浮き雲


 あの日から数日間、雨は降り続いた。週末予定していた体育祭はおそらく延期になるだろうと、今朝のホームルームで担任の先生が言っていた。クラスメイトの約半数は不満そうな声を漏らしていたが、正直夏油はそんなことよりもあの女子生徒のことで頭がいっぱいだった。
 むかし、というよりもどこかの世界で、夏油傑は呪術師であり、また呪詛師であった。呪いというものが存在する世界。術師と非術師という区別があった世界。そこで夏油は、世界の醜さを許せなくなった。非術師弱きもののため、呪術師強きものが身を削り守る。それが当たり前の世界。それはかつて、どこかの世界の夏油自身もそう思っていた。しかしときには呪霊との戦いで命を落とすことだってある。くだらない私欲の絡まりによって殺されることもあった。身を削り守ってきた存在に虐げられる瞬間を目の当たりにしたこともあった。それらはかつての夏油が、正しきこと過去の理想を唱えていたずっとずっと前から存在していたひとつの事実だったが、向き合うごとに夏油はそれらを受け入れられなくなったのだ。
 しかしその世界での夏油傑の物語は終わった。取り込んだ全ての呪霊は綺麗さっぱりなくなり、ただの夏油傑として、かつての戦友の手によって最期を迎えた。それは夏油傑にとって、唯一の最期の迎え方だった。
 呪術師から呪いは生まれない。しかし心残りがないのかと問われれば、そうではなかった。──みょうじなまえ。どこかの世界で夏油傑が心から愛し、捨てきれなかった存在。彼女への未練は死ぬまで断ち切ることができなかった。いや死してなお、現在の夏油に残り続けていた。それは記憶を持って生まれ落ちたことへの、またあるひとつの意味だと夏油は思っている。
 あの日、公園前で見かけた女子生徒がみょうじなまえだという確証はない。あの世界であればたとえ姿がはっきりと見えなくとも残穢ですぐにわかるのだろうが、この世界ではそれらはなく、また確かめてもいなかった。結果がどうであろうとも、夏油にはまだ向き合う覚悟がなかったからだ。むしろ欲を言うなら、このまま記憶だけで留めておきたいと思っていた。呪いが存在しない今世での夏油は、前世の自分が許せなかった非術師と変わらない。そもそも記憶と向き合うことですら、夏油はまだ完全に受け入れられていなかった。

 ずっと自分に嘘をつきながら生きてきた。思い込むということは、案外自分を救う術でもあったからだ。前世の自分がそうであったように。一人になれるときはなるべく一人きりになり、学校などの多数の人のなかで生活をするときは仮面を貼り付けたように過ごす。しかしそれは去年までの話で、現在は少しずつその仮面は薄らいでいる。この世界で出会った、どこかの世界の記憶を持つもう二人の存在のお陰で。

「傑ー、今日バイトある?」
「ないけど……なんかあったっけ」
「いや? 別になんも」
「そう」
「なんかないと駄目?」
「いいや?」

 本日最後の授業を終えてまもなく、突如夏油のクラスに割り込み姿を現したのは、隣のクラスの五条悟だった。少しの濁りもない初雪のような白い髪に、透き通った空のような青い瞳。記憶に残る、もう一人の五条悟と寸分違わず同じ姿だった。しかしその瞳や体に特別な力などはなく、今の夏油と変わらない、ただの人だ。いいや、元から二人ともただの人だったのだけれど。
 こんなふうに、五条はふらりと前触れもなく夏油の目の前に現れる。しかしそこでわざわざ放課後の予定を聞いたりだとかはしないので、夏油はなんとなく彼を疑った。いつもであれば、こちらのことなど気にもせず連れ回すというのに。もちろんそれが五条なりの気遣いだということを、夏油自身もわかっているのだが。

