2017年 冬


 狗巻と乙骨が就いた夏の任務で、ふたつの異常事態が重なった事件。その犯人が夏油だということを、なまえは五条から後日聞かされていた。彼が高専を抜けておよそ十年。逆に今までなにもなかったことが奇跡だったのかもしれないと頭では理解しつつも、なまえは五条の言葉にうまく答えることができなかった。

「数年前にお前を助けたのは、お前だったからだ。それに今だったらなまえにだってなにをするかわからない」

 自分だけではなく、五条だって複雑な気持ちには変わりないのだ。なまえは地面に視線を落としながら頷いて、きゅっと両手を握りしめた。じっとりと汗が滲む感覚は、まるで十年前のようで胸が張り裂けそうだった。

 原宿の大通りからいくつか外れた、細い路地に建つビル。その前でなまえは最小限に下ろした帳を解いて、小さく息を吐き出した。人気《ひとけ》のない路地であろうとも、こういう人が多い街で帳を下ろすのは思わぬ事故が起きたりするからだ。
 夕方であったためか、少し広い道に出たあとも人はまばらだった。古着屋や小さな飲食店が並ぶ坂を抜け、原宿通り、そして明治通りへ向かう。そこまで来れば交通量も多く、若い女性やカップルなどの姿が多く見られた。
 なまえにとって原宿は、それほど縁のない地域だった。東京で生まれ東京で育ったものの、中学時代は友人と遊びに行くなど滅多になかったことであるし、高専に入学してからも同級生と原宿に遊びに行くなんて、まずなかったからだ(灰原だったら喜んで同行しただろうが)。それこそ夏油と付き合っていたときに一度、それから数年後に無理やり五条に連れて行かれたのが数回あった程度。ちなみに後者はパンケーキとタピオカを目的に連れ回された。

「美々子どうする?」
「私これ、菜々子は?」
「えーじゃあ私これにしよ。夏油様……は食べないよね、きっと」

 竹下通りの前を通り過ぎたその一瞬、聞き捨てならない言葉が聞こえてなまえは思わず声がした方を振り返った。そこには二人の女子高生がクレープ屋のワゴン前に並んでいて、どうやら注文を決めたところのようだった。もちろんその付近にはなまえが想像した人物はいない。いくら珍しい名字とはいえ、少し過敏になりすぎたとなまえは慌てて前に向き直り、表参道の方に向かって足を進めた。今日は現地まで電車で来たため、駅の方に向かわねばならなかった。
 するとそのときパンツのヒップポケットに入れていたスマートフォンが小刻みに震えたので、なまえはわずかに速度を緩めて画面を見やった。着信相手は五条悟。珍しい人から連絡が来たとなまえは思った。

「はい、みょうじです」
「任務は無事終わった?」
「え、ええ……終わりましたけど、どうかなさいました?」

 五条からの突然の連絡になまえは戸惑った。いつものように軽口を叩くような声音ではなく真面目で、しかし淡々とした物言いだったからだ。緊急の任務であればこれほど穏やかではないだろうし、そもそも五条から連絡が回ってくるとは思えない。それに彼の質問から、その意図が全く見えなかったことも不安を煽る材料となった。なまえは行き交う人の波から外れ、道の傍らで足を止めた。

「いや、無事に終わったならいい。今どこにいる?」
「もうすぐ原宿の駅前です」

 コートやマフラーを着用した人たちが目の前を通り過ぎてゆく。防寒具が必要なほど肌寒くなった繁華街はクリスマスムード一色で、日が傾き始め、辺りが薄暗くなってくると、表参道沿いに並んだ店はあたたかな明かりを灯し、飾られたイルミネーションはちらちらと光を瞬かせた。終業時間も過ぎたためか次第に人も増え始める。ざわざわとした人声がスマートフォン越しに届いたのか、五条もすぐに納得した。

「そう。寄り道しないで帰れよ」
「わかってます」
「報告はあとでいいから、着いたらひとまず僕のところに来て」

 妙な胸騒ぎがしたのは五条の態度がおかしかったからだろうか。それとも先ほど聞いた懐かしい名前のせいだろうか。どちらにしても悪い話でないことを祈りながら、なまえは静かに「はい」とだけ答えた。流れる人の合間に見えるオレンジ色の光がやけに眩しく見えて、そっと目を閉じながら。スマートフォンを握る指先は熱を奪われ、つめたく悴み始めていた。




「……そう、傑先輩が言ったんですか?」

 事前に到着予定時間を告げると、五条はなまえがよく使う高専の出入り口の傍らで帰りを待っていた。そしてすぐさま空き教室になまえを案内すると、前置きもせずに「傑が宣戦布告をしに来た」と言った。十二月二十四日の日没。新宿と京都、ふたつの地に夏油が従える呪霊を千体ずつ放ち、一般人を鏖殺すると。

「そうだ」

 今までなにもなかったのが奇跡に近かったのだと、なまえは今年の夏に言ったことを思い出した。暴力的な言の葉が、心を切り裂くように刺さってゆく。深く息を吐き出しながら目を瞑れば、音もなく涙が溢れた。こうなる未来はもう何度も想像したはずだったのに。

「ごめんなさい」

 なまえはそう言って、頬に流れたそれを拭い取る。五条は咎めもせず、また慰めもしなかった。

「お前と七海には、京都の方に行ってもらう」

 五条はあくまでも淡々としていた。自分との感情に折り合いがついているのか、はたまた押し殺しているのか。白い包帯越しでは、なまえにはわからなかった。

「それは、決定ですか?」
「そうだ」
「……わかりました」
「言っておくけど、傑がどっちに行くかなんて誰もわからない」
「それも、わかってます」

 なまえがそっと俯くと、教室内は静寂に包まれた。雪が降っているわけでもないのに、雑音全てが消滅してしまったかと思うほど嫌な静けさだった。

「お前、死ぬなよ」

 ぽつりと呟いた五条の言葉が、空虚のなかに浮かぶ。なまえはハッとして、顔を上げた。するとそこには暗闇のなかでも透き通ったままの青い瞳が、まっすぐと自分を見下ろしていた。そのまなざしは、決して冷めてなどない。しかし不安に揺らめくこともまたなかった。
 わずかに開いた口を噤み直す。はぐらかすのは五条を傷つけると思ったからだ。五条の言う「死ぬな」とは、百鬼夜行で呪霊に殺されるなという意味も含まれているだろうが、おそらく真意はそれ以外のところを指している。現になまえは夏油がいなくなった未来からひとつの可能性を想像していたので、思わず再び俯いた。

「素直だな」
「……ごめんなさい」
「いやいい。嘘をつかれるより遥かにマシだ」

 五条はなまえの頭に大きな手を乗せて、ぐしゃぐしゃとかき乱すように撫でた。いくら五条の目がいいからと言って、嘘を見抜くことはできない。けれども救える可能性があるのなら、手を差し伸べる術をあのころよりも身につけていた。なまえは乱れた髪を整えながら、咎めるように五条を見やった。

「お前が死んだら、傑に怒られる」

 不満の声と重なるようにして、はっきりと五条は言った。昔の夏油とは違うと言ったのは彼のくせに、まるでなんでも知っているといったような口ぶりだった。けれども彼にそう言われると、どこか納得してしまう。固まった表情筋を無理やり動かして笑みを作ると、いつの間にか溢れた涙が頬の上を伝った。




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