初恋


 今年の桜は例年よりも早くに満開を迎え、四月に入ったころには葉桜もちらほらと見え始めていた。夏油たちの学年はクラス替えはないためそのまま三年に持ち上がり。なまえはメッセージによると五組になったそうだ。つまり今年の体育祭は同じチームではなく、五条となまえが同じチームになるということである。この学校は二年からは大抵一組から四組までが文系で、五組から七組が理系と分かれているので(学年の選択者数によって変動はあるだろうが)なまえは理系を選択したということだ。彼女の得意分野などの話はこれまで一度もしたことがなかったが、少し意外なように感じられた。
 ちょうど数日前、下校中のなまえを偶然見つけた。いつもの友人と一緒で、なおかつ夏油から距離もあったのでわざわざ声を掛けたりはしなかったけれど、麗かな気候の舞い落ちる桜のなかを歩く姿は、それはそれは眩しく見えた。新年の挨拶のメッセージをきっかけに彼女とはときどき連絡を取っているけれど、あのころのように閉鎖的な空間で生活をしているわけでもないため、偶然校内で会うことは稀だし、わざわざ休日に会うような間柄でもない。届きそうで届かない距離。この絶妙な距離感が二人の関係性の儚さを表しているようで、夏油はそっと消えてしまいたくなるようなときがあった。もう十分ではないだろうか。なにもかも。自分はなんのために記憶を持って生まれたのだろうと、もう数え切れないほどたくさん考えたけれど、こういうことだったのではないかとさえ思えてくるほどだった。彼女は今を生きている。それは、とても大きな意味を持っていた。




 春というのは一瞬にして過ぎ去ってしまう。やわらかな日差しはすぐに爛々として、不安定だった風も青い空に吸い込まれるようにどこかへ消えてしまった。皐月。艶のある緑と白い花が目立つ、澄んだ季節だ。
 図書室に寄ると珍しくなまえの姿を見つけたので、夏油はこっそりと彼女に近づいて「や。」と小さく声をかけた。案の定肩を震わせた彼女は驚いたように振り返って、夏油の姿を確認するとほっと安堵したような表情を見せる。

「夏油先輩……もう、びっくりしました」
「ここで見かけるなんて珍しいと思って」
「あ、実は図書委員になったんです」

 人はそれほどいなかったが一応声を潜める。なまえは返却された本を所定の位置に戻していたのか、手にはまだいくつも本が握られていた。棚に並べられた本の背表紙の下部に貼られている番号を指先でなぞると、一番上に乗っていた本を差し込む。

「何時までなの?」
「これが終わったら今日は終わりです。あとは司書の方がやってくださるので」
「そう。よかったら一緒に駅まで帰らない?」
「いいんですか?」
「うん。私も今日は返しに来ただけだから」

 夏油はなまえの手に握られた本の背表紙を横から眺めて、比較的上段のなまえが届かないであろう場所の本だけ抜き取った。意図を理解したのか彼女はすぐに手を伸ばしたが、夏油はひらりとそれを躱して元の位置に戻してゆく。彼女の眉尻がふにゃんと垂れ下がった。

「すみません……」
「ううん。脚立を使うつもりだっただろう?」
「女子は大抵そうですよ」
「危ないから今後は男子に任せるといい」

 言ってもなまえはそうしないんだろうが。実際、夏油が背後から覆い被さるように本棚に手を伸ばすとすっぽりと隠れてしまうほど小柄な彼女は、困ったような表情を浮かべたまま夏油を見上げている。こういう部分はむかしと変わらないようだった。
 人のことを言えた義理ではないが、彼女は意外と頑固なところがあった。それはむかしも今も。我儘を言うタイプではないけれど、一度自分のなかで決めたことがあるとなかなか譲ってくれない。五条が以前、前世の彼女があんなに泣いているところを見たことがないと言っていたのも、そのひとつだろう。

 図書委員の業務を終え戻ってきたなまえが、ぱたぱたと急足でこちらへと向かってくる。高専の制服は年中真っ黒で暑苦しく見えるし、彼女は夏であっても防護のため長袖を着ていたので、はためくスカートと太陽の光で薄らと透けた白いブラウスはどこか新鮮だった。

