2017年 12月


 十二月中旬を過ぎると、高専内の空気も妙な緊張感に包まれた。夏油が宣言した百鬼夜行の準備のため、学校は休校。生徒たちもどことなく落ち着きがないように見えた。
 二十二日の午後三時。なまえは高専内女子寮の一室で、京都への荷造りをしていた。かつてなまえが学生だったころに使用していた部屋だ。なまえは教職員ではないが申請すれば部屋を使用することは可能なので、卒業後もこうして当時とほとんど変わらぬまま残されている。寮とは別にマンションの一室も借りているのだが、繁忙期や緊急の任務が控えている際には高専にいる方がなにかと便利なので、こうして以前使用していた部屋に寝泊まりすることが多かった。
 しかしこの部屋には思い出が詰まりすぎていた。同期三人で集まったこともあれば、家入と二人で夜通し語ったこともある。また、夏油と過ごした時間だって。
 窓際に置かれたベッドの隣に、ベッドフレームと同じ木製の小さなサイドテーブルがある。目覚まし時計や小ぶりのテーブルランプが置かれているそれは引き出しが三段備え付けられていて、一、二段目には絆創膏やメガネケース、当時よく読んでいた本などが入れられていた。また最近は昔よりも乾燥することが多く、追加で夜用のリップクリームやハンドクリームも置かれるようになった。今年の冬は、以前庵歌姫からもらったユリの香りがするハンドクリームが置かれていて、しつこくないフローラルな香りがなまえの好みだった。
 一番下の段は近ごろはほとんど開けていない。この段はいわゆる、秘密の引き出しのようなものだからだ。と言っても鍵をつけているわけでもなく、疚しいものが入っているわけでもない。ただなまえにとって、自分だけが知っておきたいこと、宝物を入れた大切な段だった。
 荷造りを中断してそっと引き出しに手をかける。見えたのは真っ白な箱だった。なまえはそれを持ち上げると、ベッドに腰かけ膝の上に置く。そうして慣れた手つきで箱を開封すれば、一番上に見えたのは同期三人で撮った写真だった。灰原雄、七海建人、みょうじなまえの順で並んだその隣には、満開の桜の木が見える。高専に入学してすぐ、校舎の前で撮った一枚だった。
 そしてその下には白い箱がもうひとつと、当時使用していたガラパゴス携帯、それと透明なガラス瓶に入れられた金平糖が入っていた。瓶のなかにはほんの少ししか残っていないため、箱を動かすたびにころころと桃色や蜂蜜色、若菜色の金平糖が転がる。十年前、夏油から土産でもらった金平糖だった。結局勿体なくなって最後まで食べきれなかったと伝えれば、彼は一体どんな顔をするだろう。




 十二月二十三日、百鬼夜行前日。当日は打ち合わせや一般人の避難作業などもあるため、東京から派遣される呪術師は前日に京都へ向かうこととなった。午前九時の東海道・山陽新幹線東京駅は、深夜からぽつぽつと降り続いている雨のせいでかなり冷え込んでおり、辺りも薄暗い。京都に着くころには止む予報だそうだが、しばらく曇天は続くらしい。なまえはホームに設置された自販機であたたかい緑茶を購入すると、悴んだ指先をあたためるように両手で包みベンチに腰かけた。

「みょうじ」

 穏やかな低音が耳に届き、なまえはそっと顔を持ち上げた。するとそこにはいつものサングラスを外した七海建人がこちらへ向かって来ており、足元に置かれたなまえの荷物に手を伸ばしていた。

「全員集まった。乗るぞ」
「え……荷物、いいのに」

 軽々と持ち上げた七海はなまえの制止も聞かず、くるりと踵を返して、高専が手配したのぞみの普通車指定席の車両へ乗り込んだ。通路を挟んだ三人席側の荷台に二人分に荷物を乗せたことから、どうやら二人は隣の席らしい。七海はなまえに窓側へ座るように言った。
 ほどなくして出発し、品川、新横浜駅を過ぎると、のぞみは速度を上げていって名古屋まで直行になる。アナウンスも次第に少なくなってゆくなか、なまえは窓に打ち付けられる雨粒を存外穏やかな気持ちで眺めていた。まるで心をあの部屋に置いていってしまったような心地だ。京都へと向かえば向かうほど、現実味が薄れてゆくような。

