玲瓏


 クリスマス当日だということと翌日から冬休みが始まることもあって、教室の雰囲気はどこか浮き立つような空気に包まれていた。授業もなかなか身が入らない様子で、最後のホームルーム中には私語も目立った。その空気にのまれたのか、あるいは昨日の五条の言葉が抜けていないのか、夏油もまたどこかそわそわと落ち着きがなかった。
 終業式を終え昇降口へ向かうと、雪が降り始めていた。ニュースではホワイトクリスマスになると予報されていたが、その通りだったらしい。わざわざ傘を差すほどでもなかったので、夏油はそのまま下駄箱に挟まれた道を抜ける。するとちょうど右側、一年生の下駄箱がある方面からなまえの姿が見えた。どうやら一人らしい。目が合った瞬間、彼女が小さく会釈をしたので、夏油は内心動揺しつつも努めて穏やかに微笑んで手を上げた。会いたかったような、そうでなかったような。しかし正面玄関を抜けるタイミング的にはほとんど同じくらいだったので、二人はそのまま横に並んだ。夏油はほんの少しだけ心が波たった。

「なんか久しぶりだね」
「確かにそうですね。あ、でもわたしつい数日前に校舎で夏油先輩見かけました」
「え、本当? 全然気付かなかったな」

 むかしから平常を装うのは苦手ではなかった。なまえはちらちらと降り落ちる雪に視線を向けながら「ホワイトクリスマスですね」とわずかに声を弾ませる。そうしてちょうど正面玄関を抜け、天井がなくなったところで折り畳み傘をスクールバッグから取り出した。そうだよな、と思いつつも、やはりあのとき戻って教室から折り畳み傘を持ってくればよかったと思った。それか傘立てから誰かのビニール傘をパクるか。このまま行くか、それとも一度戻るか。しかし待っててと彼女に言って、待たせる間柄でもないので夏油は数瞬迷った。このまま彼女とここで分かれるという選択肢は、このときすでに夏油のなかになかった。

「折り畳み傘なので小さいですけど、一緒に使いますか?」

 傘を開いたなまえが突然そう言った。夏油は一瞬驚いて、それから再びそうだよなと思った。どんな間柄であれ、自分一人だけ傘を持っていたら彼女はそう言うだろう。しかしその一瞬の間を彼女は悪い方に捉えたらしく、慌てて謝罪をして片手で顔を覆った。

「あの、ごめんなさい」
「いや、すまない。持ってない私が悪いんだ。みょうじがよければ半分借りてもいい?」
「わたしは、全然。夏油先輩こそ、嫌じゃないですか?」

 そんなの、嫌なわけがない。

「いいや、むしろ助かったよ。それ貸して」
「え?」
「私が持った方がいいだろう?」

 夏油はなまえが持っていたアイボリーの傘を奪うと、二人の頭上に差した。すると彼女は慌てて傘を持つと言い張ったけれど、夏油の身長は一八〇センチ以上あるし二人の身長差を考えれば自分が持つのが妥当だろうと丸め込めば、渋々と夏油の隣に寄り添った。わずかに脈が早くなったことには目を逸らしつつ、夏油は彼女の黒い髪を見下ろした。

 そもそも夏油は傘を差して帰ろうと思っていなかったので、できるだけなまえの方に寄せて傘を差した。実際に少し歩いてみて実感したのか、彼女は最初緊張したように口数が減ったが、校門を抜けいつもの公園に差しかかるときには少しずつ元の調子を取り戻したように見えた。

「そういえば今日は一人なんだね」
「そうなんです。いつも一緒に帰ってる子は彼氏とそのままデートに行くみたいで」
「なるほど。みょうじはなにか予定あるの?」
「わたしはなにも。昨日家族で外食してケーキを食べたので、今日は多分いつも通りですね。夏油先輩はなにか予定ありますか?」
「いや、特には。私も昨日の残りのケーキを食べるくらいかな」

 学校の最寄駅はそれなりに大きなところなので、この時期になると駅前もクリスマス仕様となり普段よりも人が多くなる。いつもであればなるべく人混みを避けた道を通るのでしっかりと見たことがなかったが、日も落ちてくるとそれなりに煌びやかな装飾が目立った。普通に登下校をしていれば何度か見たことがあるだろうに、なまえはそれらに視線を向け目を輝かせている。夏油は駅に繋がる階段の前で足を止めた。

「みょうじがよければなんだが、反対口のクリスマスツリーを見に行かないか?」

 実はちゃんと見たことがないんだ、と付け加えると、なまえは目を瞬かせたのち「行きたいです」と少し声を張り上げて返事をした。夏油はそっと胸を撫で下ろしながら傘を閉じ、階段を上がって駅の反対口へと向かう。すでに人は普段の倍以上おり歩きにくかったが、なまえといる時間が増えると思えば大して苦ではなかった。

「わ、すごい」

 出口を抜けると、すぐにクリスマスツリーは見えた。トップにはライトアップされた星が乗り、ツリー自体もオーナメントボールやライトによって華やかな装飾がされている。なまえは小さく「綺麗」と呟くと、夏油の方を見やった。

「実はわたしもライトアップされてるところはほとんど見たことがなくて。だから今日見られてよかったです」

 ざわざわとした喧騒のなかで、夏油は少しずつ音が遠のくような心地がした。なまえから目が離せない。このまま手を引いて、腕のなかに閉じ込めて、誰の目にも触れないどこか遠くの地に逃げ出したくなるような。初めて抱いた感情のはずなのに、どこか既視感に襲われるような感覚に引き込まれる。

