Night Tea

「おい、なんでこんなところに子供がいる」

 麗しい月夜のような人に話しかけられた。もちろん、彼のことは知っている。ミヒャエル・カイザー選手。少し前からここ青い監獄ブルーロックでトレーニングを行っている海外クラブチームの一人だ。サッカーのことはあまり詳しくないわたしでも、彼のプレーがとってもすごくてとっても強いのはわかる。仕事の合間にときどき見るリーグ戦で、彼はいつも活躍し、思わず目を奪われるほど輝いているから。
 けれどモニター越しで見るそれよりも、彼は眩しかった。もはや発光しているのではないかと思うくらい。なにもかもが正しく、完璧な形をつくりあげている。まるで彫刻作品のようだ。そんな人が、わたしになにかを話しかけている。思わず惚けて、わたしはトレーを握ったまま立ち竦んだ。

「は……え……」
「迷子か?」
「えっと……」
「カイザー。彼女はイヤホンをしていないから伝わってないよ」
「迷子なんだからそりゃイヤホンなんてしていないだろ」
「迷子じゃなくて、彼女はれっきとしたスタッフだけどね。この食堂の」
「……それは何かの冗談か? 剣優。全然面白くないぞ」

 とっさに雪宮くんがフォローをしてくれたけれど、あまりいい話ではなさそうだ。どうやら話を聞くに、わたしは迷子だと勘違いされたらしい。カイザーさんが、今でも信じられないといった様子で目を見開いてわたしを見下ろしている。

「えっと、」
「ここに女性がいるのが珍しいから、間違えてしまったみたいです」
「ありがとう雪宮くん。ええと、ここの食堂の管理を任されています。よろしくお願いいたします」

 なるべく言葉がつっかえないように、丁寧に発して頭を下げる。するとカイザーさんが再びなにかを言った。もちろん、イヤホンをしていないわたしにはなにを言っているかさっぱりわからない。首を傾けたままなんとなくみんなの会話を眺めていると、黒名くんが駆け足でこちらにやってきた。その手には、ころんとした小さな黒い箱がある。

「持ってきた持ってきた。イヤホン。これつけて」
「あ、ありがとう黒名くん」

 ピースをする彼から受け取ったそれを耳に当てはめると、あっという間にカイザーさんとネスさんの声が日本語で聞こえてくる。話には聞いていたけれど、こんなにもスムーズなのか。密かに驚くわたしに、カイザーさんが「どう見ても子供だろ」とまじまじと見つめる。前が眩しい。その奥で頷いているネスさんがどんな表情なのかわからないほどだ。

「一応わたし、アンリちゃんよりも年上です」
「え!?」
「本当?」
「……嘘だろ?」
「カイザーさんの反応はまあなんとなくわかりますけど、雪宮くんや黒名くんまで……」

 右から、雪宮くん黒名くんカイザーさんだ。会話には入っていなかったけれど、近くにいた氷織くんでさえ驚いた表情をしている。そんなに子供っぽく見えるだろうか。それは少し、いいやかなりへこむ。

「見えないかもしれませんが、事実です……」
「俺普通にタメ口利いちゃってる時あった……」
「大丈夫だよ黒名くん。これからもそのままでいいからね」
「こんなちんちくりんなのに」
「カイザー、それは彼女に失礼だろう」

 彼からしてみればそう見えるのだろう。確かに、彼はひとつの完成系であるかのようにとても整っている。年下なのは間違いないけれど、わたしより遥かに大人びていて、堂々としている。

「エッ、なに? どういう状況?」

 すると今度は潔くんがひょっこりと食堂に顔を出して、わたしたちのことを困惑したように見つめていた。首にタオルが巻かれている。どうやらシャワーを浴びてきたらしい。いつもの双葉も、今はしっとりとゆるい曲線を描いている。

「お姉さん囲んで、お前らなにやってんの……?」
「あー、なんというか、色々あって」
「仲間外れにされたからってわざわざ割って入ってくんなよなぁ? 世一」
「お前がお姉さん困らせてるようにしか見えねぇからそう言ってんだよ」