「お待たせしました」
「ううん。行こうか」

 昇降口にはほとんど人もおらず、部活動に勤しむ生徒の声が遠くから聞こえるだけだった。ゆっくりと木漏れ日の下を潜り、校門を抜け、連なって歩く。すると初めてなまえを見かけたあの公園が見え始めた。

「そろそろ紫陽花が咲きますね」

 入り口に咲いた白い花を見つめながらなまえが呟く。特に深い意味があるわけでもないのに、妙に胸の奥がざわめいた。

「好きなの?」
「うーん、そうですね。好きなんだと思います」

 それから続く言葉もなく、どうにも曖昧な答えだった。入り口に差しかかるとわずかに花の甘い香りが漂う。するとぴたりと歩みを止めたなまえに、夏油もまた一歩前に出た状態で足を止め振り返った。

「みょうじ?」
「……以前話した、ときどき見る不思議な夢のこと覚えてますか?」
「……ああもちろん」
「その夢によく出るんです。紫陽花が」

 少しずつ音が遠のくような感覚に襲われて、夏油はまっすぐ立っているだけで精一杯になった。手汗が滲む。まるで彼女に直接心臓を握られているようだ。

「雨もよく降っていて……だから嫌いじゃないんです。雨も、梅雨も」
「眠れなくなるような夢なのに?」
「そうですね。でも、何度も見るってことはなにか他の意味があるんじゃないかって思うんです」

 寝不足で倒れてしまうほど、ひどい夢だ。見ない方がいいに決まっている。それでもなまえの口から語られる夢の話は、そんな感情が一切含まれていないものだった。今の彼女にとっては無関係であるそれに、当時と同じように胸を痛めている。それは夏油を傷つけるにはひどく効果があった。

「他の意味って……?」
「うんと……たとえば、忘れてしまった幼いころの記憶、とか」

 案外こういうのってひとつひとつ糸に繋がれたように連なっていて、きっかけがあると思い出したりするらしいんです。そう続けたなまえに、夏油はひどい焦燥感に駆られ「違う」と掠れた声で呟いた。それは彼女にもしっかりと届いたらしく、ハッとした表情で夏油を見上げている。

「すみません。そんな顔をさせたかったわけじゃないんです」

 どんな顔だと問えば、なまえは泣きそうな顔だと答えた。夏油は思わず口元を覆って、目を瞑る。彼女のことになると、とことん夏油は余裕がなくなった。自分だって、夏油であって夏油ではないと言うのに。

「すまない。今のは、違うんだ」
「心配してくれたんですよね。わかってます。助けてもらったことだってあるのに、呑気なこと言ってすみません」

 ひらりとすり抜けてゆく花びらのようだ。目の前にあるのに、手を伸ばせば風に揺られて飛んでゆく。違う、本当は、ただただ怖いだけなのだ。自分はなまえが思うようなできた人間じゃない。そう叫びたいのに、喉の奥から漏れたのは音にもならない掠れた空気だけだった。




 あれからなまえとは遭遇することもなく、またメッセージのやりとりもないまま梅雨を迎えた。雨粒に濡れた葉は青々しく、花は鮮やかに咲き誇っている。最後に彼女と帰った十日後には、紫陽花の花が咲き始めた。

「そんで? 気まずいからこのまま距離を置こうと?」
「倦怠期のカップルみたいな言い方はよしてくれ」

 文系と理系の教室は少し離れていて、その間には十人ほどが座れる大きなベンチがある。五条は自販機で炭酸飲料を購入すると、ベンチで項垂れるように座る夏油を見て面白そうに笑って茶化した。
 なまえとのことを話すつもりは夏油にはさらさらなかったのだが、五条が気付くほど無意識に態度に現れていたらしい。結局根掘り葉掘り聞かれ、最終的には恋愛相談みたいなことになってしまい夏油は頭を抱えたくなった。まさか自分が五条に恋愛相談をする日が来るなんて、夢にも思わなかったからである。