「寝てないだろう」

 ぽつりと、隣に座る七海が言った。なまえはゆっくりと背後を振り返って、ぼんやりとその姿を捉える。彼はわずかに眉を寄せると、なまえとは反対側の窓へ視線を向けた。

「晴れていれば富士山が見えていただろうな」
「そうだね」
「覚えているか。昔、一度だけ三人で京都へ遠征に行っただろう」

 東京校と京都校、それぞれ東と西で大まかに任務は振り分けられているが、術式や呪霊との相性によって東京校から西へ、また京都校から東へ出張任務に就くこともある。ひとつ上の学年、五条や夏油に関しては特級術師ということもあって各地に引っ張りだこだったが、なまえたちの学年はそれほど西まで行く機会は多くなかった。現在はなまえも七海も一級術師であるので様々な地域に配属されるが、当時呪術師となって一年未満だったころの三人がわざわざ京都まで行くことはとても珍しいことだった。

「覚えているよ。確かにあのときも雨だったね」
「ああ。灰原が残念がっていたな」

 遊びに行くのではなく任務だということは当時の三人もわかってはいたが、しかしいくら呪術師と言えど十五歳、十六歳の子供。その上高専には遠足や修学旅行なんてものはないため、三人はそれなりに浮かれた。任務の打ち合わせもそこそこに、東京駅で購入した駅弁やお菓子を広げ他愛ない話をした。横浜を過ぎた辺りで天気は崩れ始め、今日のように雨雲のせいで富士山は見えず、三人(特に灰原)は残念がっていたが、それでもプチ旅行気分でそれなりに楽しかった。
 白い箱のなかに仕舞われた一枚の写真を思い出す。恥ずかしがらずもっと写真を撮っておけばよかったと、もう何度目かわからない後悔をした。楽しかったことはたくさんあったはずなのに、記憶というものはどうしたって薄れてゆく。それらは決して失われているわけではないのだが、ひとつひとつ糸に繋がれたように連なっていて、きっかけがないとたどり着けなくなってゆくのだ。こうしてその日と同じような光景を目の当たりにしたり、写真を見返したりなど。なまえは七海の隣、通路側の空席を見やった。

「灰原くんだったら、どうするんだろう」

 三人のなかでも一番明るく、前向きだったのは灰原だった。どんなことがあってもひたむきに、なまえと七海を引っ張っていった。ときどき、なまえはこうして彼だったらどうするだろうと考えることがあった。夏油のことを慕っていた彼が、今この場にいたら。
 トンネルに入り、ざあっと大きな音がして窓の外が暗くなる。まるで沈黙を打ち破るように騒音が鳴り響いたが、二人の間に流れた空気は揺れることなく静寂だった。するとすぐさまトンネルから抜けて、窓の外に霧のような白っぽい景色が映る。どうやら雨は小雨になったらしい。

「目の前にある、自分ができることを懸命にやるだろう」

 頭上から降ってきた答えに、なまえは顔を上げた。七海は外の景色に目を細めながら、思い返すように遠くを見つめている。

「あいつはそんな難しいことなんて考えずに、ただひたすら今できることをやるだけだ。あのころだってそうだっただろう」
「うん……そうだったね」
「京都までまだ時間がある。眠れなくてもいいから、目を瞑って休め」

 そう言って七海は前に向き直り目を瞑った。車両の先頭テロップには「ただいま静岡駅を通過」と文字が流れている。なまえは窓の外を見つめ、それから目を閉じた。

 京都駅に到着すると、すでに雨は止んでいて視界も朝より明るかった。なまえたちは駅前に待機していた京都校に勤める補助監督に案内され、現在は京都校の大広間の一室にいる。すでにこちらで活動する呪術師たちは打ち合わせを終えているようで、顔を合わせるのは当日の朝になるそうだ。大広間のなかでなまえたちを待っていた庵は座布団の上で正座をし、ピンと背筋を伸ばした状態で口を開いた。

