過ちと祈り

 数年間ベルフェゴールのうしろをちょこまかとついて歩いて、うざいと言われ続けていたなまえが死んだ。それをスクアーロから廊下ですれ違いざまに聞いたとき、ベルフェゴールはほんの一瞬足を止めたものの、「あっそ」とだけ呟いて隊服のポケットに手を突っ込んだまま廊下を進んでいった。曇天の下、つめたい風がひゅうひゅうと吹いていた一月のことだった。


「お前まじでなんなの? 邪魔なんだけど」
「邪魔って、先輩なにもしてないじゃないですか」
「ホントうぜー。お前にはわかんないだろうよ」

 ある日のこと。談話室の広いソファに寝そべるようにベルフェゴールが座っていると、頭上からひょっこりとなまえが顔を覗かせた。ほとんど幹部専用とも言っていい空間になまえのような、緊張感のないちんちくりんの娘がいるのは些か異様な光景であるが、もはやそのことをわざわざ指摘するものは誰もいない。それどころか、近ごろはお茶まで出てくるようになってきたくらいであった。

「暇ならわたしとお話しましょうよー」
「暇じゃねーし話すこともねー」
「ええ〜。ベル先輩のこともっと知りたいですし、わたしのことも知って欲しいです」

 どれだけつめたくあしらってもなまえが折れることはない。まるで子供のようなやりとりだ。それをベルフェゴールも理解していたけれど、今まで一度も露骨な拒絶をしたことはなかった。なんだかんだ言って彼女は自分にはない馬鹿げた発想を持っていたし、面白いほど表情が変わって見ていて飽きなかったからだ。

「お前のことならよぉく知ってるぜ」

 だからその日も、ベルフェゴールはにんまりと口角を釣り上げて囁くようにそう言った。するとなまえはみるみるうちに頬を赤く染めて、言葉を詰まらせる。ああ本当に、おかしいったらない。こんなやりとりをもう何十回もしているのに、彼女は変わらないままでいるのだから。

「お前だと……うーん、ここか。ここをさ、サクッとナイフで切りつけると、あっという間に失血死。オレが今ナイフを持っていたらお前、死んでるね」

 指先でなまえの首筋に触れ、笑いながら告げると彼女はわずかに肩を震わせた。それからベルフェゴールはその笑みを浮かべたままなまえの体を順番に指さし、ここが一番痛いだとか、ここが一番辛くないだとか、ここを切り裂いたらお前はどうなると思う? だとか。愉快に言ってやった。すると彼女は傷ついたように顔を歪め、悔しそうに唇をきつく結んでから「先輩の意地悪!」と言って談話室から去っていってしまった。

「本当アイツの顔、うけんなー」
「まぁた、意地悪して。やりすぎると嫌われちゃうわよ」

 ため息をついたルッスーリアにベルフェゴールはちらりと視線だけ動かした。別に好かれようとも思っていなければ、そもそもなまえはこんなことで自分を嫌いになるような人間ではない。その上他人にどうこう言われるのもベルフェゴールの性格上受け入れられるはずもなく、それ以降も彼女にやさしい言葉をかけたことなどただの一度もなかった。


 そうか、なまえは死んだのか。あっさりとそれを受け入れたベルフェゴールはまっすぐと廊下を進んでからとある扉の前に立つと、ノックもせずにそのまま中へと入っていった。もちろん自分の部屋ではない。けれどもベルフェゴールにとって初めての場所でもなかった。
 本当に同じ屋敷なのかと疑うほど、明るい色彩の、野暮ったい部屋であった。テーブルの上に物は溢れかえっているし、家具はちぐはぐな柄が重なって目がチカチカする。部屋の主──なまえをそっくりそのまま表したような内装であった。騒がしい部屋だ。ぐるりと中を見渡せば、いたるところに置かれた謎のぬいぐるみと目が合う。
 ベルフェゴールはその部屋の一番奥に配置された、簡素なベッドの上に静かに腰掛けた。相変わらず寝心地の悪そうなベッドだ。スプリングの音はぎこちないし、その感触もたいしてやわらかくない。けれども彼女からよく香っていた、甘い砂糖菓子のような匂いはした。ふと、ベルフェゴールは枕元に視線をやって、思い返す。悪戯をしようと部屋へ忍び込んだとき、彼女が気配に気付くことなくすやすやと眠りっぱなしだったときのことを。そうして首筋のやわらかな素肌に、手をかけてほんの少しだけ爪の先をねじ込んだことを。
 忘れもしない。指先からとくとくと伝わる血液の流れ。このまま圧迫させて。それともいつものナイフで切りつけて。ベルフェゴールは脳内でなまえを殺す瞬間を想像した。真っ赤な鮮血が、彼女から溢れ出る瞬間を。
 どんな理不尽な殺され方をされようとも、きっと彼女はその相手がベルフェゴールであれば抵抗などしないだろう。苦痛な表情を浮かべつつも、呻き声ひとつ上げず、納得したようにそれを受け入れるのだ。ベルフェゴールには、そう断言できる自信があった。愚かなあの女のことだから、ベル先輩に殺されるなら、などとくだらないことを考えるに違いない。涙を浮かべるほど苦しいくせに。震えるほど恐ろしいくせに。それでも決して逸らしたりなどはせず、一途なまなこで自分のことを見上げるのだ。
 しかしそこまで簡単に想像できたところで、ベルフェゴールに芽生えたのは確かな怒りだった。殺した相手へのものではない。名も知らない、雑魚とも言える人間に、呆気なく殺されたなまえに対してであった。だから無駄口を叩いている暇があるなら修行でもしろと言ったのに。隙がありすぎると。お前のような弱い人間は、すぐに死に絶えるのだと。ああやはり、殺されるならあのとき殺しておけばよかった。ベルフェゴールは瞼を閉じて、あの日眠りこけていたなまえの姿を再び思い返す。陶器のようになめらかな白い素肌。月光により作られた睫毛の影。わずかに聞こえる静かな寝息。それを見下ろしながらナイフを取り出して、ぴたりと首筋に宛てがう。ゆっくりと、彼女の胸が呼吸に合わせて一度、二度、と上下した。

「チッ」

 けれどもその空想は薄い肌を突き破る前に覚めてしまった。ベルフェゴールはナイフを放り投げると、なまえのベッドに横になって天井を見つめる。やはり寝心地は最悪だ。それでも、すぐに起き上がろうとは思えなかった。
 ここしばらくは寒い日が続いていたから、あっという間に彼女の体はつめたくなっただろう。乾いた風に当てられて、土のような色に次第に変わっていく様子を想像する。

「……」

 放り投げたナイフを掴み取ってベルフェゴールは上体を起こした。そしてなまえと任務前最後に交した言葉を思い返した。場所はそれほど離れたところではない。今から急いで向かえば、一時間後くらいには到着するだろう。深く息を吸う。胸のあたりがむかむかするほど甘ったるい空気だ。本当に、お前はどこまでも自分を苛つかせる天才だった。

 それからしばらくのときが経ち、なまえの部屋は未だ当時のまま残されてベルフェゴールの第二の私室となった。ベッドフレームには磨き上げられた傷ひとつないナイフと、彼女が当時使用していたリングが置かれている。


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