「あ、硝子! ね、聞いてよ。傑が拗らせてて超面白いから」

 理系クラスの廊下から家入の姿が見えると、五条は呼びつけるように大きく手を上げた。彼女はわかりやすく顔を歪め、気だるそうに二人の元へやってくる。

「あんまり大きい声で呼ぶな」
「ごめんって。でさ聞いてよ、傑のやつ」
「おい悟!」

 夏油が苛立った声を上げ五条の口を押さえたので、家入は大きくため息をついた。人は一度死んだだけでは変わらないらしい。夏油も、五条も、そして家入も。

「ああもういい。うるさい」
「いやでも真面目にさ。そんなになるなら一回話せばいいじゃん」
「……その夢は前世の記憶で私にもそれがあると? 冗談じゃない」

 雨のせいでじめじめとした空気が余計に悪くなるのを承知で、夏油は吐き捨てた。五条はそれほど気にしないだろうが、家入はこういう態度が一番気に食わないだろう。現に表情を歪めながら夏油を見下ろしている。

「別に一人で勝手に消沈するのは構わないけど、なまえを巻き込むのはやめろよ。どうせお前のことだから面倒なことを考えて塞ぎ込んでいるんだろうが、なまえには関係のないことだ」
「だから、このまま関係を断とうとしてるんじゃないか……」

 弱々しくも本音を零せるのが今の夏油だ。俯いていたため二人の表情はよくわからないが、五条の雰囲気は夏油に寄り添うものだった。

「最近よく、なまえが保健室に来る」

 夏油はぱっと顔を上げた。家入の口調は先ほどよりもわずかに和らいだものの、未だ表情は不服そうなままである。「なんで知ってるの」と夏油が問うと、「利用名簿くらいは見れる」と答えた。そういえば彼女は保健委員だったと、夏油はそのときようやく思い出した。

「寝付きが悪く夏風邪を引いたんだと。別にそれだけだったら大したことないだろうが、前に倒れてるからな。担任も気にしているらしい」
「……」
「別にお前が原因だなんてなまえは言ってないけど」

 しかし咎めるような口調に夏油は大きくため息をついた。家入はそこまで告げると、くるりと背を向けて階段を降りてゆく。家入の背に向かって呑気に手を振っていた五条が「硝子だって多分ほんのちょっとはお前のこと心配してるよ」と言った。割合的に言うと九九パーセントがなまえに対してで、夏油は残りの一パーセントくらいだろうが。

 軽快な音楽が流れるスマートフォンを耳に当て、夏油はそっと息を潜めた。五条や家入と放課後話した翌日の夜、なまえに電話をしようと決意したのだ。時刻は夜の二十一時。この時間ならまだ彼女も寝ていないだろう。突然かけるのも迷惑かと思ったが、メッセージで済ますような軽んじることはしたくなかった。
 四コール目が鳴ったところで、夏油は一瞬切ろうか迷った。しかし五コール目に差しかかるとぷつりとその音楽は止んで、代わりに「もしもし」と控えめななまえの声が聞こえて来たので、夏油は内心ほっと胸を撫で下ろした。

「急にごめん。今平気?」
「はい、大丈夫です。どうかなさいました?」

 電話越しだと彼女の声音は些か単調に聞こえた。しかし口調がゆっくりなため穏やかさがあり、すっと心が凪いでゆく。

「この間帰ったとき、空気を悪くしてしまっただろう。それを謝りたくて……。みょうじを責めているつもりはなかったんだ。これは本当だ。あんな言い方をしてごめん」

 しばらく沈黙が続いたのち、なまえは「わたしこそ、勝手に気まずくなってて……少し避けてましたすみません」と歯切れの悪い様子で呟いた。確かにあの日から一度も見かけたことがなかったので、彼女の言った通り避けながら行動していたのだろう。気を遣わせてしまったことに申し訳なさを感じながら、夏油はもう一度謝罪をした。

「本当は、みょうじがあんなに苦しむ夢なら、仮に忘れてしまった記憶だったとしても思い出さなくていいって思ったんだ……」
「……」
「思い出したら、みょうじが変わってしまうような気がして……。だからごめん、ああ言ったのも私の勝手なエゴなんだ。私は君が思うような人間じゃない。自分勝手で、自己中心的で……本当にどうしようもない奴なんだ」

 情けない気持ちになりながら、夏油は本心を吐露した。目の前にいるわけでもないのに俯いた顔を上げることができなくて、フローリングの木目をじっと見つめる。窓に打ち付ける雨の音だけが空間に響いて、夏油は色んなことが嫌になった。

