話。一番最初に聞こえたのは、彼の戸惑ったような「なんで」という言葉だった。わたしはこのとき、初めて彼の弱々しい声を聞いたような気がした。

「冴くん」
「……っ」

 無音、ではなかった。どこか息をのんだような、空気が揺れる音。実際のところはわからないけれど、もしかしたら泣いているのかもしれないと思った。それまでは冴くんが泣くなんて有り得ないくらいに思っていたけれど、今ここで全てが覆った。そう感じさせるような空気感が伝わったから。そうしたら眠気なんて一気に吹き飛んで、不安と緊張に襲われた。
 冴くんは人一倍負けず嫌いで、頼れるお兄ちゃんで、わたしたちが思っているよりもずっと色んなことを考えている男の子だ。そんな彼がこんな時間にわたしに連絡をするだなんて、よっぽどのことに違いないと思った。

「……なまえ」

 しばらくの静寂ののち、冴くんはぽつりとわたしの名前を呼んだ。けれどもそれ以降に続く言葉なく、再び静寂が訪れる。
 彼がスペインに行ってから、一番遠いと感じた。なにがあったかは直接会っても教えてくれないかもしれないけれど、今すぐ彼のもとへ走っていって、顔を見て、抱きしめて、ここにいるよって言いたかった。もどかしさがじくじくと心臓を抉る。冴くんのことが大好きなのに、なにもできない自分が歯がゆくて仕方がなかった。
 なんて声をかけるべきかわからなかった。わたしの想像力じゃ、彼が実際に直面している真実を見抜くことができなかったからだ。練習が辛いだとか、壁にぶつかっただとか、挫折をしただとか、実際にそうだったとしてもわたしの簡単な言葉で済むようなことではないと思ったのだ。この電話には、それくらいの重さがあった。そう思うと、勝手に涙が溢れてきた。

「……冴くん」
「……」
「わたし、いつか必ずそこにいくから……だから、もう少しだけ待ってて」

 冴くんが望むサッカーができるまで、時間がかかっても諦めそうになっても、どんなことがあっても、絶対近くで見ているから。
 彼のことを孤独だと思ってなどいない。けれども今この瞬間、わたしを選んだのなら、その手を取って最後まで離さないでいようと思った。冴くんが望むことのなかに、わたしに叶えられるものがあるのなら、なんでも差し出せると思った。
 数秒空白が続く。すると、ふっと空気が揺れたように冴くんが笑ったような気がした。

「頼もしいな」

 ぎゅう、と心臓が潰れそうなくらい苦しくなったのは、彼の声音が安堵したようなものだったからか、それともその言葉のせいだったのか、実際のところはよくわからない。けれど、わたしの言葉が冴くんのもとに正しく届いたのは間違いなかった。すり減った心を全て補えたわけではないし、それはきっとわたしには不可能なことだけれど、ひとつでも寄り添えたのならわたしも救われたような気がした。

「お前の声が聞きたかった」
「そんなの、いくらでも聞かせてあげられるよ」

 ねえ冴くん。そう言うと彼は、「ん?」とひどく優しい声で答えた。

「わたしもね、冴くんの声が聞きたかった」

 冴くんと連絡が取れなかった間も、ずっと冴くんのことを考えていたよ。今なにしてるかなって。大丈夫かなって。会いたいって。わたしも頑張らなくちゃって。離れていても、結局わたしの頭のなかは冴くんのことでいっぱいで、それはきっと、これから先もそうなんだろうなって思った。
 彼がスペインから日本に帰って来るまでの間、弱々しい声を聞いたのはこれが最初で最後だった。なにかがあったのは明白だったけれど、わたしから詳しく聞くことはなかった。きっと聞いたところで教えてくれないと思ったし、もし教えてくれるなら彼が話したいと思ったときがよかったから。
 その夜、わたしたちは日本で朝が来るまで通話をした。たくさんの事柄を話したわけではないし、ほとんどわたしから一方的に話すような形だったけれど、冴くんはひとつひとつちゃんと返事をしてわたしの言葉を聞いていた。それはまるで、微睡みのなかで寄り添うような、優しい優しい時間だった。

- ナノ -