「相手は日没と同時に、と宣言したけど京都ここと東京ではほんの少し違うから、一応時間の早い東京の方で考えるということになったわ。まあ、とは言ってもそんなきっちり時間通りに始まるとも思えないけど」

 京都校も東京校と同じく現場の確認などに追われているのか、人の気配が少なかった。しんと静まり返る広間になまえはそっと俯き、耳を傾ける。ふと、遠くから鹿威しの音が響いた。

「場所の詳細もわからない以上、私たちは後手に回る可能性が高い。なんとなくの目星は付けているけど、なにがあるかわからないから大きく五箇所に割り振って当日任務に就くことになったわ」
「五箇所とは具体的に?」

 隣に正座する七海が問うた。

「京都駅、祇園、京都御所、金閣寺、そして伏見稲荷よ。京都御所は二条城の方も見れるように丸田町通付近まで。祇園も平安神宮から清水寺の方まで細かく割り振る予定。目的が鏖殺なら人がたくさんいるところでしょうから、京都駅が一番怪しいと踏んでいるけど……夕方には参拝時間が終了する場所もあるから」
「……なるほど」

 つまり五箇所のなかでも京都御所、二条城、金閣寺の可能性は低いと言える。振り分けの割合もそのようにしているようで、またなにかあればすぐに迎えるよう京都の地理に詳しい者が配属されているそうだ。

「なのであなたたちには主に京都駅周辺を見て欲しいの」
「わかりました」
「当日の詳細はまた明日の早朝に話すから、今日はこのあと現地まで行って具体的な範囲を見ましょう。高専が取ったホテルも確か京都駅付近だったわよね?」
「ええ。京都タワーとは反対側ですが一応駅付近です」

 結局最後まで七海が受け答えをし、簡単な打ち合わせは終了した。庵はここまで足を運んだなまえたちを労い、ひとまず自由時間を設け各自昼食やチェックインを済ませるように言った。

 大広間を抜ける際、なまえは庵に呼び止められ、現在は東本願寺の奥に並ぶ蕎麦屋に連れてこられていた。歴史を感じるような古い景観。一番混み合うお昼時を過ぎたからか、白い暖簾をくぐった店内はちらほらと常連客がいる程度で騒がしくもなく、また木のぬくもりを感じるような店内は高専で過ごし慣れたなまえにとって落ち着く雰囲気だった。白いバンダナを巻いた女性店員が壁側の一番奥のテーブル席に案内すると、庵は慣れように蕎麦をふたつ注文した。

「ここにはよく来るんですか?」
「たまにね。土日は結構混んでることが多いんだけど、今日は空いててよかったわ」

 すぐさまあたたかい蕎麦茶が置かれ、なまえは冷えた指先をあたためるように湯呑みに触れる。太陽もほんの少しであるが姿を見せ、朝よりは幾分かあたたかくなったが、本日の最高気温はこの程度だろう。
 庵と最後に会ったのは、家入とともに食事をした半年以上前のことだった。次に庵に会ったときにはあのハンドクリームの話をしようと、開封した当時のなまえは思っていたのだが、今のなまえにはそれを切り出す言葉を頭のなかから見つけ出すことができなかった。どことなく後ろめたいような気がして、まっすぐ庵を見ることができなかった。
 また庵もなまえに対しなにか思うところがあるのか、普段なら交わされる世間話を切り出そうとしなかった。厨房の方から聞こえる作業音と、他の客の話声だけが二人の間をゆっくりと流れてゆく。しばらくすると注文をしていた蕎麦が届き、二人の間には白い湯気が立ち昇り揺蕩った。

「まずはちゃんと食べること。あんた、なにかあるとすぐお腹が空いてないって言って食事を抜くでしょう」

 そんなしょっちゅう食事を抜いているつもりはなまえにはなかったけれど、お腹が空いていないのは事実だったため開きかけた口を噤んだ。庵は両手を合わせてからパキ、と割り箸を上下にそっと割って、蕎麦を数本摘んで啜る。
 お腹は空いていなかったが、庵がわざわざ連れてきてくれたのだからと、なまえも割り箸を上下に割った。細く切られた油揚げと青い葱がどっさりと入れられた蕎麦から、ほんのりと出汁の香る湯気が立ち昇っている。

