花のあとさき


 夏の名残りも少しずつ薄らいで、空が高くなってゆき、乾いた風が秋桜を揺らすようになった。なまえの熱が下がってすぐに夏油は放課後学校から離れた喫茶店へと誘い、今までのことやこれからのことを話した。夏油自身、次の週末まで待てなかったのである。
 前世のことについて、彼女はほとんどのことを思い出していた。この場合、思い出すという表現が正しいのかどうかよくわからないが、とにかく前世の日々のことを記憶していた。彼女は思い返すようにぽつぽつと、どこか懐かしむように過去を語ったけれど、夏油に対し当時のことを咎めたりだとか、詰問したりだとか、深く踏み込んでくることはなかった。反対に夏油の方が心配になって、なにも聞かなのかと尋ねたところ、彼女はこう言ったのだ。「今ここに傑先輩がいるならそれでいい」と。

「前世のわたしが知り得なかったことを、今のわたしがあれこれ詮索するのは違うと思っています。わたしは確かにあの世界のみょうじなまえの生まれ変わりで、記憶があったとしても、あの人自身ではない。わたしたちが継ぐべきところは、もっと他にあると思うんです」

 そう言ってなまえは夏油をまっすぐと見つめた。ああそうだ、これがみょうじなまえという、過去の自分が愛して手放せなかった人なのだと痛感した。彼女は夏油よりもうんと強くて、眩しかった。前世でも、今世でも。夏油はそんな彼女のことを無意識に心頼みとし、心の拠り所としていたのだ。実際のところ、彼女と過ごした過去があったから乗り越えられたこともたくさんあった。

 近ごろ続いていた秋霖も今日で終わるらしく、明日からは晴れやかな日々が続くそうだ。本格的に周囲は受験モードに入ってゆくなか、夏油は以前と変わらないペースで毎日を過ごしている。週に最低二回はなまえと下校し、帰りにファストフード店や喫茶店に寄って勉強をしたり、他愛ない話をしたり。後者は彼女の記憶が戻ったのもあって、答え合わせをするようにむかしを振り返ることもあった。けれどももちろん以前と違う部分や、新たな部分を発見することもあって、前世の二人とは違う関係性を築いている。まあ、当然といえば当然なのだが。

「傑〜、帰ろうぜ〜」
「無理。今日はなまえ」
「まーたかよ」

 あれだけ悩んでいた癖に付き合ったらこれか。と偶然廊下で出会った五条は、夏油の隣に並んで両手を顔の横でフラフラと揺らした。じめじめと湿った空気のせいかどことなく気分が悪くなってゆくのを夏油は感じながら、それをぶつけるように隣の白い男を見やる。いいや雨のせいなどではない。原因はわかりきっている。

「あ、五条先輩もいる」
「やっほー。今日も一緒なんてラブラブだねえ」
「からかうのやめてください」

 いつもの待ち合わせ場所となっている昇降口前のベンチで、なまえはスマートフォンを操作しながら夏油を待っていたようだった。すると五条がその隣にどっかりと座り、「だって昨日もでしょ? なまえだってバイトあるんじゃないの?」と馴れ馴れしく話を続ける。そう、原因はこれだ。彼女の記憶が戻ったということは、つまり五条や家入のことも思い出したということで。五条も遠慮なく彼女と話すようになったのだ。

「アルバイトは週に二、三日なので……。それよりなんで五条先輩がそのこと知ってるんですか?」
「前に話してくれたじゃん」
「五条先輩には言ってないです」

 持ち前のコミュニケーション能力の高さからなのか、五条はすぐになまえと打ち解けてあっという間に距離を縮めた。なまえも五条に対しては遠慮がなく、ときどき前世の七海のようにバッサリとあしらうこともある。まるで親密な友人のように。それら全てが夏油にとってなんとなく面白くなかった。遅かれ早かれそうなっていただろうが、そもそも前世で一番初めに彼女と親しくなったのは自分のはずで、夏油、五条、家入の三人と、灰原、七海、なまえの後輩三人とで連むようになったのも、夏油がなまえと関わるようになったのがきっかけだった。その上夏油が高専にいた当時は、五条となまえはそこまで関わってなかったはずで。端的に言えば、嫉妬しているのだ。五条となまえの関係性に。くだらないと、自分でもわかっている。
 目の前で繰り広げられるテンポのいい会話に耳を傾けていると、なまえが不意に立ち上がって夏油の制服の裾を摘んだ。それはちょうど五条からは見えぬ位置で、彼からはただ単に彼女が立ち上がっただけのように見えるだろう。可憐な仕草に夏油は小さく胸が高鳴るのを感じながら、彼女を見下ろす。すると五条は「はいはい」と軽く笑いながら二人の横をするりと抜けていった。

