結び


 夏休みが終わると、すぐに夏油たちの通う高校では文化祭ムードに包まれる。去年は夏油たちの修学旅行が北海道で九月だったため文化祭は十月に開催したが、基本的には毎年九月に行われることが多かった。準備は夏休み中から始まり、夏油たちのクラスはホットドッグと飲み物の販売、なまえのクラスはモザイクアートの展示をすることになっている。当日は天気もよく、まだまだ残暑も蝉の声も続く夏らしい気候で、和風カフェを行うことになった家入のクラスから響く風鈴の音がそれらしい雰囲気を作っていた。
 普段よりも早めに登校し当日の準備を終えて、開会式のために体育館へ向かう。するとその途中、五条が夏油の元へと寄って来て「お前は全然いつもと変わらないね」と皮肉じみたことを言って隣に並んだ。ちなみに五条のクラスはお化け屋敷を行うようで、文化祭時に作られるクラスティーシャツにもお化けのイラストがプリントされている。
 夏油は五条を無視してスマートフォンに視線を向けたまま、画面をタップしてメッセージを打ち込んだ。送り先はなまえで、ここ数日前からまた夢見が悪く眠れない日々が続いていると聞いて心配の内容を送ったところだった。五条は画面を盗み見て、それから大きくため息をつく。

「付き合った途端これですか。はいはい、あの悩んでた時期はなんだったのか」

 五条には夏休み中も定期的会っていたので、そのときに一応報告だけはした。「よかったじゃん」と彼は別段大きな反応はしなかったものの、表情は穏やかだったので内心気になってはいたのだろう。なんだかんだで話を聞き、背中を押したのもまた彼だったから。

「いや……なまえがまたあの夢を見ているようなんだ」

 夢の話もしていたのでそれだけ言うと、五条は表情を一変させ「そうか」と静かに呟いた。なまえが前世の夢を見るたびに、夏油はむかしの罪を目の前に突き立てられているような気持ちになった。後悔はしていない。それでも前世の自分が選択した道によって彼女がどれだけ苦しんだのかを、今世の彼女が体現しているようで辛かった。

「今日は? 来てんの?」
「ああ。寝不足なだけだから問題ないって本人は言ってる」
「……そう」

 けれども今日は暑さの厳しい日だ。去年のこともあって五条も気にかかるのか、体育館に足を踏み入れたところでなまえの姿を探していた。周りの生徒よりも頭ひとつ、いやふたつ分ほど抜けた二人はすぐに彼女の姿を探し出し目を凝らす。他のクラスメイトと話しながら列に並ぶなまえはここからだと確かに平気そうにも見えるが、薄らと隈のようなものとどことなく顔色も芳しくないようにも見える。するとぱちっと偶然目があって、彼女は少々眉を下げて笑顔を見せた。先ほど夏油が、あまり無理をするなとメッセージを送ったからだろう。彼女の隣に並ぶクラスメイトたちは、夏油と五条を見やってひどく驚いたような表情を浮かべていた。

 文化祭は二日間開催され、一日目は在学生のみ、二日目は保護者や卒業生、また他校の生徒など一般者への参加が認められており、本日は初日だ。開会式を終えた校内は最後の準備に取りかかる生徒や、すでに校内を回り始めている生徒もいる。夏油の担当は主に裏方で、時間も開会式後からお昼前の予定だったので、そのまま教室に残り準備の手伝いをしていた。なまえのことが少々気になったが、午後からともに校内を回る予定なのでそれまでの辛抱だと言い聞かせる。モザイクアートを展示する彼女のクラスは、準備は大変だが開催時の仕事はほとんどないので午前中はクラスメイトと回るそうだ。

「夏油お前、彼女できたってマジ?」

 最後の準備を終えていよいよ開店というところで、同じく裏方のクラスメイトの男子が突然声を潜めて夏油に尋ねた。他にも周りにはクラスメイトがいて、作業はしているものの皆気になっていたのか視線だけは夏油に向いている。特別隠していたわけではないが、わざわざそんな話をする仲の人は夏油には五条と家入しかおらず(家入自身は夏油の恋愛事情など興味ないだろうが)、またこのような類の話題、しかも自分の話となると途端に憂鬱になる夏油は、一瞬眉を顰めたのち「急になに」と分厚い壁を作るようにそっけなく答えた。

