風切り羽


 数日後、延期された体育祭が開催された。この学校は全学年七組まであるクラスごとに色分けがされていて、学年別クラス対抗ではなく三学年合同チームとし、色別で得点を競うルールになっている。たとえば一組であれば赤、二組であれば緑……など。夏油のクラスは四組。クラスカラーは紫だ。

「この間は土砂降りだったのに今日はすっごい晴れてるね」
「……なんでいるんだ」
「なんでって、サボりに決まってるでしょ」

 校舎に続く階段の一番下。わずかに日陰になっている場所で、夏油は自分が参加する種目までの時間を潰していた。するといつの間にか傍にいた五条が空を見上げながら呟いて、夏油の数段上の階段に腰かける。彼の言う通り天気は先日の雨模様が嘘のように晴れていて、絶好の体育祭日和と言えるだろう。こうして座っているだけでも、じっとり汗が滲むほどには。

「ちょっと暑すぎるな……」
「どうせ走ったら汗かくじゃん。色別対抗リレー出るんでしょ?」
「不本意ながら」
「そりゃみんな足速い人に走って欲しいだろうからね。ま、別にいいじゃん、走るだけだし。借り物競争とかじゃないだけマシじゃない?」

 そもそも借り物競走なんて種目はこの学校にはないが。しかし実際のところ最低二種目は参加しなければいけない条件下のなか、すでに百メートル走に出ることが決まっていた夏油自身、まあリレーならばいいかと、メンバー推薦をされたときに承諾したのだ。

「悟はなんだっけ」
「色別リレーと百メートル走」
「なんだ、どっちも一緒じゃないか」
「僕が二人三脚できる相手いると思う?」
「……確かにいないな」

 障害物競争が始まったのをぼんやりと眺めながら、夏油は五条が誰かと二人三脚する様子を想像してみた。今世でも自分より身長が高く、その上スタイルも抜群にいい彼では大抵の人が合わせるのには困難だろう。思わず小さく笑った夏油に五条は、「お前くらいだよ」と言ったけれど、それはそれで受け入れ難かった。深い意味はなく、絵面的な問題で。

「それは遠慮しておくよ」
「別にやりたいとは言ってないから」
「はいはい」
「やめて、それなんか僕が強がってるみたいじゃん」

 五条が不満そうに顔を歪めたとき、ちょうど校内放送で色別対抗リレー参加者の招集がかかった。夏油はのろのろと腰を上げてから、未だ座り込んだままの五条を見下ろす。

「みたい、じゃないだろ?」
「え、なに? もしかして今喧嘩売られてる?」
「どうだろうね」

 五条は小さく吹き出して、「いいよ、買ってやる」と笑った。そうして立ち上がったあと、大きく屈伸運動をして夏油を見やる。

「負けたら今度の飯奢りな」
「リレーで?」
「リレーと、あと百メートル走も」

 随分と平和だ。しかしこれが本来の普通なのかもしれない。夏油は思わず吹き出して、「リレーは無理だろう」と言った。けれども先ほどより足取りは軽かった。

 五組である五条とは待機場所が違ったため一旦彼とは分かれ、夏油は一組から四組までの色別対抗リレー参加者の待機列に合流した。もう一人のクラス代表者である陸上部の女子生徒が、夏油に向かって手を上げる。どうやら一年生はたった今行われていた学年種目のため遅れてくるらしい。

「あの、色別対抗リレーってここであってますか?」

 すると次の種目紹介の放送が流れたところで
背後からパタパタと駆け寄る音とともに、懐かしい声が聞こえてきた。高すぎず低すぎず、落ち着いた心地のよい音。夏油は思わず固まって、それからおそるおそる背後を振り返った。

「すみません、遅くなりました」

 紫の鉢巻を巻いた男女二人。その一人は、夏油が思った通りみょうじなまえだった。三年生たちが「玉入れお疲れ様」と労るなか、一年生の二人は頭を下げている。男子の方はどうやら三年生と部活動が一緒らしく、元気よく先輩の名を呼んでいた。
 夏油はそんな彼らから目を逸らして、そっと拳を握った。まさかなまえも四組だとは思っていなかった。その上、リレーの代表者だなんて。しかし思い返せば彼女は前世でも運動神経はかなりいい方で、なかでも瞬発力や機敏さは特によかった。
 一年生の男子を先頭にして順に列を作り、係の指示に従ってレーンの内側へ移動する。夏油の前を歩くのは当然同じチームであり一年生のなまえで、夏油の視界には高い位置に結われたつややかな黒髪がゆらゆらと揺れるのが映った。飾り気のないシンプルな黒いヘアゴムを使うところは前のなまえと同じようで、その後ろ姿が夏油にはひどく懐かしく見えた。

