雨香


 静寂なる楽園を知っている。無色のビニール傘から透ける、灰色の空と艶めく雨粒。緑によって浄化された空間に響く、しとしとと穏やかな雨音。そうして水を含んだつめたい空気を吸えば、ほのかに香る花の匂い。それはひどく懐かしくて、心が凪いでゆくようだった。けれども足りない。どれほど心地よいものであろうとも、どうしてだか夏油の目には全てが褪せて見えてしまうのだった。

 下校時間をとっくに過ぎた放課後。日直の仕事という名の雑用を押し付けられた夏油は、傘を差しながら学校の最寄り駅までの道をたどっていた。春が過ぎて夏の兆しが見え始めたころ。およそ一週間後に体育祭が控えているというのに本日から梅雨入りをした東京は、どんよりとした薄暗い雰囲気に包まれている。それは天候だけに限らず夏油の通う学校の生徒半数も同じように暗い空気に包まれているのだが、反対に夏油はどこか安堵のようなものを感じていた。
 誰もいない通学路は安心できた。多くの人で賑わっている場所よりも、静かで一人きりになれる場所の方が息苦しくならず生きやすいから。それは夏油が持つ、いつかの記憶から来るものなのだが、改善する策もなければ改善しようと考えたこともない。それはこの記憶を持って生まれたことへの、ひとつの意味だと夏油は捉えているからだ。
 通学路の途中には小さな公園があって、遊具はないものの季節ごとに様々な花が咲いていた。そして現在は薄紫色や白色の紫陽花が咲いており、夏油は通学中それを見るのが好きだった。いや、好きというよりも、自然と目がそちらを向いてしまうのだった。
 しかし今日はそれよりも目を奪われるような存在がそこにいた。雨水が艶めく美しい紫陽花よりも、ずっと。
 淡いピンク色の傘を差し、公園に咲く紫陽花をまっすぐ見つめる同じ高校の制服を着た女子生徒。傘のせいでうまくその顔は見えなかったけれど、すっと伸びた鼻筋から見慣れた輪郭、傘を掴む白くて細い指先や、雨のなかでもほとんどうねることのない濡羽色の髪に、夏油はある一人の存在を強く思い描いた。そしてその瞬間、その場に縫い付けられたように体が動かなくなった。
 女子生徒はしばらくその公園を眺めていた。また夏油もその姿を眺め続けていた。先ほどまであんなに穏やかな気持ちだったのに、今ではこのままおかしくなってしまうのではないかと思うほど、心臓が騒がしく音を立てていた。そうしてゆっくりと女子生徒が前に向き直り、歩みを進める。時間にしてほんの一分、いや数十秒程度のことだったが、夏油は呼吸を忘れていたのか、このときにようやく息を吐き出せたような気がした。高校二年、六月のことだった。




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