「この間お前と後輩の女の子が一緒に帰ってたってクラスの女子が言ってたからさ。今日開会式のときもイチャイチャしてたし」

 イチャイチャ? と夏油は疑問に思ったがあのアイコンタクトのことを言っているのかと納得して、面倒だなと内心うんざりした。わざわざ乗っかってやる必要はないが否定するのも違う気がして、「ああなるほど」と独りごちるように呟く。すると男子は「え、いつから?」と興味津々で身を乗り出した。

「悪いけどこれ以上答えるつもりはないよ。ほらこっち先片付けて」
「はー……モテるくせに彼女作る気ゼロだったからこっちは安心してたのに……裏切りだわ」

 勝手に安心していたのはそっちだろうと思ったが、そもそも今世の夏油は他人に興味がなく自分が多数の女性から好意を持たれていると思っていないので、冷めた目をして男子を見た。確かに今まで一度も告白がなかったかと問われれば否定するし、ある程度自分の容姿が身長や体格を含めて悪い方ではないことは自覚しているが、けれども人から言われるほどではないと思っている。前世や五条と比べれば尚更。それになによりも自分の内面を理解しているから。するとクラスメイトの男子は表情を歪め、「お前まじで……いやいいわ、とりあえずおめでと」と作業に戻っていった。

 仕事を終える間際に五条が教室にやってきて、二人でホットドックを食べてから家入のクラスの和風カフェに寄ったり、五条のクラスのお化け屋敷を覗いたりした。二人とも一切驚いないのでお化け役の人はさぞかしつまらなかっただろう。するとあっという間になまえとの約束の時間になってしまったので、夏油は待ち合わせ場所の昇降口前のエントランスホールに向かった。

「なんで悟まで来るんだ」
「いいじゃん別に。流石に一緒に回りはしないって」

 エントランスホールには小さなベンチがいくつもあって、なまえはそこで友人と一緒に座って夏油を待っていた。しかしその様子はどこか普段と違っていて、友人も心配そうになまえの顔を覗き込んでいる。
 こめかみを抑えたなまえと目が合った。すると彼女は一瞬ほっとした表情を見せ立ち上がろうとするけれど、すぐに頭が痛くなったのか眉を寄せ、そののちふらりと体制を崩した。

「なまえ!」

 大きく声を張り上げたのは意外にも五条の方で、夏油は声を上げる間もなく体が勝手に動いていた。滑り込むようにして体を支え、抱きとめる。その体は想像以上に熱くて、夏油は瞬時に熱があるのだとわかった。

「朝は大丈夫だって言ってたんですけど、どんどん具合が悪くなって……」

 なまえの横で心配そうに声を震わせる彼女の友人に、夏油は努めて穏やかな表情を見せた。

「わかった。ありがとう。このまま私が保健室に運ぶから、君には担任の先生への連絡を任せてもいいかな?」
「わかりました」
「なまえ、揺れるから頭が痛くなるかもしれないけど少しだけ我慢してくれ」
「傑、僕も行く」

 なまえは小さく頷いてから夏油の服を力強く握った。隣で五条がどこか切なそうに目を細めていたが、夏油はひとまず彼女を安静にさせるためにできるだけ揺らさぬように保健室を目指した。一瞬にして血の気が引いてゆくようだった光景に、心臓が嫌な音を立てている。保健室に駆け込んだところで彼女の具合が突然よくなるわけでもないのに、それでも夏油は歩調を緩めることができなかった。
 なまえの母に連絡をしたそうだが出先で到着までに少々時間がかかるらしく、ひとまず保健室で安静にすることとなった。友人の言う通り今朝はそこまでひどくなかったらしいのだが、再度体温を測定すると熱は三十八度近くまで上昇おり、近ごろの寝不足のせいかはたまた夏油が隣にいて安心したお陰か、横になるとすぐに眠りについた。