「いただきます」

 一口啜るとまずは鰹出汁の豊かな風味がして、それから蕎麦の味と香りが広がった。油揚げは甘く煮付けられていて、噛んだ瞬間にじゅわっと染み込んだ出汁が広がってゆく。やさしくてほっとするような味わいだった。

「美味しいです」
「そう。よかった」
「今日、一食目でした」
「はあもうほら、言わんこっちゃない」

 一口食べてしまえばまるで食欲が戻ってきたように、なまえは二口目三口目と蕎麦を啜った。そういえばあの人も、ざるが一番だと言っていたけれど蕎麦が好きだったな、と思い出すと途端に涙が出そうだったので、無言で食べ続けた。

 日没間際の京都タワー周辺は目が眩みそうなほど人で溢れ返っていた。ここから烏丸御池付近までは高いビルやデパートなども多く立ち並び、それなりに人がいるのだと言う。約二十四時間後には、この付近に夏油が使役する呪霊が千体も現れるのだと思うと、色々な意味で恐ろしくなった。間に合わなければそれだけの人が死ぬ。その上なにによって死ぬのかも理解できぬまま、だ。ときどき、それら全てが自分たち人間から生まれたものだと思うと、やるせない気持ちになって目を逸らしたくなる。各地に千ということは、最低でも二千の呪霊を彼は取り込んだということになるのだから。
 それから各地守備地点を大まかに回り、その日はお開きとなった。結局、七海たちと宿泊するホテルへと向かう最後の最後まで、なまえと庵の間には夏油の話題は上がらなかったけれど、そもそも上がったところでなまえ自身なにを話せばいいかわからなかったので、それでよかったと思った。




 クリスマスイヴは、初めて夏油と交わった日でもあった。およそ十年経った今でも忘れることはない。やさしく触れた手のひら。焼け焦げてしまいそうなほど熱いまなざし。奥を貫かれた瞬間の言葉に形容できない感情。どこか荒々しく自分の名前を呼んだ声。思い出すと、喉の奥がきゅっと苦しくなって、あの日のように泣いてしまいそうになる。
 あの日、情事を終えたあと、なまえはぽろぽろと雨のように涙を流した。情事中にも涙ぐんでいたけれど、いよいよ本格的に泣き始めたことで夏油は驚いて慌てたように名前を呼んだ。泣いている女子を慰めるのは当時の夏油は得意そうであったし、実際のところそうだったのだが、このときばかりは余裕がなさそうになまえの様子を窺っていた。

「ごめん……嫌だった? 痛かった?」

 途中から抑えが効かなくて、と申し訳なさそうに夏油は顔を覗き込む。つい数分前までお互いの汗で湿るほど密着していたというのに、突然距離感を図るように手のひらがおろおろと宙をさまよっていた。そのときの珍しい夏油の姿に、なまえはきゅっと締め付けられるようにときめいたことを覚えている。
 泣いていてうまく話すことができなかったため、なまえはぶんぶんと頭を振って否定した。すると夏油はわずかに安堵したような表情を浮かべ、なまえの頬に触れて涙を拭う。

「無理させたね、ごめん」
「ちが、くて。うまく言えないんですけど、幸せってこういうことなのかなって思って」

 俯きながらたどたどしくも確かにそう言えば、頬をなぞる指がぴたりと止まった。そうして突然手首を掴まれ、ぎゅうぎゅうと苦しくなるほど強く抱きしめられたので、涙も突然波が引いたようにぴたりと止まった。

「っ、え?」

 次の瞬間にはくちびるが重なっていて、そのまた次の瞬間には舌を絡め取られていた。戸惑うなまえに夏油は一切の隙を与えずに、深く深く交わらせてゆく。言葉はひとつもなかったけれど、伴うようにして夏油の太い腕がきつく抱きしめるので、なまえもしがみつくように腕を回した。全身から好きだと言われているような気がしたからだ。




 朝焼けに包まれる京都の街並みは眩しくて美しい。こんなにも穏やかな気持ちで百鬼夜行当日を迎えられたのは、きっと十年前の夢を見たからだろう。いつだってなまえを支え、背中を押してくれるのは夏油の存在だった。