 本当に、この二人は口を開けば言い合いになってしまうらしい。モニター越しで何度も見たことがあったけれど、いざ目の前で始まるとどうしたらいいのかわからなくなってしまう。見かねた氷織くんが「なんや収拾つかなくなってきたなぁ」とわたしをちょいちょいと手招きした。

「お姉さん仕事中やろ? ここはいいから、戻っとき」
「えっと、大丈夫かな?」
「平気平気、いつものことやから」

 普段から二人のやり取りを近くで見ている氷織くんは慣れっこらしい。黒名くんもうんうんと頷いていた。白熱しだした口論はなぜかネスさんも混ざり始めていて、よくわからないことになっている。わたしは二人に甘えて、そそくさと仕事に戻ることにした。
 これが、カイザーさんとのファーストコンタクトだった。

* * *


 セカンドコンタクトは案外すぐやってきて、その日の夜だった。食堂内の片付けをしている途中、背後から突然話しかけられたのだ。

「本当に働いてるんだな」
「……? ごめんなさいイヤホンは返却してしまったので、伝わってないです」

 カイザーさんは小さくため息をついた。なんで返したんだ、と言いたげな顔だ。仕方ないだろう。一介のスタッフには配られないのである。業務中必要になることなど、ほとんどないからだ。今回がレアケースだと言えよう。実際、カイザーさんたちがブルーロックにやってきてからしばらく経つけれど、こんなふうに会話をしたのは今日が初めてだったのだから。
 カイザーさんの手にはカクテルグラスがひとつ握られていた。最近ときどきなくなっていることには気づいていたけれど、彼だったのか。まさかこれからお酒でも飲むのだろうか。ドイツでは飲める年齢だろうが、ここは日本であるし、日本ではわたしたちと同じように未成年者にはお酒を販売してはいけないことになっている。嫌な予感がして、わたしは咄嗟に彼を見上げた。

「まさか、これからお酒飲まれるんですか?」
「飲めるのなら飲みたい気分だけどな」
「駄目ですよ! 飲んじゃ駄目です。ここの施設が潰れます」
「飲んでねぇって言ってんだろ」
「どこからくすねてきたんですか?」
「なんでこいつはイヤホンもないのに会話を続けてくる」

 チッと小さく舌打ちをするカイザーさん。わたしが強引に止めようとするから苛立ったのかもしれない。それでも大人として、ここの一スタッフとして、見逃せないこともある。相手があのミヒャエル・カイザー選手だったとしてもだ。
 けれど次の瞬間、腕を掴まれたかと思えば、突然耳にイヤホンが差し込まれた。カイザーさんが付けていたイヤホンだ。すると遅れて「埒が明かない」と日本語が聞こえてきて、もう一度舌打ちが降ってくる。反対側は今まで通りドイツ語が聞こえてくるので、なんだか不思議な感覚だ。

「飲んでねぇつってんだろ」
「えっ? あ! そうなんですか……? てっきり食堂からくすねられたのかと……」
「人の話を聞け」
「す、すみません……ドイツ語、全くわからないのに勝手に突っ走っていました……」

 カイザーさんは腰に手を当てて、深くため息をつきながらわたしを見下ろした。すごく呆れられている気がする。わたしのほうが大人なのに。そして彼もそう思ったのか、「やっぱり本当は迷子なんじゃないか?」と鋭い言葉を突きつけてきた。

「ち、違います……!」
「ハン。そうやって悔しがるところがもっと子供っぽいな」
「……」

 カイザーさんって、本当に誰にでも煽るのが上手らしい。むっとした顔はしてしまったけれど、子供っぽいところは本当のことであるし、むきになっても仕方ないので文句は言わないでおいた。そして冷静になると、途端に湧いてくる疑問。

「じゃあなんで、わざわざカクテルグラス?」
「……」
「グラスならもっとたくさん、色々あるのに」

 なにを飲むつもりかは知らないけれど、お酒でないのならもっと容量の多いグラスにすればいいのに。すると途端にカイザーさんは面白くなさそうな顔をした。不貞腐れている、みたいな、今まで見た中で一番リアリティのある表情だった。