「先輩? どうしたんですか?」

 あのときと同じ声にハッとした。固まったままの夏油に、なまえは心配そうに下から顔を覗き込んでいる。

「ごめん、想像よりも豪華だったから、びっくりして」
「イルミネーションもすごいですよね。向こう側も見てみませんか?」
「うん、行ってみようか」

 人混みのなかを抜け、二人は近くでクリスマスツリーを見た。まっすぐに見上げるなまえはあのころよりも幼さが滲んでいて、年相応に見えた。その瞬間に寂しさと安堵が夏油を襲う。
 揺れ惑う感情に嫌になるときもあるけれど、しかし結局なまえから離れることなど夏油にはできなかった。記憶を持っている時点でなまえのことを忘れられるはずがない。なかったことになどできるわけがない。彼女はあの世界の夏油にとって、かけがえのない存在だったのだから。


「年末年始はどこかに行かれたりするんですか?」

 しばらくすると雪は止んで、二人はイルミネーションを眺めながらコンビニの前であたたかいコーヒーとココアを飲んでいた。ツリーに付き合ってもらったお礼として夏油が奢ったのである。本当なら喫茶店やカフェに入る方がスマートなのかもしれないが、どの店も混んでいて入れないだろうという予想と、ただの先輩後輩の関係性でそこまで踏み込めるほどなまえに対して軽い気持ちを持っていなかったため止めた。これがただのクラスメイトの女子であれば最適な理由を付けて店へと誘えるだろうが、なまえは別だ。可能か不可能かの話ではなく、夏油自身が彼女にそうしたくなかった。余談だが、今世の夏油はそもそもクラスメイトの女子を喫茶店に誘うどころか、クリスマスツリーを見ることさえしない。

「なんだかんだ毎年ゆっくり過ごしてるかな。最近は田舎に帰るとかもなくて……。みょうじは?」
「わたしもです。あ、でも幼馴染が二人いて毎年一緒に初詣に行きます」
「へえ、仲がいいんだね」
「幼稚園から一緒で……二人は高校も同じなのでちょっと羨ましい気持ちはありますけど」
「同じ高校に行こうって思わなかったの?」
「最初は思ってました。でも何校か見学して、今の学校に行きたいって思って」
「それはどうして?」

 するとなまえは少し言葉を詰まらせてから、「進学実績とか、家から近いってところとか」と言った。実際夏油が現在の学校を選んだのも同じような理由だったので頷き、カップを傾ける。そのまま夏油は、ほう、と白い息を吐き出しながら隣を見下ろした。両手でココアを握りながら同じように白い息を吐くなまえは、紛れもなくただの女子高校生で、寒くて縮こまっているせいか記憶よりも小さく見えた。手を伸ばせば届く距離にいる。けれどそれはなまえであって、なまえではなくて。そして自分も、夏油であってそうではなくて。もどかしさが募るようだった。夏油には二人の間にできたそのわずかな隙間に、大きな壁のようなものを感じた。
 彼女と一緒になりたいとか、そんな大それたことは考えちゃいない。そもそもそんな資格は自分にはないと思っているし、ただの女子高校生となったなまえには自分のような存在は不要だとわかっているからだ。前世に囚われたままの自分など。けれども彼女を諦められる潔さがないことも、わかっていた。

「あの」

 いつの間にかこちらを振り向いていたなまえが、どこか決意じみた表情で夏油を見つめていた。寒さのせいで鼻の先がほんの少しだけ赤くなっている。イルミネーションの鮮やかな光が、彼女のつやりとした瞳のなかできらきらと瞬いていて眩しく見えた。

「ん? どうかした?」
「夏油先輩がよければ、連絡先教えていただけませんか?」
「え?」
「あ、えっと、急にごめんなさい……。年越しのメッセージとか送れたらいいなって思って」

 突然のことに驚いて少々まごつきながらも、夏油は了承してスマートフォンを出した。高校生らしいな、とどこか他人事のようにメッセージアプリのリスト追加画面を眺めて、再び記憶と重ね合わせる。その行為が今の彼女に対して失礼だと理解していても、前世の姿を無意識に追ってしまうのだ。俯くときに髪を耳にかける癖があること。待ち受け画面ロック画面がむかしと変わらずシンプルなこと。メッセージアプリのプロフィール画像が紫陽花の写真なこと。

「ありがとうございます」
「こちらこそ。そろそろ帰ろうか」
「はい。ココアごちそうさまでした」
「寒いなかごめんね。カフェとか空いてたらよかったんだけど」
「いいえ全然。ここからならツリーもイルミネーションも見えますし」

 ゆっくりと人の間を抜けながら二人は駅へと向かい、それぞれの帰路へとついた。改札口で分かれ、その背中が見えなくなるまで見送る。最後にもう一度振り返らないだろうかと見つめながら、叶って目が合ったときの胸の高鳴りといったら、まるで壊れたメトロノームのようだった。そうして反対方向の電車に乗りメッセージアプリの画面を開いたまま数駅が過ぎたころ、ちょうど彼女からのメッセージ通知が数件きて夏油は慌ててアプリを一旦閉じた。既読はついてしまっているので意味はない。まるで彼女からのメッセージを待っていたようで気恥ずかしさを感じながらも、既読をつけたまま無視もできないので再びアプリを起動する。内容は「みょうじなまえです。今日はありがとうございました」といった内容と、「クリスマスツリーを見れたのも夏油先輩とお話できたのもすごく楽しかったです」といった内容が送られてきていた。自動ドアの窓の外を眺める。するとそこにはむず痒いような喜びを隠しきれていない一人の男が映り込んでいて、夏油は慌てて大きな手のひらで口元を覆いながら彼女のメッセージに対する返事をいくつか思い浮かべた。




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