 日没の時刻が迫ってくると、いよいよ配置についた全員の緊張が高まっていった。各地には予め交通整備の申請をしてあって、避難もほとんど済んでいる。とはいえ呪霊がどこに現れるかは未だはっきりしていないため、安心はできないのだが。

「夏油って、あれだろ。五条悟と同期の」
「十年間、本当に殺せなかったのか?」

 このような会話を朝からもう何度も耳にしている。なまえたちがどんなに思い出があって憎めない相手だとしても、京都校の人間からすれば夏油はただの呪詛師であって敵だ。そんなことはわかりきっていたのに、言葉として聞いてしまえば、叫びたくなるほど悲しくなった。実際どうして夏油が人を殺し、高専を裏切ったのか、その真相まではなまえだって知らないしこれから先も知り得ない。けれども、それまで過ごした日々も紛れもなく現実であったことで、当時の夏油も嘘偽りなく生きていたはずだった。人を守るために戦う、やさしい人だった。いつだったか夜蛾が、「迷ったときに気付いてあげられなかった」と誰かに話していたことを思い出す。おそらくきっと、彼の身近にいた人全員が寂しさと後悔を抱えている。確かに夏油は高専を裏切ったけれど、彼と関わってきた人たちにとってはただの敵ではないのだ。

「平気か」
「うん、平気。ありがとう」

 声を掛けたけれど、七海の視線は前を向いたままだった。彼もまた、なまえのよき理解者だった。

「こうやって並んでみると、なんだか懐かしいね」
「そうだな……最後に二人で行ったのは、卒業する二日前の任務だったか」
「……よく覚えてるね」
「これが最後だろうって思っていたからな」

 七海が呪術師を辞めるという選択をしたのは卒業間際のことだった。背中を押したのは他でもないなまえだった。彼はなまえを一人にすることをずっと悩んでいたからだ。

「人生なにがあるかわからないね」
「全くだ」

 新幹線で七海が言っていたことを思い出した。灰原ならば、今できる精一杯のことをやる。そう思えば、二人じゃなくて三人でいるような心地になれた。たとえ呪霊が千体襲ってこようとも、夏油が目の前に現れたとしても。

「夏油さんが来たら、どうする」

 七海にしては珍しい質問だった。どうするもなにも、高専から用意された選択肢はひとつしかないというのに。やはり七海はなまえのよき理解者であり、やさしい人だった。
 雲の切れ間が薄らとオレンジ色に染まっている。むかし、夏油と見た空によく似ていた。二人きりで行った任務帰りのときの。初めて話したときのことも、笑い合ったときのことも、泣いたときのことも、全部全部覚えている。彼のことが大好きだったときのことを。

「大丈夫。やることは変わらないよ」




「あいつのことは僕が殺すよ」

 百鬼夜行数日前。なまえの部屋を訪れた五条は、しっかりとその言葉を紡いだ。それはなまえに対しての気遣いなどではなく、確かな宣言だった。

「はい。わかってます」

 俯いたままなまえはそう言った。痛いくらいの沈黙が続いて、決戦の日に思いを馳せる。夏油の前に立てるのは五条しかいないと、わかっているつもりでも、胸の内に蔓延るのは哀情と不安と嫉妬と悔しさだ。自分がもっと強ければ、彼の前に立てただろうか。それとも初めから、このような未来になっていなかっただろうか。自分の弱さを認めた上で受け入れたことを、誰かは逃げだと言うだろうか。本当に、このままでいいのだろうか。夏油を失って……それから。

「なまえ」

 ハッとして、なまえは五条を見上げた。彼はどこか気難しそうに眉を寄せ、手を伸ばし、それからいつの間にか自分の腕をきつく握りしめていた手をほどいた。それは怒っているようにも見えて、あっ、と無意識にくちびるから音が零れる。腕には薄らと痕が残っていた。