「変わってしまったら、もうこうして話すこともできないですか?」

 なまえから返ってきた言葉は思いもよらぬものだった。夏油は咄嗟に否定的な言葉を呟いて、「そんなわけない」と無意識に立ち上がる。

「たとえみょうじのなにかが変わっても、私は……」

 彼女への思いが変わるわけじゃない。寸前のところで踏みとどまったお陰で告白紛いの台詞は避けられたが、思い浮かべた言葉がすっと自分のなかに溶けてゆくような感覚に夏油は硬直した。今なにか、大事なことに触れたような気がしたのだ。すると電話越しから夏油を呼ぶ声が聞こえてくる。

「あ、ごめん、今のは」
「好きです」
「……は」

 なまえは今なんと言ったのだろうか。一瞬で頭のなかが真っ白になって再び硬直すると、彼女はもう一度「夏油先輩のことが好きです」と今度ははっきりとした口調で告白した。夏油は狼狽えてスマートフォンを落としそうになった。

「え……なんで……」
「もうずっと前からです。でも夏油先輩がわたしのことをそういうふうに見てないのはなんとなくわかってます。だから、返事は大丈夫です」

 突然の告白に夏油は困惑した。なまえに対して並々ならぬ感情を抱いているとはいえ、実際彼女と同じ感情なのかと問われればそれは違うのだろう。ここで彼女の告白を受け入れて、形としては上手く収まったとしても、いつか必ず綻びが出るような気がした。そしてそれは結果的に彼女を傷付けることになる。

「でもそれは、あまりにも君に失礼すぎる。少し、考えさせてくれないだろうか」

 これが今の夏油にとって精一杯の答えだった。なまえは穏やかな口調で「はい」と告げると、こほこほと小さく咳き込んだ。夏風邪を引いてしまっていたことをすっかり忘れていた夏油は慌てて時計を見やる。電話をかけてから既に三十分以上が経過していた。

「ごめん、長くなりすぎたね。明日からゆっくり休んで」
「いえ、ただの風邪ですから。周りがちょっと気にし過ぎなだけで」

 しかし話し過ぎたせいか、わずかに声も掠れているような気がした。本日は金曜日なので明日からは学校は休みだ。少しでもよくなればいいのだが。労るように「あたたかくして寝るんだよ」と言うと、なまえはそっと夏油の名を呼んだ。

「ん?」
「あの……できたら月曜日、一緒に帰りたいです。時間空いてますか?」
「……ああ、平気だよ」
「よかった。じゃあまた月曜日に」
「うん。おやすみ」
「おやすみなさい」

 終了ボタンを押して、夏油は緊張をほぐすように大きく息を吐き出した。一体なにが起きてしまったのだろう。確かになまえのことになると余裕がなくなってしまうけれど、それにしたってこれは異常事態だ。一向に処理が追いつきそうにない。背面から無造作にベッドに倒れ込んだのち、両手の指先を合わせ親指の部分を眉間に押し当てる。しかし間違いなく夏油は浮かれた心地になっていた。物心ついたときから前世の記憶があって不自然なまま生きてきた自分が、まさか恋愛で思い悩む日が来ると思わなかったから。ましてや相手はずっと忘れられなかったなまえ。手放しで喜べるわけではないが、嬉しくないわけがない。自己評価を改めなければいけなさそうだ。自分は案外、と言うより彼女のことになると単純なただの男になってしまうらしい、と。




 降り続いていた雨が止んで晴れ間が見えると、校内の雰囲気もどこか晴れやかで活発に感じられた。月曜日の放課後、週末に控えた体育祭のために準備に勤しむ委員の生徒を眺めながら、夏油は校門の近くでなまえを待った。
 下校する生徒のなかにはもちろん顔見知りの者もいて、こぞって物珍しそうに夏油を見やった。放課後になるといつもそっと姿を消して帰るか、五条が迎えに来て帰ることが多いのでそのためだろう。いくつも向けられる視線に居心地の悪さを感じたが、ここを離れるわけにもいかないので知らぬふりをする。余談だが、他の生徒から見る夏油の印象は本人が想像しているものとは少し異なっている。