「お前が抜けたとき、今日みたいになまえが倒れたんだ」

 五条は俯いたままぽつりと呟いた。おそらくそれが理由で先ほどあんなにも取り乱したのだろう。実際のところなまえとは五条の方が圧倒的に付き合いが長いし、夏油が高専を抜けたあともずっと彼はなまえを気にかけていたはずだ。夏油はなんて答えるべきかわからず、くちびるを何度か開閉したのちきゅっと噤んだ。

「でもあいつは強かったよ。無茶して周りから心配されることも結構あったけど、あの日だって……。だから多分傑だけだ。なまえがあんな安心したような顔するの」

 ピンチのときに僕が駆けつけたってあいつはあんな顔しなかったもん。そう言って五条は目を瞑ったままのなまえを見つめた。どこまでもまっすぐだったあのときの彼女を思い浮かべ、夏油はなまえの手をぎゅっと握りしめた。

 保健室内だけがひっそりと取り残されたように静まり返っていた。遠くからは未だ文化祭で盛り上がっている生徒の声が聞こえる。しばらくすると五条は持ち回りの時間だからと保健室を抜け、また養護教諭も呼び出され少し前から席を外しているので、室内には夏油となまえの二人だけだった。
 熱のせいかぺたりと貼り付いた彼女の前髪をそっと払う。するとそれが煩わしかったのか彼女の瞼がぴくりとわずかに震え、そうしてそっと深緑色の瞳があらわになって夏油を映した。

「ごめん、起こしてしまったね……体は大丈夫そう?」

 いつもよりも潤んだそれはしっかりと夏油に向いているはずなのに、なまえからはなんの答えも返ってこなかった。もしかしたらまだ意識が朦朧としているのかもしれない。変化を見逃さぬように夏油はじっと見つめると、不意に彼女は声にならない空気をくちびるから漏らして困惑したような表情を見せた。するとみるみるうちに瞳の上には水の膜が張って、気がついたらあっという間にぽろぽろとそれが零れ落ちていった。
 えっ、と夏油が驚くより先に、なまえの腕が伸びて首元に回った。ひゅっと息をのんで、横目で隣を覗き見る。すると彼女は夏油の耳元で「傑先輩」としっかりと夏油の名を紡いだのち、声をあげて泣き出したのだ。驚き困惑しながらなんとか状況を把握しようと夏油がなまえを呼ぶ。すると彼女は子供のようにわんわんと泣きながらこう言ったのだ。

「どこにも行かないで。一人にしないで」

 夏油はハッとして、次の瞬間には彼女の体を気遣うことも忘れぎゅうっと力強く抱きしめた。なまえはなおも泣きながら、ごめんなさい、置いていかないで、死んじゃやだ、傑先輩、傑先輩、と手繰り寄せるように力をこめる。

「ここにいるから……っ、ごめん、ごめんなまえ」

 鼻声だったが、それでも夏油はなまえの名前を呼んであやすように何度も頭を撫でた。胸が張り裂けそうなほど痛くて苦しい。こんなにも彼女が泣くところを見るのは、これが初めてだった。きっとあの日もそうだったのだろうと、簡単に想像ができる。

「大丈夫、大丈夫だから……泣かないで」

 それでも、彼女はしゃくりあげるほど激しく泣いて掴んだ手を離そうとしなかった。やがて夏油のクラスティーシャツの肩口が広く濡れ、肌にまで滲みてきたころ、ようやく彼女は落ち着いたように呼吸を繰り返す。それでも涙は止まらないのか、時折鼻をすする音が聞こえてきた。