「頑張ろうね」

 最後尾に並ぶ三年生たちが後輩である夏油やなまえに向かって声を掛ける。すると前を歩いていた一年生二人がそっと振り返り返事をしたところで、ふと夏油となまえの視線が絡んだ。

「……」

 前世の夏油なら、後輩の緊張をほぐすように先ほどの先輩と同様やさしく声を掛けただろう。心に寄り添うように。やわらかな笑みを浮かべて。しかし今世の夏油にはそんな余裕も、気力も、持ち合わせてはいなかった。まるでときが止まったような感覚に陥って、思考が停止する。

「よろしく、お願いします」

 先に口を開いたのはなまえだった。あの世界で初めて会話をしたときのような、小さくて、けれどたどたどしさはないまっすぐな声。夏油はその瞬間、彼女があの日々の記憶を覚えていないのだと悟った。それほど彼女の態度や姿は、前世で最初に出会ったときと同じだった。
 夏油が答えるより先に、なまえは先頭を歩くクラスメイトとの間隔を保つように小走りで向かう。交わった視線から解放された瞬間に、夏油はそっと息を吐いた。彼女が自分の返事を聞かずに済んでよかったと思ったのだ。それくらい夏油は内心動揺していたし、またなんて声を掛けるべきなのかもわからなかった。

 校庭の中心まで移動したとき、別の場所から入場した五条と目が合う。そうして五組である彼はそのまま隣の列に並んで、少々驚いたように夏油の前に立つ人物──なまえに視線を送った。

「四組だったのか」
「……まさか君、知っていたのか?」
「ついこの間。たまたまね」

 しかしその口ぶりは、なまえに記憶がないことまで知っていたようなものだった。思わず夏油は目を閉じる。今抱いた感情は、どう考えたって八つ当たりだ。彼は悪くない。

「記憶はないんだろう?」
「多分ね、僕は直接話したことないし聞いただけだから」
「聞いたって、誰から」
「硝子から」
「……」
「あいつは僕からの質問に答えただけだよ」
「……わかってる」

 確かに家入はわざわざ世話を焼くタイプではないだろう。ましてや自分たちに対しては特に。
 五条はそれ以降なにも言わなかった。また夏油もなまえに視線を落とすことはなく、奥に見える校舎を眺めながらリレーのアナウンスをぼんやりと聞いていた。

 色別対抗リレーの結果は、五条のいる五組が一位で夏油たち四組は二位という結果になったが、そのあとの百メートル走は夏油が勝利したため、ふたりの勝負は引き分けとなった。体育祭も無事に終わりオレンジ色の光が差し込んだ廊下には、夏油のようにすでに着替えを終えて下校する生徒や、未だクラスカラーの鉢巻を巻いたまま写真を撮り合う生徒で溢れている。
 多くの生徒はこれからクラスメイトとの打ち上げに参加するのだろう。とは言っても近くのファミリーレストランや、学生にもやさしい価格帯の焼肉屋などに集合して食事をするだけなのだが。もちろん夏油は不参加である。去年は五条と一緒に学校から離れたラーメン屋に寄ってから帰ったのだが、今年彼は打ち上げに参加すると言っていたので一人で昇降口へと向かった。
 校門付近にも打ち上げに向かう生徒で溢れていた。夏油はその隙間をするりと抜けると、普段使う道とは別の、少し遠回りになる方へと進み、いつもよりゆっくりと歩いた。日中よりも気温が下がった静かな通りは、過ごしやすくて夏油の心を落ち着かせた。
 すると道の先に建つコンビニエンスストアの前でなまえの姿を見つけた。白いブラウスの袖を数回折って捲りポニーテール姿のままの彼女は、記憶にある高専の制服姿とは打って変わって爽やかで、また女子高生らしかった。別に避けていたわけでもないけれど、わざわざ遠回りをしたときに会わなくてもいいだろうに。少し複雑な気持ちになりつつも、瞬時に彼女の存在に気付いてしまう自分に嫌になった。
 なまえは誰かを待っているのか駐車場の近くに留まったまま、スマートフォンに視線を落としていた。しかしやがて夏油が近付くと顔を上げ、少し驚いたように目を見開く。

「お疲れ様」

 ぎりぎりまで声を掛けるか迷って、結局夏油はそれだけ言ってなまえの前を通りすぎた。するとちょうど視界から彼女の姿が見えなくなったところで、「お疲れ様です」と背後から彼女の声が響く。それだけで彼女へ抱いていた面倒な感情や思考が一瞬にして吹き飛んで、胸が締めつけられるように窮屈になった。そうしてずっと自分のなかに空いていたなにかが、満たされてゆくような心地になったのだ。




prev list next


- ナノ -