星屑


 体育祭。定期考査。そして念願の夏休み。時間はあっという間に過ぎてゆく。夏油たち三年生はこの期間に夏期講習に通う者も多く、夏油もまた受験勉強に励んでいた。しかし前世、特に高専を抜けたあとは教祖活動のための独学ばかりで夏油自身が学びたかったこと(と言っても呪術師としての才を持っていた時点でそれ以外の道を選ぶ可能性はゼロに近かったのだが)もできず、知見を広げることに興味のある夏油にはそれほど苦ではなかった。初めに組んでおいたスケジュール通りに課題と勉強を進め、ときどき五条からの呼び出しに応える。そんな日々を送っていた。
 けれども今日だけは特別だった。一日のやるべきことは終わらせたものの、どこか集中できずにそわそわと落ち着きがない。何度も時計を見てはため息をついて、そのたびにぐりぐりとこめかみを押している。原因はわかりきっていた。
 先日なまえから夏祭りに誘われたのだ。受験勉強もあるからと駄目元で誘ったようなのだが、想像よりも彼女が積極的なので夏油は少しだけ驚きつつも快く返事をした。思えば前世の当時、夏油もなまえもそれどころではなく夏祭りに行ったことがなかったので、高専を抜けてからの夏、ふと行っておけばよかったと思っていたのだった。浴衣姿が見たいと言えば、彼女は少々照れくさそうにしていたものの最終的には折れてくれたので着てもらうことになっている。時空を越えて叶った願いに、前世の夏油も少しは喜ぶだろうか。今の夏油に答えはわからないけれど。

 差し込む夕日に目を細めながら夏油はなまえの姿を探した。待ち合わせの駅前には溢れんばかりの人だかりができており、普段から人混みを避けていた夏油は思わず辟易としたが、なんとか堪えて奥へと進んでゆく。大まかな場所はメッセージにて確認済みだが、周りには浴衣姿の若い女性も多くいたので、無事に彼女を見つけられるかどうか少々不安になった。
 しかしそれは杞憂に終わり、夏油はすぐになまえを見つけることができた。改札から少し離れた壁際。すっと、まるで誘われるように夏油の瞳に映し出された彼女は、周りよりも一際可愛らしく見えた。白地に瑠璃色の鞠と優雅に泳ぐ赤い金魚が描かれた、涼やかな浴衣姿。普段は下ろされている髪も、今日は頭の下のあたりでゆるくまとめられている。

「みょうじ」

 声を掛けると、彼女はすぐに顔を上げてぱっと顔色を明るくさせた。そうして夏油が「浴衣、似合ってるね」と言うと、そっと花が綻ぶように笑う。

「ありがとうございます。一年ぶりに着たので少しいびつな部分があるかもしれないですけど」
「自分で着付けしたの?」
「少し母に手伝ってもらいましたけど、一応は。なので変なところあっても見逃してくださいね」
「ううん。上手にできているよ。……綺麗だ」

 なまえは一瞬で頬を染めて、照れたように俯いた。その可憐な姿に夏油もまた少し気恥ずかしくなったものの、本心からの言葉だったので微笑むだけで留めておいた。

「行こうか」
「……はい」

 夏祭りの会場となる神社は駅からさほど遠くない場所にあり、すぐに祭囃子の音色が聞こえてきた。空気を揺らす太鼓の音と、風に乗って流れる笛の音。足を進めるごとに甘い香りや香ばしい匂いも漂ってきて、徐々に近付いていっているのがわかる。

「お腹は空いてる?」
「少しだけ」
「じゃあ着いたら軽くなにか食べようか。花火は一時間後くらいに上がるみたいだから飲み物とか買って待っていてもいいね」

 すでに辺りは薄暗くなり始めていて、道沿いに飾られた提灯がぼんやりとオレンジ色の光を灯している。そうして神社を囲むように生えた木々が見えてくると、入口に立つ大きな鳥居が二人を出迎えた。

「人が多いから気をつけて」

 鳥居を潜った先に続く長い階段を登ってゆく。周りにはなまえと同じように浴衣を着た女性やカップル、また家族連れなどが見えた。この近辺では有名な夏祭りなので、もしかすれば同じ高校の生徒もいるかもしれない。すると目の前から駆け下りてくる子供が数人見えたので、夏油は咄嗟に手を取ってなまえを引き寄せた。驚いたように見上げる彼女の後ろを、きゃらきゃらと笑う子供たちが通り過ぎてゆく。

「危ないから、このまま行こう」

 手を引くと、なまえは小さく頷いてから夏油のあとに続いた。そうして階段を登りきると、いくつもの屋台店が並んでおり人も溢れかえっている。
 夏油となまえは人の隙間を縫うように進んでいって、屋台を覗いていった。わたあめ、お好み焼き、チョコバナナ。美味しそう、と零す彼女はきょろきょろと目移りをさせて、どれを食べようか迷っているようだった。

「あ、りんご飴」
「好きなの?」
「はい。むかしは幼馴染とよくお祭りに行ってたんですけど、いつもりんご飴を買ってくれて」
「へえ。じゃあ今日も買っていこうか」

 幼馴染、ということは灰原と七海だろう。夏油はりんご飴の店までなまえを連れて歩くと、中くらいのサイズのりんご飴をひとつ購入した。慌てて財布を手に取る彼女を制して、夏油は「幼馴染の代わりに、今日は私から」とりんご飴を彼女に送った。

「強請ったみたいですみません……」
「いいんだよ。歩きながら食べるのは危ないからあとで食べようか」

 眉を下げつつも、りんご飴を手にしたなまえは嬉しそうにそれを眺めている。まるで幼い少女のようなまなざしに、夏油の表情も釣られて緩んだ。
 二人はその後、たこ焼きや唐揚げなども購入してその場で分け合って食べた。そうして最後にいちごと檸檬のかき氷をそれぞれひとつずつ選び奥へと進んでゆくと、拝殿が見えてくる。長く続いた屋台店はここで最後のようだった。