「すみません、遅くなりました」

 本日は梅雨時期には珍しくからりとした気候で気温も高いからか、なまえは頭の高い位置で髪をひとつに結わえていた。足早に駆け寄ってきた彼女が小さく頭を下げると、ポニーテールの毛先がさらりと肩から流れ落ちる。去年の体育祭以降見ることのなかった姿に、またしても単純な夏油は視線が釘付けになった。

「いいや。私もさっき来たところだよ」

 電話でのことがあったからか、二人はどこか緊張した面持ちで並んでいた。「行こうか」と夏油が校門を抜けようとしても、なまえは小さく「はい」と答えるだけで視線も交わらないまま。過去、自分がどのように彼女と会話をしていたのかわからなくなる程度には、夏油は緊張していた。

「土日はゆっくり休めた?」
「はい。お陰様で。風邪もだいぶよくなりました」
「そう。よかった」

 再び沈黙。いや決して今までも沈黙がなかったわけではないのだが、妙に意識してしまっているせいか気になってしまうのだ。それこそ前世の場合は今よりも比べ物にならないほど、こうした時間を過ごしたというのに。

「そういえば咲いたね。紫陽花」
「え?」
「この間話してくれただろう? 好きだって」

 すると途端に真っ赤になったなまえを見て、夏油は少し言い方が紛らわしかったかと後悔した。狼狽え、火照った顔を誤魔化すように道端に咲いた紫陽花を見つめる彼女に、夏油は得も言われぬあたたかな感情に満たされるのと同時に、どこか緊張がほどけたような気がした。

「それと電話のこともありがとう」
「えっ、いや……いいえ……びっくりさせちゃってすみません」
「でも嬉しかったから。すぐに答えられなくてごめん。きちんと考えたいから、少し時間をもらってもいいだろうか」

 目を見てそう言えば、なまえもまた少々気恥ずかしそうにしながらも、じっと夏油を見つめて小さく頷いた。緊張のためか顔も未だに赤いし、微かに瞳も潤んでいる。素直に可愛らしいなと夏油は思った。

 あのあと夏油はなまえを喫茶店に誘った。通学路からは少し離れているがその分普段から人も混み合っておらず、また客層も幅広く学生の二人でも落ち着いて過ごせるような雰囲気のいい喫茶店だ。夏油はアイスコーヒー、またなまえはアイスティーを注文し、向かい合わせで座る。案内された席は窓際で、白いレースカーテンの隙間から午後の日差しが二人の間に差し込んでいる。夏油のアイスコーヒーに付着した水滴がきらりと光った。

「私もね、好きなんだ。紫陽花が」

 先ほど見た公園の紫陽花を思い返しながら夏油が言った。するとなまえはガムシロップをアイスティーに注ぐと、ストローでくるくるとかき混ぜながら「それはなんとなく、そうかなって思ってました」とやさしく微笑む。夏油は意表を突かれ驚いた。

「……言ったことあったっけ?」
「ないですけど、夏油先輩よくあそこの紫陽花見てましたよね?」

 まさか見られていたのか。別に悪いことをしているわけでもないのに、夏油は「え」とグラスを掴んだまま固まる。なまえはその様子を見て控えめに笑ったのち、「でも」と困惑した様子を見せた。

「初めは嫌いなのかと思ったんです。これは少し言い方が悪いかもしれませんが、なんというか花を見るにしてはあまりにも険しい顔をしていたので……」

 決して悪口を言ってるわけじゃないですよ、となまえは焦ったように前のめりに上体を傾ける。夏油は「大丈夫。わかっているよ」と手で制してから、そうかと小さく独りごちた。そんなところまで見られていたとは思ってもいなかった。

「古い思い出なんだけど、昔見た紫陽花が忘れられなくてね。すごく綺麗だったんだ。それでときどき思い返すことがあって……もう見られないから無意識にそんな顔になっていたのかも」
「見られないって? なくなってしまったんですか?」
「うん、そう。一人で見に行こうって思ったときにはすでになくなってたんだ」

 からん、と氷の音が響いたのち、夏油は「ごめん、なんかしんみりさせちゃったね」とアイスコーヒーに手を伸ばした。俯いたままのなまえは表情こそ見えないものの、明らかに沈んだ様子に夏油は静かに後悔する。しかし不意に、緑色の瞳と目が合った。

