天の海


 交際を始めた二人は、そののち週に一、二回ほどのペースで逢瀬を重ねた。と言っても夏油は一応受験生であるのでカフェや図書館に集まって勉強をすることが多く、ときどき映画を見に行ったり勉強後に食事をしたことはあれど、それらしいことはほとんどしていなかった。夏油自身もこれでいいのかと何度かなまえに尋ねたことがあったが、時間を作ってくれるだけで嬉しいと言われてから、それに甘えている形になっている。正直なところ、対人スキルにおいて知識と記憶はあれど圧倒的に経験が不足している現在の夏油にはそれがちょうどよく、またなにも知らない彼女に取って付けたような態度をしたくなかったのもあったので有り難かった。後者は去年のクリスマスに思ったことと同じような理由だ。

 夏休みも終盤となり、流石に一度もそれらしいデートをしないのはまずいだろうと、夏油は最終日の八月三十一日に勉強抜きの予定をなまえと約束した。江ノ島の方まで足を運び海を見るか、奥多摩や秩父の方まで行って森林浴か、はたまたテーマパークに行くか、一週間以上前から夏油の頭のなかはそのことでいっぱいだった。しかし天気は数日前から雨の予報で、当初考えていたプランは全て白紙となった。
 結局、夏休み最終日は都内の水族館に行くこととなった。場所も駅からそれほど離れていないため雨でも大丈夫だろう。午前中に待ち合わせをして、お昼を食べてから水族館に向かい、翌日から学校も始まるため日暮れごろに解散予定。健全すぎるスケジューリングだ。
 待ち合わせは水族館に向かう途中の主要駅の改札口にし、夏油は少し早めに向かいなまえを待った。周りには夏油と同じように夏休み最後の思い出を作ろうと、同年代らしき人々が行き交っている。天気は予報通り雨だったがそれほど強くなく、むしろ連日続いていた猛暑が緩和されて過ごしやすく感じられた。
 時間の数分前になまえは待ち合わせ場所に現れた。夏らしい爽やかな色合いをしたワンピースは彼女にとても似合っていて、自然と夏油の表情が緩む。「お待たせしました」とひらりと裾を揺らし駆け寄る彼女に夏油は、「時間前だから全然気にしなくていいよ」と言って手を取った。

「ここから二十分ほどでしたっけ?」
「うん。確かこの線だね。人多いから気をつけて」

 行き交う人の間を縫うように進みながら、やってきた電車に乗車する。なかはホームと同じように混み合っていて、夏油はなまえを自動ドア横のスペースに移動させると、庇うようにして向かい合った。開閉音が鳴り、扉が閉まる。ゆっくりと電車は発車した。

「イルカのショーの時間は決まってるみたいだね」
「そうですね。十一時半と、十三時、十五時、十六時半……あっ、アシカとペンギンのショーもありますよ」

 真下でスマートフォンを操作するなまえは、ぱっと顔を上げて画面を傾けた。上体を屈め、彼女が差し出すそれを覗くと、普段とは違いハーフアップにした自身の髪がさらりと肩から落ちたので払いのける。水族館の公式サイトに載せられたイベントプログラムページには様々なショーの時間が記載されていた。

「へえ、案外たくさんあるんだね。ほら見て、カワウソのショーもある」

 画面を指差すと、なまえは「本当だ」と言って、ぱっと顔を輝かせた。わかりやすい反応に思わず「ここも行こうか」と告げると、彼女は嬉しそうに頷く。やはりもっと早くにこうするべきだったのかもしれないと、夏油は内心思ったのだった。