「あいつが歩き続けるから、俺もそうするって決めた。だから、誰になにを言われようとやめるつもりはない」
「……」
「お前は? どうする?」

 覚悟を決めろと、言われているような気がした。目線を合わせ見つめている五条の顔が、ゆらゆらと揺れている。

「どんな結末であっても、目を、逸らすことだけは、したくないです」

 たとえその結末が一生受け入れ難くとも。夏油が自ら選び、進んだ道を、踏み躙るようなことだけはしたくなかった。
 ぼやけた青が細まったような気がした。そうして五条の大きな手のひらが頭の上に置かれると、彼はひどくやさしい声で「うん」とだけ呟いた。




 まるで大きなキャンバスにオレンジやピンク、紫色の絵の具を垂らして混ぜたような幻想的な空の向こうから、黒くて小さななにかがこちらへと向かって来ていた。それらは段々と数を増やし、大きなビルの隙間を通るころには、はっきりとその姿を目視することができた。夏油の呪霊だった。場所は京都駅付近。また祇園の方でも確認できたらしい。高専側の予測は間違っていなかったということだ。

「一級以下はできるだけ一人きりにならないこと。万が一逃げ遅れた一般人がいたら直ちに避難させること。それからなるべく建物の破壊は防ぐこと。以上、各自持ち場につけ」

 掛け声とともに散ってゆく。なまえは七海の隣を走りながら、目の前の呪霊に刃を向け斬りつける。そのたびに、この呪霊とはいつどこで出会い取り込んだのかと、頭の片隅で思った。しかしそれすらも間に合わないほどの数に差しかかったとき、遠くから人の叫び声が響く。ぴたりと背後にいた七海が動きを止めた。

「いいよ、七海くん。こっちはわたしが見てる」
「いや……」
「一応わたしも一級だよ」
「そういうことを言ってるんじゃない」

 けれどももう一度劈くような悲鳴が聞こえてくると、七海は小さく舌打ちをしてから「行ってくる」と言った。なまえは七海が動きやすいように呪具を大きく振りかぶって、呪霊を遠くまで投げ飛ばす。そのときに掛け声などはなかったが、彼は瞬間素早くその場から飛び去るように駆け出していた。すぐさま襲ってきた呪霊のせいでその背中を見ることは叶わなかったが、彼ならば大丈夫だろう。それよりも自分が死なないことの方が優先だ。夏油が京都に来ていないことはすでに察していた。たとえ会えなくとも、夏油が成そうとしていた結末は絶対に見届けなければいけない。それが成功した場合でも、失敗した場合でも。五条が夏油を殺すなら自分がいいと言っているように、なまえも殺されるなら夏油がいいと思っていた。今自分がここに立てているのは、あの日夏油が救ってくれたからだ。しかしそうでなくとも、最期を迎えるなら最愛の人の腕のなかがいいと思っていたなんて、我儘すぎるだろうか。

 空が暗んでゆく。あれから戦場はいくらか北上して、渉成園の方まで来ていた。移動し続けながら次々に現れる呪霊を祓い、また次の持ち場に向かう。すでに何人かの呪術師は命を落としていて、なまえは鴨川に続く路地にて一人長い息を吐き出しながら額に滲んだ汗を拭った。
 呪霊たちも疎らに散って、目の前にいるのは残り一体だ。大きく息を吸う。そうして呪具を滑り込ませるように下から斬りつけて、体が傾いたところで首を切り、祓う。大きな塊となったそれがドンと地面に横たわり、しばらくして溶けるように消えた。
 すると遠くからもっと大きな、爆発音のような音が聞こえた。なまえは思わず肩を揺らして、音がした方へと振り返る。祇園の方からだった。しかしその瞬間、町屋の屋根を飛び移る明らかに呪術師こちらがわではない人影を捉えた。細身の男性。一瞬のことだったが確かに目が合ったはずなのに、その男はなまえに少しの関心も見せず、一目散にどこかへと消えていった。なまえもすぐさま追おうと駆け出したが、体はすでに限界を迎えていて、くらりと少しだけ眩暈がした。息が少しずつ上がり、視界の揺れもひどくなってゆく。次第に足は止まり、壁に手をついて地面を見つめる。深く息を吸って、吐いて。整えるように深呼吸をする。ふと、あれだけ騒がしかった戦場が静まり返っていることに気がついた。呪霊の咆哮も、呪術師の悲鳴や怒号も、建物が破壊される音も。なんの音もしなかった。そうして次の瞬間、つめたい風が吹いて、土の匂い、雨が降ったときのような匂いがした。

