ポラリス

 無数に光るそれは一見決まりも正確さもないように見えるけれど、名前がついていると知るだけで途端に在るべき姿のように見えてくる。かすかに光る北極星。正しく並んだ北斗七星。それは音もなく、秘かに輝いているけれど、いつだって正しいままそこに在る。


 頬杖をつきながら画面を眺める横顔はもの静けさを帯びている。夜空で瞬く星座のようだと思う。彼はいつだって正しいかたちで、かすかな光を纏わせている。
 冷めたような視線で、けれど一度も逸らすことなく、熱心に見つめている。先日彼が出場した試合の様子と、それを取り上げたニュースの映像だ。歓声をBGMに、解説者が、彼と、あの彼について語っている。予測不能なプレー。不可能のない存在。奇跡的な瞬間に喝采を。それは熱を持たないままわたしの鼓膜を揺らして、屑のように散らばっていく。
 暗闇に浮かぶ薄明かりに惹かれるように、そっと横顔の輪郭をなぞってみる。細い線。鋭角なふち。すると静寂を湛えた青がわたしへ向いて、ノイズが途絶えた。取り繕ったような世界が消え、画面は途端に真っ黒な額縁に変わる。

「もう見なくていいの?」
「お前が嫌だって言ったんだろ」

 隣で彼の横顔を眺めていたあいだ、わたしは一度だって口を開いていない。星の在処をたどっただけだ。すると彼は瞼を閉じて、わたしの手のひらに頬を寄せる。そうして肩にもたれかかるように体を傾けた。ずるりと体がソファの背もたれから滑り落ちて、不格好な体勢になる。大きな彼をわたしの小さな体で受け止めようとすれば当然こうなるに決まっている。うわ、と可愛げもない声が零れて、バランスを取るように彼の腕にしがみつく。彼は体を預けたまま、ぴったりと目を閉じていた。まるで一瞬にして眠りについてしまったかのように。
 ちくたくと秒針がかすかな音を立てている。ひっそりと静まるわたしたちの部屋。まるで月のない夜みたいに、かすかな間接照明だけがいくつか点いている。この家に住まうことになって、少しずつ集めた小さな明かりだ。彼がなんでもいいと言ったから、わたしが勝手に集めたのだ。キャンドルでも置けばもっとそれらしい雰囲気になるかもしれない。けれど、彼はあんまりいい顔をしないかもしれない。
 肩に乗ったままの彼のあたまを、そっと撫でてみる。ようやく甘えてきた猫に、おそるおそる手を伸ばすようなイメージ。その手触りはやっぱり猫みたいにやわらかくて、するすると指のあいだを滑っていった。長い睫毛は伏せられたまま。どちらかと言えば彼は甘えたな猫であるので、逃げるどころか撫でるのをやめればその青をこちらへ向けてくるタイプではあるけれど。しかしそもそも、彼は猫ではない。
 わたしの前に在る彼は、外とは打って変わってもの静かだ。薄いくちびるは引き結ばれたまま、暗闇の中でひっそりと輝いている。寝顔は少年のようにあどけない。オフホワイトのガラス細工。閉じられたオルゴール。秒針の音が響くワンルーム。晴れた冬の日の夜。彼によく似たものたち。わたしの好きなもの。
 彼の視野はずっと広いけれど、目が合うことはそれほど多くない。それを、冷たく捉える人もいるだろう。一部の中でわたしと彼がうまくいっていないと噂が流れていることも知っている。けれど、本当にそうだろうか。わたしには、わたしがそこにいることを当然だと思っているようにしか見えないのだ。いつもいつも、わたしが知る彼は、わたしの隣で瞼を閉じてうたたねをしている。かすかに瞬く北極星のように。
 こころの中に在る、泣いてしまいそうな気持ちを、触れた部分から伝わる熱がほんの少しずつ溶かしていく。わたしは彼の前髪をそっと退けて、額にくちづけを落とした。すると魔法が解けたみたいに彼の瞼が持ち上がり、青がわたしを捉える。
 存外男性らしい指がわたしの腕を掴んで、腰を抱き寄せる。簡単にソファの上で転がされて、視界いっぱいに彼が映った。夜空みたいな深い青と、流れる金糸が頬をかすめる。茨の腕に抱かれるように。囚われて、目が離せなくて。気がついたらくちびるが重なっていた。

「……きゅうに」
「お前がねだったんだろうが」
「そんなこと」
「じゃあもうやめようか?」

 悪戯っ子のように彼の口角が上がる。わたしはうっと言葉を詰まらせて、彼の服を掴んでいた。

「……やだ」

 流れ星のように降ってきたくちづけは、存外甘さを含んでいて。彼はわたしの指を絡め取ると、やわらかい布の上で縫いつけるように握りしめた。簡単に振りほどけない。沈むように落ちていく。その重みを愛おしいと感じられるくらいには、わたしもそれなりだった。寂しいがいつも在る。わたしの中に。そして、彼の中に。きっと消えることはこの先もずっとない。だって、それらをすべてひっくるめて、わたしと彼だから。けれど、ひとりじゃないことは知っている。隣を確認しなくとも、寄りかかれるくらいには。
 耳に残る歓声がわたしの邪魔をする。終わらないで欲しい。そう願う自分と、そう願うこと自体、彼の理想が夢みたいだと決めつけているような気がして、自分が嫌になる。滲みそうになる視界を堪えようと、ぎゅっと眉を寄せる。そんなわたしに気づいた彼が、同じように眉間に皺を寄せてわたしを見下ろした。

「泣き虫め」

 わたしが泣くと、彼は笑う。そのたびに、あーあ、またやってしまった、とわたしは思うのだ。強いひとになりたいと思う。彼が困ったように笑わなくてもいいように。かっこつける暇もないくらい。

「ミヒャエルでいっぱいにして」

 煽るようにやわく爪を立てる。すると彼はふう、と息を吐きながらこめかみにくちづけをひとつ落とした。仕方がないなというように。そして今度はまなじりに、続くようにして耳のふちにくちびるが触れる。布と布が擦れる音と、わたしの名前を囁く彼の声が鼓膜を揺らす。まるで滲むように満たされていく感覚。甘ったるい声が零れると、彼はいくらか満足そうに鼻を鳴らした。
 触れあうたびに別々の温度が移っていく。きっとその差がゼロになることはないけれど、ほんの少しは縮まっていく気がするのだ。寄り添うことはできる。別々の人間でも。たとえ姿かたちが見えなくとも、確かにそこに在るというだけで、信じられる存在になりえることを、救われることもあるのだってことを、わたしは知っているから。


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