 水族館に向かう前にまずは昼食を取ろうと、二人は駅前の複合商業施設内の最上階にあるダイニングカフェを訪れた。お昼どきにはまだ早いことからそれほど店内は混み合っておらず、すんなりとなかに案内される。高い天井と各所に配置された観葉植物が、開放的で明るげな雰囲気を作っているお洒落な店内。片側は大きな窓ガラスが一面に続いているので、天気のいい日は自然光が差してあたたかな雰囲気が増すだろう。
 夏油はグリルチキンとサラダのセット、なまえはクラブハウスサンドとサラダのセットを注文した。どちらもサイズが大きく、なまえはサンドイッチに苦戦していたが、食べきれなかった残りはぺろりと夏油が食べ尽くした。特別スポーツなどをしているわけではないが、元々体が大きいことと、体が思うように動かないことが苦痛でトレーニングだけは欠かさず行っているからか、食事の摂取量は多い方だった。自分の食事を終えたあとにもかかわらず、ぱくぱくと食べ進める夏油を見て、なまえは目をまあるくさせていた。

 食べ終わるころには入り口に待機列ができあがるほど混み合っていたので、二人は食事を終えてから早々に会計を済ませてカフェを出た。そうしてそのまま複合商業施設を抜け、水族館を目指す。相変わらず雨は降り続いており、二人はそれぞれ傘を差しゆったりとした歩みで向かっていった。
 普段勉強の時間に付き合ってもらっているからと、夏油は二人分のチケットを購入した。入り口を潜ると、すぐに大きな水槽のなかを泳ぐ銀色の魚たちが二人を迎える。なかは空調が効いているからか涼やかで、夏油が腕を差し出すとなまえはおずおずと腕を絡めぴたりと並んで歩いた。

「イルカのショーまで時間があるからこのまま順路通りに行こうか」

 色鮮やかな熱帯魚が泳ぐ水槽の前で、なまえは時折解説文を読みながらなかを覗き込むようにして眺めていた。そういえば彼女は今年の修学旅行で沖縄に行くと言っていたので、あの水族館にもきっと行くだろうと、遠い世界に思いを馳せながら夏油もまた優雅に泳ぐ魚を見つめる。今の自分には関係のないこととはいえ、こうして思い返してしまうほどには強烈な記憶だった。
 クラゲのエリア、淡水魚のエリアを抜けると、目の前に広がったのは壁一面の大きな水槽と、そこから続くドーム型の水槽トンネルだった。真っ青な美しい水のなかを、マンタやエイのような大きなものから群れで泳ぐ小さなものまで、様々な種類の魚たちが泳いでいる。その景色は実に壮観で、二人は思わず感嘆の声を漏らした。

「すごい、綺麗ですね」

 上から差し込む光が、水のなかで屈折してきらきらと揺れている。するとその水光の隙間からマンタが優雅に二人の頭上を泳いでいった。

「大きい……!」
「あれがきっとナンヨウマンタだね。最大で四メートルほどにもなるらしい」

 そもそもマンタは希少で、日本の水族館で見られるのも数箇所しかないと言う。夏油の言葉を聞いたなまえは頭上を見上げ、「あんなふうに泳げたらきっと気持ちいいでしょうね」と、憧れのようなまなざしでそう言った。

「うん、そうだね」

 水のなかではなかったけれど、君はあの上に乗ってあんなふうに濃紺の空を泳いだことがあっただろう。その言葉は飲み飲んで、夏油はそっと肯定した。さながらどこかのアニメーション映画のように彼女を誘い空を揺蕩うだなんて、我ながら随分と気取ったことをしたものだ。けれどもあの日のことは今でもよく覚えていて、なまえは手が届きそうなほど近付いた星に目を輝かせ、声を弾ませながら夏油の名前を囁いた。心地よい夜風が頬をなぞり、繋いだ手の温度が溶けて。静かで穏やかな空間のなか、今日の二人のように好きなもの苦手なもの、小さなことだけれどお互いのことを少しずつ知っていって、美しい景色を共有したのだ。