「それとも場所がわかりませんでしたか?」
「うるさい」
「ええ……?」

 急に突っぱねられてしまった。驚きのあまり声が出てしまったけれど、彼の表情は変わらない。わからないことをわからないと言うのが苦手なのだろうか。少なからずそういう人はいると思うけれど、カイザーさんのそれはまた少し違う気がする。しかし、答えるつもりがなさそうなので確かめようもない。

「言ってもらえれば出しますからね」
「必要ない」
「そうですか……」

 未だむすっとしたまま、カイザーさんはわたしを見下ろしていた。今度はなんだろう。あ、イヤホンかな。わたしが返さねば彼だって帰れないはずだ。ありがとうございました、とイヤホンを差し出せば、彼がなにかを言う。外したらわからないのに。結局もう一度耳にかけてわたしは彼を見やった。

「ええと、なんですか?」
「いや、なんでもない。返せ」
「あ、はい。どうぞ。ありがとうございました」

 大きな手のひらにころんとイヤホンを乗せると、カイザーさんはすぐにそれを装着して、踵を返していった。結局カクテルグラスを持ち出した理由はわからずじまいだ。一体なんだったのだろう。こんなふうに話すとも思っていなかったので、ちょっぴり不思議な気持ちで終わった。そんなセカンドコンタクトだった。


* * *


 その後。わたしはなにかとカイザーさんに出くわすようになった。主に練習が終わってから就寝までの自由時間のあいだだ。そのたびに彼はちょっかいをかけてくるようになり、前よりも打ち解けた、ように思う。未だイヤホンはもらえていないので一方通行な会話のときもあるし、彼はそう思っていないかもしれないけれど。
 それなりにやりとりをするようになると、案外彼も人間で、年相応な部分があるのかもしれないと思うようになった。まあ、当たり前のことではあるけれど。次元の違う世界で生きているような人を見ると、この人は違うのだと思い込んでしまいがちだ。

「あ、こんばんは。カイザーさん」

 そしてカイザーさんは、ここ最近ご機嫌ななめだ。もちろん周りに当たり散らすようなことはないけれど、なんとなく、そんな雰囲気を感じる。今日もわたしの前に現れれば、口を真一文字に結んだままそっと目を細めた。こういうときはなるべくそっとしておいたほうがいい。彼も、そういうときはすぐに戻っていく。

「……うん? どうかしたんですか?」

 けれど、今日はどうやら違うらしい。最後の片付けをするわたしの背後に立ったかと思えば、彼はそのままじっとわたしを見下ろした。決して口下手ではない彼が、こんなふうに黙り込んだままというのも珍しい。しゃがんでいると余計に身長差が生まれるので、とても威圧感を感じるけれど、恐怖心を抱かなかったのは前よりもほんの少しだけ彼のことを知っているからだろうか。
 数秒向かい合ったのち、ふむ、と首を傾ける。なんて声をかけようか。そもそもどうしてここにやってきたのかわからないし。するとようやく口を開いたかと思えば、彼は不満を零すようにぼそぼそとなにかを呟いた。最初、イヤホンがないのにどうして会話を続けるんだなんて言われたけれど、そっくりそのまま返してあげたい。

「……もしかしてわたしが聞こえないからってなにか悪口言ったりしてませんよね……?」
「……」
「……嘘でしょ本当に?」
「……」

 なんということだ。大袈裟にショックを受けていたら、今度は吹き出すように小さく笑い始めた。前言撤回だ。この人、わたしの悪口を言ってからかったりして、不満を晴らそうとしている。やり方がまるで子供みたいだけれど、彼が存外そういう面を持っているのはここ数日で感じていたので、今さら驚くこともない。むしろ少しむっとして、わたしは彼の手を無理やり引いてから、耳にはめられていたそれをすぽっと抜き取った。

「さあ、なんて言ったんです?」
「……お前は小心者なのか豪快なのか、時々わからなくなるな」

 カイザーさんは小さくため息をついた。ため息をつきたいのはわたしのほうである。突然やってこられて、わけもわからず絡まれているのだから。

「それで、どうしたんですか?」
「……」
「なにか用があったんじゃないんです?」

 ぶすっとした顔をしているのに、カイザーさんの顔は今日も綺麗だ。却って綺麗だからこそ凄みのようなものが増している。結局、ふりだしに戻ってしまった。けれどこれ以上訊いたところで答えは返ってこないだろう。仕方ない。わたしは彼を導くようにテーブルのほうへ向かって、椅子を一脚、彼のために引いた。