「あ……」

 確証なんてない。けれどもこの妙な静けさがなまえの不安を煽った。息を整えていたはずなのに呼吸が苦しくなって、再び眩暈が襲ってくる。激しくなる動悸。次第に指先まで震えてきて、アスファルトの上にはぽたぽたと涙が落ちていった。襲いくる喪失感にどうするべきかもわからず、なまえは蹲って嗚咽する。誰か。誰か。いいや違う、傑先輩じゃなきゃ、……傑先輩は。

「みょうじ!」

 正面から七海の声がして肩を強く掴まれると、もう一度大きな声で名前を呼ばれる。しかしなまえには、どこかその声が体をすり抜けていくような気がした。涙は止まらない。ひゅうひゅうとくちびるから空気もすり抜けていくようだった。
 傑先輩。小さくなまえが呟くと、七海はわかりやすく体を硬直させた。しん、とつめたい冬の静寂に包まれる。すると彼はなまえの肩を掴み直すと、今度は落ち着いた声で名前を呼んだ。目が熱くなって、鼻の奥がつんとして痛い。そうして彼はなまえの後頭部にそっと手を回してから、肩口にあてがうように抱きとめた。

 重い空気を打ち破ったのは、京都校に所属する呪術師の一人だった。「大丈夫か!?」となまえたちを心配した様子で駆けてきた男性に、七海は「少し無茶をしすぎたようです」となまえの顔が見えないように後頭部に回した手に力をこめた。

「生きているならよかった。こっから先は俺たちで見るから、二人は休んでから京都タワーの方へ向かってくれ」
「わかりました。それと、庵さんが今どちらにいるかわかりますか?」
「庵? 庵ならついさっき生徒と合流してこっちに向かってきていたと思うが……」
「わかりました。ありがとうございます」

 足音が遠ざかってゆくと、なまえはそっと腕から抜け出して「ごめん」と言った。先ほどよりかはいくらか冷静になれたような気がする。それでもまだどこか浮き足立つような心地は消えず、脈は早かった。

「後片付けはこちらでやる。みょうじは今から東京に行け」

 思わぬ言葉になまえは勢いよく顔を上げた。しかし七海は至って冷静で、まっすぐとなまえを見下ろしている。

「今から、行ったって……」
「それでも、行きたいだろう?」

 ひゅっと息をのんで、狼狽える。それが答えだった。そしてそれを理解しているように、七海はスマートフォンをタップすると新幹線の時刻を告げてくる。すると内ポケットに入れていたなまえのスマートフォンが震えた。五条からの着信だった。

「庵さんには私から言う。彼女も止めることはしないだろう」

 走れそうか、と尋ねた七海に、なまえは静かに頷いた。そうして五条からの着信に応答し、京都駅に向かって駆け出した。




 結局到着したときにはすでに深夜に近かったため、高専は静寂に包まれていた。街灯もほとんどない暗闇のなか、ふらふらとした足取りから次第に駆け足になってゆく。遺体はすでに五条が引き取ったらしい。それでも逸る足を止めることができなかった。
 京都からここに来るまで、様々な記憶が走馬灯のように浮かんだ。実際のところ二人で過ごした時間はほんのわずかなものであったけれど、なまえにとっては一番と言っても過言ではないほどの心に残っている時間だった。忘れたくない大切なものだった。たとえ誰かの敵であり恨まれていたとしても、否定されたとしても、たった一人の、かけがえのない大好きな人だった。
 すぐにその場所だとわかった。瓦礫の横を通り過ぎ、避難経路として使う細い路地に差しかかったとき、地面に残る血痕を見つけたからだ。誘われるように足を向け、見下ろす。壁側にはなにかが擦れたような跡が残されていた。ここで、彼は。










「みょうじのこと、もっと知りたいって言ったら、許してくれる?」
「ごめん、怒らないで」
「私はそんなに綺麗な人間じゃない」
「目、閉じないで、ちゃんと見てて」
「好きだ」



「なまえ」





 命とは、みな等しく儚いものだ。




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