「すぐる……っ、せんぱい」
「うん」
「わたし、わたし……」
「うん……夢を見たんだね」
「夢だけど、夢じゃないって……わかっ、て……」

 うんうんと、何度も頷きながらも頭を撫でる手を止めなかった。なまえは夢で見たこと、それが夢ではないことまで理解したことを、記憶をたどるようにぽつぽつと語った。

「うん、私も、ずっと前から……私のなかにあるのがただの夢じゃないって知ってた。初めから君のことをわかってて、隣にいたんだ」

 そうずっと。なまえを見ているようで違ったのかもしれない。夏油はまるで懺悔をするように真実を告白した。

「わたし、ずっと……ずっと、傑先輩に会ったら、言いたいことがあって」

 姿勢を正すために夏油は上体を起こそうと試みたが、なまえに阻まれてしまいそれは叶わなかった。ずっと言いたかったこと。それは夏油には想像がつくようで、つかないような、恐ろしいけれど聞かなければならないことだった。無意識に手が震えるほど、夏油は緊張して、怖くなった。
 なまえはしばらく沈黙したのち、零れ落ちた涙を拭って押し付けた額をそっと離した。二人の間にはわずかな空間が生まれ、夏油の心臓はさらにドクドクと嫌な音を立てる。すると彼女は泣きそうな表情のまま、夏油を見上げた。

「ずっと……ずっと守ってくれてありがとう。苦しんでたこと、わかってたはずなのに、本当のところまでわからなくてごめんなさい。一人にさせて、ごめんなさい。どこまでもやさしくて、強くて、だけど繊細な傑先輩のことが、ずっとずっと忘れられなくて……、わたし、今でも……っ」

 結局途中からまた泣きじゃくるなまえの言葉を遮るように、夏油は強引にキスをした。やさしくて儚い言の葉が、夏油の胸を突き刺すように落ちてゆく。

「っ、う……すぐ、る……せんぱい」
「頼むから、もうなにも言わないでくれ……」

 その先を聞いてしまったら、本当に耐えられそうにない。なまえが謝る必要なんて、どこにもないのだから。鼻先がぶつかるほどの至近距離で彼女の涙を拭いながら、祈るようにもう一度キスを落とす。今度はくちびるごと奪うような荒々しいキス。隙間から舌を伸ばして、これ以上彼女が自分を責めるような言葉を吐かないように絡めとる。

「せんぱ……っ、だめ、ねつ……移っちゃう」
「っ、そんなもの、いくらでも移せばいい」

 涙でぐしゃぐしゃになったなまえの顔は決して美麗とは言えなかったけれど、顔を真っ赤にして濡れた睫毛を震わせ、自分のことでこんなにも乱れる姿を見て可愛くないと思うはずがなかった。熱のせいか彼女の舌はひどく熱くて、触れた部分から溶けてしまいそうになる。無我夢中でキスを続け、彼女が泣き止んだところでようやくくちびるを離す。熱と酸欠で惚けたなまえは、眉尻を下げたまま夏油をぼんやりと見上げていた。

「高専で、傑先輩に会えてよかった」

 ぽそりと呟いて、それから愛おしむように笑う。すると遂に夏油の目尻からは、そっとひとしずくの涙が零れ落ちた。かっこ悪いだとか、情けないだとか、頭のなかにぐるぐるとそんなようなことが浮かんだが、止められなかった。

「また、一緒にいたいです」
「なまえは……本当にそれでいいのか?」
「今世でも傑先輩のこと大好きだから」

 今度は夏油から顔をうずめるようになまえを抱きしめた。別の世界に生まれ変わったというのに、二人はまた巡り巡って隣にいる。まるで呪いのように引き寄せあっているさまに、因果を感じずにはいられなかった。しかし、もしそうだったとしても……。
 するとガラガラと保健室の扉が開かれる音がして、養護教諭がカーテン越しに声を掛けた。二人は思わずびくりと体を震わせ、夏油は咄嗟に距離を取る。どうやらなまえの母親が迎えに来たらしく、眠っているなら彼女を起こして欲しいとのことだった。
 別れの兆しに、なまえは抵抗するように夏油の小指を握った。彼女がどこまで思い出したのかはわからない。けれどもあのときの夢を見てしまったのなら確かに離れ難いだろう。夏油は目線を合わせ、慰めるように穏やかな声で囁いた。

「大丈夫。もう離れないから。なまえが元気になったらまたきちんと話そう」

 泣き続けたせいで彼女の目元は真っ赤になっていて、指の背でそこをなぞるとわずかに熱も孕んでいた。熱よりもこっちの方が心配されるかもしれないな、と夏油は不安に思いながら、するすると指を滑らせる。するとなまえは小さく頷いて、最後にそっと夏油を抱きしめた。




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