 あのあと夏油は五条に連れられるまま、学校付近に建つファストフード店で冷め始めたポテトフライを食べていた。前世ではこのような場所で食事をするのも何年としていなかったし、実際今の夏油も一人ならば確実に来ないのだが、五条が期間限定のスイーツにハマっているだとかでしばしばこのように強引に連れられることがあった。
 話す内容はどれもとりとめのないことばかりだった。延期予定の体育祭の話。そのあとに待ち構える定期考査の話。そしてお待ちかねの夏休みの話。それは傍から見れば至って普通の高校生男子の会話のようだったが、夏油にとっては少し違和感のある会話だった。しかしそれを五条に頼んだのもまた紛れもなく夏油自身である。目の前でいくつものスイーツを頬張る男よりも、夏油はずっと不器用な人間だった。

「それで? 本当はなにかあるんだろう」

 夏油は指先についた塩を、ペーパーナプキンで拭いながら五条に尋ねた。しかし目の前の男は素直に話すつもりがないのか、しらばっくれたように残り少なくなったジュースをずるずると音を立てながら吸う。

「なんもないって。というより、なんにもなくなった」
「初めはあったということだろう、それは」
「まあね」

 どうやら本当に話すつもりがないらしい。催促するように夏油は五条を見やったが、彼は「そろそろ出よっか。わざわざ付き合ってくれてありがと」と言って、飲み終えた紙コップを冷えきったポテトフライとともに捨てた。

「明日はバイト?」
「うん」
「どっち?」
「配送」

 と言っても、夏油は高校生であるので配達作業ではない。宅配業者に持ち込まれた荷物を配送先エリアごとに仕分けをし、トラックや倉庫内に運ぶ作業だ。それなりに体を使うし(最低限であるが体を鍛えているので力仕事の方がよかった)、なにより今の自分では接客業などの多くの人と関わるような仕事はなるべく避けたかったので、黙々と作業をこなす仕事の方が働きやすかった。ちなみに五条の言う、どっち、と言うのは主に週末に入る引越し業者のアルバイトを指している。
 雨の日に五条の隣を歩くと、いつもどこか逃げ出したい気持ちに駆られた。自分と同じようにビニール傘を差して、靴の先を濡らしながら歩いている姿を見ていられなくなるからだ。今いる自分たちはどこかの世界の夏油傑でもなく、また五条悟でもないのに、刻まれ残った記憶のせいでそのころの自分たちを重ねてしまう。重ねて欲しくないとも、重ねたくもないとも思っているはずなのに。その矛盾がずっと夏油を苦しめている。
 夏油と五条は、高校一年生のとき同じクラスだった。また、前世と同じように家入硝子も。運命的と言うと聞こえはいいのかもしれないが、夏油にとっては最悪の再会、いや出会いだった。おそらく家入辺りも思っていただろう。五条は、少し違ったようにも思えたが。
 高校に入学したばかりの夏油は少し尖っていて、今よりももっと不器用だった。入学式当日。クラスに入ったところであの白髪と泣きぼくろを目の当たりにした瞬間は、三人それぞれがいつかの記憶を持ったまま生まれ落ちたことなんて知る由もなかったし、なにより夏油はそれらに対して折り合いをつけきれていないまま生きていたので、担任の先生に声を掛けられるまで出入り口でしばらく立ち尽くしてしまっていた。そのせいで五条にはすぐに記憶を持っていることがバレて、数日後、教室に入った瞬間に立ち塞がるようにして目の前に現れた。その数日の間、おそらく五条は最初の踏み出し方を考えたのだろう。真っ黒なサングラスも白い包帯もない、澄んだ空の色をした瞳は不安げに揺れたまま、しかしまっすぐと夏油を見つめていたからだ。そのとき夏油は、一瞬で頭で考えていた全てのことを放棄して無性に逃げ出したくなった。激しく揺れる自分の知らない感情と、今現在自分が抱いた感情を、なんとか堪えるようにきつく瞼を閉じた。その姿を見て五条がどう思ったかはわからない。けれどそのとき掛けられた最初の言葉は、「なんて呼んだらいい?」だった。
 学校の最寄駅で五条とは分かれた。相変わらず背の高い彼は周りの人よりも頭ふたつ分ほど抜けていて、混み合った人のなかでもワイヤレスイヤホンを耳に差す姿がよく見えた。見た目は変わらなくとも、五条は随分とこの世界に馴染んでいるように思う。それが夏油には少しだけ眩しく見えた。