「こっちの奥に行こう」

 この神社の境内は広く、ここからもうしばらく歩いた先に本殿があって、さらに奥には森が広がっている。拝殿の奥にも人はそれなりにいるが、祭り提灯などの装飾もないので参道よりも落ち着いていた。からんころん、となまえの下駄が軽やかな音色を奏でる。先ほどよりも密度が低くなったせいか、風も涼やかに感じられた。

「実はちょっとした穴場スポットを聞いてね。そっちに行ってみたいんだけど、いい?」

 花火が打ち上がるのは境内から外れた広場の方だ。この夏祭りの公式案内でも観覧スペースと言われているのはその広場の方なので、本殿の奥までいる人は少ない。なまえは「もちろんです」と言うと、夏油のあとに続いた。
 喧騒から遠のいてゆくと、草や土の匂いがして虫の音が小さく聞こえてくる。微かに響く祭囃子の音がどこか情緒的でノスタルジックな空気を作り出していた。周りに向いていた意識が自然となまえに向いてゆき、触れた手のひらに熱が集まってゆくような感覚に襲われる。少しずつ喉も渇いてきて、最後の屋台店で見た、冷えたラムネが急に飲みたくなった。
 なまえに時折声を掛けつつゆるやかな坂を登りきると、奥に小さな社が見え、その周りには開けた土地が広がっていた。下を見下ろせるほど高くはないが遮蔽物もなく、確かに花火を見るには最適だろう。人も先ほどと比べればほとんどいない。今度五条にはなにか奢ってやろうと夏油は思った。

「本当に穴場なんですね」
「ね、全然人がいない。ここまで結構距離あったけど辛くない? 大丈夫?」
「はい。大丈夫です。ありがとうございます」

 二人は社よりも少し手前にある小さな池の方まで移動して、花火が打ち上がるのを待った。本日は雲ひとつない晴天だったので夜空も美しく、頭上には煌めく星々がいくつも浮かんでいる。辺りも薄暗いせいか下で見るよりも眩しく見えた。
 そのまま二人で星空を眺めていると、不意に小さな破裂音のようなものが三回ほど響いた。わずかに空気が震え、自然と期待が高まる。すると次にひゅうっと笛のような高い音が聞こえてくると、夏油たちの目の前に大きな花火が広がった。どおん、と大きな音がして、きらきらと瞬く。隣に立つなまえから感嘆の声が漏れた。
 大きな円状のものから、まっすぐと線を描くものまで、様々な花火が続いて打ち上がる。夏油の予想通り視界はかなり良好で、特等席とも言えるほど美しい景色だった。二人はしばらくの間、瞬く花火を見つめていた。

「先輩、あの花火はなんでしょう? ねこ? くま?」

 演出も中盤に差しかかると、ハート型や動物の形をしたユニークな花火が打ち上がるようになった。打ち上がった瞬間の方向が悪かったのか、ときどきいびつな形の花火もあったがそれはそれでなんの形か当てるのも一興である。なまえは猫のような形をした花火を指差し、夏油の方を見やった。

「うーん、パンダじゃない?」
「パンダ……? え、あれパンダですかね……?」

 真剣に考える姿に夏油が笑うと、なまえは「あ、今からかいました?」と言って拗ねたようにくちびるを尖らせる。ころころと変わる表情に夏油は可愛いな、と思いつつ、その珍しい表情にどこか胸が締め付けられるような思いがした。

「ごめんごめん、猫だと思うよ」
「先輩の意地悪……」
「ふふ、ごめんね。みょうじが素直だからつい」

 依然として拗ねた表情ではあったが、目が合うと彼女は許すかの如く眉を下げながら夏油に微笑んだ。それはまさしく愛おしむようなまなざしだった。すると次の瞬間、一際大きな花火が打ち上がる。ぱちぱちと散る眩しい火花に照らされた彼女のその姿に、夏油は一瞬にして目が離せなくなった。まるで心を奪われたように。たとえ自分に記憶がなくても、なまえに恋をする。そう確信めいた思いが夏油のなかにすとんと落ちてきた。前世を忘れられない自分のことだとか、彼女への向き合い方だとか、自分のなかに渦巻く悩みを全て投げ出してしまいたくなるほど、このまま彼女を想っていたいと思った。それほど、夏油はなまえのことを好きになっていた。
 未だ打ち上がり続ける花火は目もくれず、夏油はなまえの手を取ってそっと引き寄せた。そうしてぐらりと傾いた彼女の体を胸に抱きとめて、その背に腕を回す。驚きか緊張か、なまえの体が強ばったのを感じた。

「好きだ」

 なまえがぱっと顔を上げて、驚いたように夏油を見つめた。夏夜のぬるい空気のなかに、微かに彼女から甘やかな香りがして、脈が早くなり触れた部分から熱くなってゆく。そうして打ち上がり続けていた花火が一拍止んだところで、夏油は「遅くなってごめん。付き合って欲しい」と囁いた。すると彼女の瞳がみるみるうちに潤んでいって、たくさんの星光を映してゆく。

「……はい、もちろん。嬉しいです」

 微笑んで、頷いて。その拍子に艷めくしずくがほろりと落ちていった。刹那、花火はフィナーレを迎え、いくつもの花火が同時に打ち上がる。夜空を彩る鮮やかなそれらに、二人の視線は自然と上へと向いた。なまえのが移ったのか、腕のなかにすっぽりと収まる小さな彼女を抱きしめたとき、夏油は無性に泣きたくなった。




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