「夏油先輩の思い出の場所にはほど遠いかもしれませんが、わたしも好きなところがあるんです。一緒に見に行きませんか?」
「……いいの?」
「もちろんです。あまり広くはないんですけど、いつも人がいなくて静かなんですよ」

 まるで夏油が静かなところを好むと、理解しているような言い方だった。しかし確かにそれは興味を引くには絶大な効果で、夏油はあっさりと頷く。すると緩やかに微笑んだなまえから、しっとりとしたやさしい視線を向けられたので少しだけ擽ったくなった。




 翌日の放課後、二人はすぐにその紫陽花を見に行った。場所はなまえの住まう地域にあるらしいのだが、駅からだと少し離れているようなので電車とバスを乗り継いで向かった。駅前はそれなりに栄えていたが、少し離れると静かな街並みが広がっていて交通量もそれほど多くない。向かう途中、この地で生まれ育ったと彼女が言っていたので、夏油は不思議な気持ちになりながら流れる景色を見た。前世の夏油が離反し、二人の少女を連れて訪れた最初の場所と似ていたからだ。
 山際に差しかかっているからか、途中から坂が多くなった。次第に乗車する人数も減っていって、ついに最後は夏油となまえ二人だけになった。終点を知らせるアナウンスが鳴る。空は薄らとオレンジがかっていた。
 バス停に降りると大きな公園が広がっていた。しかし遊具などは見当たらず、さらに上へと繋がる階段とウォーキングコースのような道だけが見える。そのためか人もほとんどいなかった。なまえは車止めをするりと抜けてなかへ入ると、階段を登ってゆく。夏油もそのあとに続いて階段を登っていった。

「本当に静かだね」
「子供が遊ぶにしてはなにもなさすぎるんですよね。だからランニングする人くらいしかいなくて……。上まで登る人はほとんど見かけないですね」
「みょうじはどうしてその場所を知ったの?」
「偶然です。気まぐれにふらふらと歩いてたらたどり着いて……あ、こっちです」

 なまえは整備された道から外れて、生い茂った木々の向こう側を指差した。よく見ると地面には踏み跡が残されていて、人が通った形跡がある。迷わず坂を登る彼女のあとを追いながら、夏油はどこか懐かしい気分になった。

「ここです」

 登り切った先に見えたのは小さな丘のようなところで、その奥に見える傾斜に色鮮やかな紫陽花が咲いているのが見えた。なまえの言う通りそれほど広くはないけれど、緑に囲まれるなか夕日に照らされたその景色は見事なものである。「綺麗だ」と率直に夏油が言うと、なまえは安心したように破顔した。

「よかった。ここまで誘っておいてあんまりだったらどうしようかと」
「私が好きだったところと、どことなく似ているよ……静かでいいところだ」

 少々感傷的になって、夏油から零れたのは随分と哀愁を含んだ声だった。場所も景色も、なにもかもが違うというのに、あの日感じたことが蘇るよう。なまえは一度夏油を見上げたが、特に言及はせず再び紫陽花に目を向ける。頬をなぞる涼やかな風のなかには夏の気配が漂っていた。


「え……幼馴染、灰原と七海って言うの……?」

 日も暮れ始めたのでそろそろ帰ろうと、バス停にて次のバスを待ちながらなまえの幼少期の思い出話で盛り上がっていると、先日聞いた幼馴染二人の名前が随分と聞き覚えのあるものだったので夏油は話を遮るようにそう呟いた。まだそうと決まったわけではないものの、偶然にしては出来過ぎている組み合わせに思わず固まる。記憶がないので当然なのだが、なまえは至って冷静に「はい、そうですけど……」と首を傾げ、夏油の顔を覗き見た。

「それがどうかなさいました?」
「ああいやごめん。むかしの知り合いに同じ名前の二人がいてね。その二人もよく一緒にいたんだ」
「そうだったんですね。すごい偶然」

 灰原くん、七海くん、と呼んでいたので異性に間違いないだろう。名前だけ同じで姿かたちは別人という可能性だってあるが、聞いた話によると灰原は明るくポジティブなタイプで七海は現実的で落ち着きのあるタイプと言ってたので、夏油はどうしても自分の想像する二人なのではないかと思わずにはいられなかった。記憶があるかないかまではわからないけれど、なんとなく二人には会いたくない。五条や家入よりも合わせる顔がないからだ。




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