「二人がイチャイチャしてるところ見ながら帰るの、なんも面白くないからじゃあねー」

 別にイチャイチャしながら下校しているつもりはなかったが、止める理由もないので夏油となまえはそのまま五条を見送った。派手な男がその場から去ると、彼女は「相変わらず嵐みたいな人ですね」と言って笑った。夏油がなまえの細くてやわらかな手を取る。きょとんと、まあるくなったまなこが夏油を見上げた。

「傑先輩?」
「ああいや……その」

 咄嗟に出てしまった行動に、夏油は決まりが悪く視線をさまよわせた。心のなかで、恋愛初心者か、と(実際のところ今世ではそうなのだが)自分に突っ込む。今すぐ数十秒前に戻ってやり直したい。すぐさまなんでもないと取り繕うように微笑んで手をほどこうと試みてみるが、しかしそれはなまえによって阻止されてしまった。むしろ深く結ぶように絡められる指先に、夏油はほんの少しだけ戸惑う。すると彼女は「今日はこうして帰りましょう」と言った。

「いちゃいちゃ、です」
「いっ……」

 なまえはこんなにも大胆だったろうかと考える。恥じらいながらもどこか張り切った様子で自分を見上げる彼女に、夏油は簡単に揺さぶられた。なんだこの可愛い生き物。そんな決まり文句のようなそれが頭のなかに浮かんで、一瞬目を閉じた。そして同時に、自分はこんなにも奥手だっただろうかと考えた。

 気が付くと何人かの生徒に見られていたことに気付き、夏油は半ば逃げるようになまえの手を引いて昇降口を抜けた。淑やかな雨が降り注ぐなか、二人は夏油の大きな傘のなかに入り帰路をたどる。傘を差さなければならなかったため、手を繋いだまま帰ることは叶わなかったが、彼女の手は夏油の制服を摘んだままだった。

「……ちょっと嫉妬した」

 夏油がぽつりと呟いた。するとなまえは一度夏油を見上げたあと、すぐに前に向き直って小さく笑う。しかしそれは馬鹿にするようなものではなく、どこか喜びを隠しきれないようなものだった。

「五条先輩ですか?」
「うん」
「大丈夫ですよ」

 なにが大丈夫とは言わなかったが、夏油も詳しくは聞かなかった。実際前世でなまえがずっと自分のことを好いていたことはなんとなくわかっていたし、今世でもこれ以上ないほど彼女は自分のことを想ってくれていると理解していたからだ。それに二人になにかがあろうとなかろうと、今の夏油には関係のないことであり……。そもそも嫉妬すること自体、お門違いなのだ。

「でもそうですね、こんなこと言ったら傑先輩は困ってしまうかもしれませんけど、わたしも前世で五条先輩にやきもち焼いてましたよ」
「……どういったことで?」
「うーん、二人があんまりにも特別だったから、ですかね。お互いに」

 そう言ってなまえは、むかしを思い出すように遠くの方を見つめた。

「もう何年もです。傑先輩と出会ったときから、ずっと。それくらい傑先輩にとっては五条先輩が大切で、五条先輩にとっても傑先輩が大切だってわかっていたので……だから今、ほんの少しだけ嬉しいです」

 それからなまえはまるで告げ口をするように、前世で五条がこんなふうに夏油との思い出話や自慢話をしてきた、と細かく説明した。任務中での出来事。夜更かししたときの何気ない会話。なかには恥ずかしくなるような話題もあったけれど、しかし夏油にはそれを止めることは叶わなかった。一周回って前世の自分にまで嫉妬してしまいそうなほど、なまえの口調は穏やかで、まるで宝物に触れるようなやさしいものだったからだ。

「これからたくさん、色んなところに行こう」

 あのころの二人は今の二人よりも自由で不自由で、過ごした時間はあまりにも短かった。変わらぬ場所。見知らぬ場所。この世界は同じのようでそうじゃない。そうして二人も同じようではあるが、決して同じではない。二人はまだ始まったばかりだった。
 なまえは嬉しそうに微笑んで、ほんの少しだけ先ほどよりも近付いた。無色のビニール傘から透ける、灰色の空と艶めく雨粒。緑によって浄化された空間に響く、しとしとと穏やかな雨音。そうして水を含んだ空気を吸えば、ほのかに花の香りと、なまえの甘い香りがした。微かに感じる体温、息遣い。それは確かに夏油の心を安らがせ、そして同時に背筋が伸びるような思いがした。結局自分は彼女から離れられないらしい。けれどもそこに憂鬱さはなく、むしろどこか清々しささえあった。これでよかったのかもしれない。夏油はこっそりと、そんなことを思った。




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