「ここ、座っててください」
「どこへ行く」
「すぐ戻ってきますから」

 ブルーロックへは泊まり込みで働いている。そっちのほうが色々と楽なのだ。カイザーさんを一人食堂に残して、自室へ戻り色々とかき集める。いつもは仕事を終えてからだけれど、たまにはこんな日があってもいいだろう。

「戻りましたー」
「遅い」
「そんなに時間かかってないと思うんですけど……」

 白いビニール袋と、マグカップがふたつ。テーブルの上に置けば、カイザーさんは誘われるようにそれを見やって、訝しげな表情を浮かべた。突然なんだと言いたげな顔だ。種明かしをするように、袋からそれを出していく。持ち込んだのはお菓子とハーブティーだ。本当ならお酒を持ってきたかったところではあるけれど、彼に飲ませるわけにもいかないのでカフェインの入っていないものにした。これならば少しばかり夜更かししてもすんなり眠れるだろう。

「さ、お菓子パーティーしましょう」
「子供か」
「さすがにここでお酒を飲むわけにもいかないでしょう」
「……お前、飲めるのか?」
「え? うんと、人並みにですかね?」

 健康上あまりよろしくないのは重々承知しているので、飲み過ぎには気をつけているつもりだ。場所も相まって、ここ最近は控えている。意外な返答だったのか、カイザーさんは驚いたように目を見張っていた。この人は未だにわたしのことを疑っている。

「今度は持ってこい」
「そんなことしたらわたしが捕まっちゃいます」
「じゃあお前がドイツに来い」
「ええ? 飲むためにですか?」

 カイザーさんは当然だというように視線をよこした。なんだか意外だ。ただのその場のノリ、口約束だろうが、当たり前のように今度の話をされると思っていなかったのだ。しかもわざわざお酒を飲むためだけのことで。マグカップに口をつけながらそっと隣を見やれば、彼もまた頬杖をつきながらマグカップを手に取る。なにもかもがさまになる人だ。心做しか先ほどよりも機嫌がよさそうにも見える。人のことを散々言っておいて、彼も案外子供だ。

「ラインナップに偏りがありすぎる」
「自分用にしか買ってないので当たり前じゃないですか。それにカイザーさんだって全部食べる気なんてないでしょう?」
「だとしてももう少しセンスというのが……おい、なんだこのふざけた魚みたいな形をした意味不明な食べ物は」
「すみません色んな都合上名前が言えないんですけど、でも日本ではわりと有名なスナック菓子です」
「お前はなにを言ってるんだ……?」

 パッケージに描かれたイラストを見て、信じられないものを見たような顔をするカイザーさんはちょっと面白い。日本のお菓子など初めてだろうから、余計不思議に思うはずだ。おそるおそる一口食べる姿は見ていてとても新鮮である。思ったよりも好みの味だったのか、そのあともうひとつ摘んでいた。
 最初はこれ以上完璧なことはないと思っていたけれど、こうして見るとなかなか隙があって可愛いところもある。もちろんそんなことは今も、そしてこの先も言うことはないだろうけれど、最近はそれも含めて彼の魅力なのだと感じるようになった。つんけんした言動が目立つのは一旦置いておくとして、無愛想ではないし、こうして人と関わることがそれほど嫌いではないように見えるし。どんな方向であれ、周りに対して、なにかとても強い力をもたらす人なことには違いないだろう。
 マグカップから立ちのぼる白い湯気のように、なんとなく張り詰めていた空気がやわらかくほどけていく。ただの口約束だけれど、確かに、彼とお酒を飲んでみるのも楽しいかもしれないと思った。けれど、今日はこれでよかったとも思う。
 結局、彼がここにやってきた理由は最後までわからずじまいだった。もしかしたら理由なんてなかったのかもしれない。それでも、ちょっぴりとくべつな夜になったのは間違いなかった。




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