 担任の先生の言った通り体育祭は延期になることが決定して、当日は通常授業となった。バイトは休みにしていたので特に放課後の予定はなかったが、夏油はいつものようにそそくさと教室を出て下駄箱へと向かう。廊下には雨の様子を窺う生徒がちらほらと見えた。
 ざあざあと雨足は今朝よりも強かった。アスファルトの上には大きな水たまりがいくつもあって、水面みなもが弾けるような音が繰り返し鳴り続ける。夏油は途中にある公園の前で足を止め、なかをじっと見つめた。
 あの日から、余計に気になって仕方がなかった。会いたくないと思いつつも、やはり彼女の存在を忘れることはできない。公園には入らず、ここから眺めるだけということが、夏油なりのせめてもの抵抗だった。
 眺めているとどうしても思い出す。彼女と過ごした、いつかの記憶たちを。高専の裏に咲く紫陽花を見に行ったときのこと。木漏れ日の下で彼女と様々な会話をしたときのこと。そしてこんな雨のなか、彼女に手を伸ばしたときのことを。
 瞬間、背後で一際大きく水面が弾ける音がした。前世の記憶に夢中になっていた夏油は、少しだけハッとしたように後ろを振り返る。すると視界に映ったのは、たった今思い返していたあの澄んだ深緑の瞳。夏油は息をのんで硬直した。ざあざあと振り続ける雨音が、少しずつ遠のいてゆく。
 頭の片隅に残っていた記憶たちが、まるで自分が体験した過去のように思えた。懐かしさと、申し訳なさと、愛しさと。様々な感情が入り混じって、息苦しくなる。間違いなくみょうじなまえだった。夏油に残る過去がそう言っている。唯一心残りだったのだ。間違えるはずがなかった。
 なまえは数日前と同じように淡いピンク色の傘を差していた。そして振り返った夏油を見やるように傘をわずかにずらすと、ぴたりと足を止め、まばたきを二度ほどしてから小さく会釈をして隣を通り過ぎていった。夏油の下を春色が抜けてゆく。そうして完全にその色が見えなくなったとき、夏油は体中から温度が失われていくような感覚に襲われた。彼女は自分のことを覚えていない。はたまた、覚えていないふりをしたか。どちらにしても、夏油にとっては受け入れ難い事実だった。そしてここにきてようやく、自分が現実に対し想像以上の期待をしてしまっていたことに愕然とした。傘を打ち続ける雨が、余計に自分への苛立ちを煽っていった。

 みょうじなまえは自分のことを、またどこかの世界のことを覚えていない。あるいは覚えていないふりをしているか。夏油は家に帰り、ゆっくりと咀嚼するようにその事実を受け入れた。そもそも生まれたときからそれらの記憶がある方がおかしいのだ。それは前世の世界で深く関わってきた呪いのせいなのか、はたまた別の理由があるのか、夏油には皆目見当もつかないが。そして自分と同じように五条や家入も記憶があって、この世界で再会をしている。あの世界ですら三人が同じ時代に揃ったことは奇跡に近いというのに、この現状は一体なんと説明すればよいのだろうか。夏油にはやはりなにかしらの理由があるとしか思えなかった。それがたとえ一生知り得ぬことだとしても、考えを放棄することなどできない。なにせ生まれる前からこういう性分なのだから。
 そこまで考えて、答えが見つかる前にひとつ浮かんだ感情は、彼女が今世に存在するという奇跡への恐怖だった。前世で同じ学び舎に通い、一時は同じ目的のために生きていた自分たちがまた同じ場所に集っている。本当は他にももっといるのではないかと疑いたくなるほどに。それらに怯えて暮らす、なんてことはないが、それでも回避できるならこれ以上前世の知り合いには会いたくなかった。
 どちらの理由にしても彼女とはこれ以上関わることはないし、関わるべきでもないのだろう。呪霊のいない世界で、彼女はきっと普通の生活を送っている。それはおそらく前世の自分たちにとっての、夢のような小さな幸せだ。それを壊してはならない。たとえ心が彼女に会いたいと、もう一度抱きしめたいと願っても。




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