 イルカのショーの時間が迫ってきたので、二人はショーの会場となるエリアまで移動した。なかは大きなホールのようなドーム状になっていて、イルカが泳ぐ大きなプールを囲むように客席が続いている。最前席は濡れるためか人は疎らで、二、三列目から中段あたりまでにカップルや家族連れがずらりと並んでいた。
 濡れるのは御免だが一応なまえに最前列にするか尋ねたのち、二人は後ろ側の席に腰かけた。レインコートを着たところで濡れるのは確実であるし、せっかく彼女が今日のために整えたゆるく波を打つ巻き髪や、うっすらと桃色に彩られたくちびるを夏油もまだ見ていたかったので内心ほっとした。するとすぐにホール内にアナウンスが流れ、ドルフィントレーナーの若い女性が壇上に立つ。そうして拍手と共にイルカショーが開始された。
 イルカが登場した瞬間、なまえはふにゃりと破顔して「かわいい」と呟いた。バンドウイルカにカマイルカがそれぞれ二体ずつ、計四体のイルカたちの特徴や名前を紹介しながらパフォーマンスを繰り広げてゆく。大きくジャンプをしながら回転したり、胸ビレを手のように左右に振ったり。そうしてざぶんと大きく水のなかに飛び込むたびに、最前席はもちろんのこと二列目あたりまで水しぶきが飛んでいた。

 水族館内にあるカフェで休憩を挟みながら、アシカとペンギン、それからカワウソのショーまで観覧し館内も回りきると、時刻は十七時を過ぎていた。帰りはなまえを家まで送るつもりだったので、二人は今朝来た道をたどりながら帰路へと着く。電車はタイミングがよかったのかそれほど混み合っておらず、帰りは座ることができた。

「あ。雨、少し収まってきましたね」

 なまえの家の最寄り駅にたどり着くと、彼女の言う通り雨足は少し弱まっていて風もほとんど吹いていなかった。時刻は日没を過ぎ、辺りは夜の気配を漂わせていて、仕事から帰宅する大人たちがちらほらと見える。夏油は自身の大きな傘を広げると、なまえの手を取って傘のなかへと誘った。

「こっちで一緒に入ろう」

 なまえは頬を染めながらも嬉しそうに微笑んで、そっと夏油の隣に寄り添った。車内で交わした水族館の話の続きをしながら、ゆっくりと彼女の家へと向かってゆく。

「今日は本当にありがとうございました。とっても楽しかったです」
「結局今日以外はほとんど勉強に付き合ってもらってばかりだったからね。今度は晴れてる日にどこか行こうか」
「いいえ、わたしも先輩と一緒だったからスムーズに宿題を終わらせられましたし……」

 どこか言い淀むなまえに夏油はちらりと彼女に視線を落とした。住宅街のなかは二人以外に人はおらず、ぽつぽつと傘の上に落ちた雨粒の音だけが響いている。すると彼女は少しの間を開けて、「夏油先輩と一緒だったら、どこでも嬉しいので」とほんの小さな声で呟いた。次第に二人の歩みはゆっくりとしたものになり、やがてぴたりと止まる。彼女の伏せられた睫毛はわずかに震え、その隙間から見えた頬は赤く染まっていた。
 夏油は傘を傾けながら上体を屈め、なまえの顎に手を添えながらそっとくちびるを重ね合わせた。驚く彼女を見つめつつ、しかし夏油はもう一度その潤んだくちびるにキスを落とす。その一瞬、音が消え、心臓を鷲掴みにされたような心地に陥って、えも言われぬ感情が内側から溢れ出すようだった。耐えるように数秒触れたのち、夏油がゆっくりとくちびるを離す。彼女は息を止めていたのか、はっと呼吸をして潤んだ瞳で夏油を見上げた。

「なまえに会えて本当によかった」

 本心だった。出会う前は、出会った瞬間は、逃げたくて仕方がなかったけれど、今は心からそう思えた。彼女が生きていて、また自分の隣で笑ってくれている。それを守るためなら、夏油はどんなことでもできるような気がした。なまえは驚いたように目を見開き、そして「わたしも傑先輩に出会えてよかったです」と、照れくさそうに夏油の名前を呼んだ。




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